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「間奏 〜 新しい曲を奏でる〜」

紅顔の哲学者を目指して#23

2024年11月21日(木)

もう11月か。と誰もがそう言い始めるそんな時期になってしまった。
あと1ヶ月ちょっとしかないのか。
まずい、今年の集大成としての論稿の草稿を完成させないといけない。
でもだいぶ、身体の体調・調子良くなったなあ。と一息いや、無限にため息をつきたい。酸欠になるからやめる。
でも、本当に今年は"はあ"という感じだった。まだ終わっていないけど「だった」。
今年の2月頃だったか、あんまあの頃のことは辛いから思い出したくはないけれども、症状が再発したんだっけ。正直症状の出始めよりも再発した時の方がきつかった。うん、本当にきつかった。まあでも、それから、いまの素敵な職場に巡り合ったおかげで、かなり回復してきた。
それも母親のおかげだろう。
まあ、それらの細かいことは今後じっくり書いていくとして、急に日記の日付が、前回の日記からぶっ飛んでいる。
4、5ヶ月くらいは飛ばしたことになる。
これまで、以前書いていた、この日記の全身である哲学日記のように、現在の僕が考えたもしくは思いついた哲学の概念だったり、考え方を書いて投稿してきた。
でもそれは、その日付に書かれたものではなく、日記上では未来の僕(つまり、現在の僕)が書いたものになるので、正確には日記ではない。つまり三つ前の日記であれば今年の5月の日記を投稿しているが、5月に書いたものではなく10月の僕が書いて、5月の日記として投稿していた。
だから当然、その時のことを思い出して書いていたし、覚えてない日の日記はしょうがないので、現在の僕が考えた哲学的な問いや日々の生活の中で気づいたこと、思ったことを書いていた。
その日記が5月10日であるから、もし現在の日付に追いつこうと思ったらえらい時間と労力がいるだろう。
そんな時間と労力のかかることは、今の僕の書力(書く力、書くための体力)や書術(書く技術)では到底成し遂げられることではないし、第一、なんか馬鹿馬鹿しいというか、時間の無駄のような気もするし、精神的な負荷や負担が大きいことに気づいた。
あと、時系列がおかしいことになってしまう。例えば5月の日記を書いていて、その時のことが思い出せず、今の僕が考えている哲学的な考察を書いたとしたらそれは5月の時点での僕の考えではなく11月の時点での考えなので、5月の時点では考えが及ばなかったことを書くことになる。そこに時間と内容の面での「差異」が生まれてしまう。
まあ、実際のとのろこんなことをぶつぶつと言ったところで、正直読んでいる人からしたらどうでも良い。だから、この日記をきっかけにもっと気楽に負担をかけずにやろうと思う。
基本的にはほぼ毎日書こうと思うけれど、書けなかったらしょうがないと割り切って前に進むしかない。(だからこそ僕のような人にとって、毎日日記を書き続けることは難しいのかもしれない。)そうしないと、自分自身が辛い。
職場の大先輩に相談したけれども、ここ数日間のうちに表層化した悩みがある。それまでは、自分の中で無意識のうちにないものとして追いやっていた、もしくは抑圧していたのだろうけれども、最近深層部に埋没していたのが、表面に浮上してきた。
それはここ数日・数週間の間、創作(書くこと)ができていなかったということだ。
結構それは僕にとっては辛いことで、いうならばお風呂に入らないようなことに近い。だから、なんだか気持ちが悪いし、とても精神的な負荷になっていた。
でも、悩みを相談したこともあってか吹っ切ることができて、今これを書き始めたという訳だ。
さっきも言ったように、前に起こったことを思い出しながら(その月のことを思い出しながら)書いていた。だから、今の日付に追いつくように半年前くらい前の日記をコツコツと書いていた。書こうと頑張っていた。
でも、それは一種の「強制力」が伴っている上に今本当に僕が望んで書きたいことではないなと今日気づいた。もちろん、それまでの日々を思い出して、最終的には現在の日付に追いつくように日記を書いていきたいと思う。
ただ、最近の僕は過去にばかり集中・固執しすぎているばかりか、今の自分が思っていること考えていること悩んでいるかもしれないことを掲示して、いや無視してしまっていた。
もちろん、過去の日の日記を書くことも大事だけれど、今の僕の考えていることを日記として形にすることはもっと重要ではないのか。それを忘れていたというか、分かっていなかった。
なので、現在を無視してしまった(見過ごしてしまった)結果、思っていたことや思いついたこと、その時のひらめきも書き記さなかったせいで、(印象深いものは記憶に残っていたとしても)他の細かい思考の数々はどっかに消え去ってしまっただろう。
その時にもし日記を書いていれば、無くさず今も大事に抱えることができていたものを、とても惜しいことをしてしまったと思う。
だから、今日からは今思っていることや考えていることは(もちろん、書きたいという気持ちが湧いた時だけで良いけれども)日記として書くなり、日記として書かなくても、どっかにメモとして書き残しておこうとたった今決心した。
今この瞬間に考えたことというのは、今この時にしか存在しておらず、時が少しでも経てば消え去ってしまう。そして、「生の流動性」と以前書いたように、身体は刻一刻と変化しているので、考えや思いも、川の流れのようにすぐに流れ去ってしまう。だから、その瞬間を記録しておくために(水は流れ去ってしまうので)写真を撮るように文章という形で記憶に収めておかなくてはいけない。
だか、あえて、他者として自分に向けて言うが、全てを書こうとはするな。そんなことできるわけはないのだから。綺麗な魚が見えた時、美しい鳥が舞い降りた時だけでいい。後は目を瞑るしかない。
頑固になりすぎるな。それこそ、「きつく」ではなく、「ゆるく」いこう。僕の哲学に対する態度も同じではなかったか。日記も同じように行こうではないか。
間奏。
これから演奏を再開しよう(新しい演奏を始めよう)ではないか。
指揮者は当然僕でいい。
自由に他の僕に演奏させよう。(自己の複数性により可能)
そして、ちゃんと指揮をして、音を奏でよう。
また明日も日記を書けるといい。
それは明日の僕に任せる。
明日は休みだから、できるだろう。
そう願って今日は眠る。

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