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『コンテスト』(超短編小説)


   これまでの人生、特に日の目を見たことはない。自分は取り柄のないどこにでもいる人間だと思って生きてきた。

   そんな私が今、とある写真コンテストでグランプリを受賞してカメラフラッシュを浴びている。いろいろな人が入れ替わり立ち替わり私を褒めまくっている。すでに、一生分の「おめでとう」をもらっただろう。

   日本で最も規模の大きなコンテストの一つらしい。歴代のグランプリ受賞者には錚々たる顔ぶれが並んでいて、誰もがその名を知っている大御所カメラマンがいれば、女優と浮き名を流したイケメンフォトグラファーもいるし、世界的に評価されている冒険家もいる。そのメンバーに私が入るなんて誰が想像できただろうか。

   言っておくが私は「ド」が3つくらい付く素人である。プロのカメラマンを目ざしていなければ、趣味としてカメラに没頭したこともない。ただ、賞金の500万円が欲しくて宝くじを買うような感覚で応募しただけなのだ。受賞した作品とは、Y電機で購入した安物のデジタルカメラで撮影した近所の野良猫の写真である。数枚撮った中で一番マシな一枚を応募したのだが。

   審査委員長をつとめる日本森羅万象キャメラマン協会理事の森木林之介氏は「空気感が素晴らしい。この絶妙に混ざり合う光と影の加減が猫の表情を愛らしく浮かび上がらせている」と賛辞を送った。

   その他の審査委員も軒並み大絶賛であった。風景写真の第一人者として活躍中のバルス宮崎氏は「写真の構成力がすごい。被写体をど真ん中に置かず微妙にずらすことで風景と一体化させることに成功している」と語る。動物写真家として名を馳せる猪熊柔太郎氏は「猫の表情を切り取る力量にはただただ感服するばかりだ。撮り手の眼差しや動物愛が見え隠れして涙が出そうになる。歴史に残る一枚だ」と力説した。

   これだけベタ褒められると悪い気はしない。そういう具体的なコメントをもらうと、本当に、自分の撮影した写真が“ものすごい作品”に見えてくる。自分がとてつもないことをやってのけた“写真界のホープ”のように錯覚する。

   とはいえである。ドが3つ付く素人の私が、近所の野良猫を適当に撮影しただけである。その事実は、どんなベタ褒めコメントをもらおうが変わらない。そんな努力のかけらもない低クオリティな写真を、彼らは5万以上の応募作品の中からグランプリに選んだのだ。「審査する側も審査されている」と誰かが言っていたが、彼らにちゃんとした審美眼はあるのだろうか。

   そうこう考えているうちに、私の心のどこかに、審査員たちへの疑念のような感情が芽生え始めた。なんだかバカにされているような気さえしてくる。彼らは審査員をやる機会も多いだろうから、こういったコンテスト用のコメントを何パターンか持っていて、それをいい感じに組み合わせて適当なコメントをやっつけで言っているのかもしれない。

   私は、これまでの人生で目立った活躍をしたこともなく、大して褒められたこともなく、性格がひねくれてしまったのかもしれない。「謙虚」というよりは「卑屈」といった方が正しいだろう。しかし私もバカではない。自分の力量を冷静に見極める客観性は持っている。冷静に考えて、やっぱり今回の受賞はおかしいと思うのだ。

「山田さん。ステージに出て受賞コメントをお願いします」

   卑屈なことを考えているうちに、その瞬間はやってきた。今から私は授賞式の壇上で何かを話さなければならない。これは人生最大のピンチといっていいだろう。この際、全部ぶちまけてやろうか。そんなイタズラ心が頭をよぎる。私は、カメラフラッシュのおびただしい光と大音量の拍手にあふれた大海原へと出航した。

「このたびはグランプリというこの上ない栄誉にあずかりまして大変恐縮しております・・・」

   授賞式の数日後。私は、勤めている会社の上司の前で、神妙な表情をして立っていた。
「課長、ちょっとお話が」
「ん?どうした。そんな改まった顔つきして」
「自分、会社やめて、旅に出ます」
「えっ」
「決めたんです。プロのフォトグラファーになります」

   きっかけなんて何でもいい。最初は勘違いでいい。その気になったらブレーキをかけずに前に進めばいい。私は変わるのだ。卑屈で取り柄のない自己肯定感の低い人生とは今日でお別れだ。

(了)

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