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down the river 第三章  第二部〜飛翔⑧〜

「あぁあ…。なんのアイディアも浮かばねぇや…。」

日曜日の昼下り、ユウは自室で安物のヘッドフォンを外して呟いた。
ユウはギターを抱えたままマグカップを手に取り、コーヒーを飲み込んだ。

時は間もなく11月。
百合子との1件から特に問題も発生していないし、真理との関係も良好だ。

「あぁっと真理に電話してみっかな…勉強の邪魔しちまうかな…。どうしよう…。」

この頃になるとポケットベル(※1)に代わり、PHS(※2)が普及し始めていた。
真里もPHSを所有しており、ユウは家に電話したり、学校で約束を取り付けなくても会いたい時に電話をして待ち合わせをする事ができた。
しかしPHSの普及と同時期に真里の大学受験準備が本格化し、中々思う様に会う事が出来なくなっていた。
ユウは自分のタイミングの悪さに苛つく日々を送っていた。

「そして平和だ…信じられないね。こうまで色んな事があり過ぎるとこういう平和まで疑っちまう。そして…」

ユウは再びコーヒーを飲み込んだ。

「んあぁ…コーヒーがやたら美味いな…。しっかし平和って奴は何も生まれねぇな。なぁんも。曲も、詞もだ。なぁんもだ…。うっ、トイレトイレ…」

ユウを急な便意が襲い、その足を急がせた。

「生まれるのはクソばかりだなぁ…平和だとクソばかり生まれるぜ…クソクソ…クソばかり…平和だとクソぉばぁかりぃ…」

訳のわからない鼻歌を歌いながら用を足したユウは自らの臀部を拭き取る。
粗方拭き終え、仕上げ拭きをする時薄いシングルのトイレットペーパーが破れユウの人差し指が肛門にピトリと触れた。
その瞬間ユウの鼻歌がピタリと止んだ。
亮子につけられた幾重にも並ぶ傷痕の凹凸がユウの指に触れたのだ。
ユウは震えながらその傷痕を指でなぞった。

『なんだよ…まだ…まだ居たのか…阿高亮子…。』

ユウはトイレットペーパーで臀部を拭く際は、その傷痕に触れない様にしていたのだ。
最初の内は意識し、その内に無意識に、自然に触れない様に身体の動きが出来上がっていた。
しかし今日、その無意識の身体の動きがバグを引き起こし古傷に触れてしまったのだ。

『へ、平和で…生まれるのはクソだけじゃねぇか…。ハハハ…』

ユウの頭の中でトラウマが蘇る。
カッターナイフの刃先が臀部の皮膚を破る「プチッ」という弾ける音、ニヤつく亮子の顔、そして亮子の眼前で内臓をえぐる敬人のたくましい男性の象徴が寒気と共にはっきりと思い出された。

「ゆ、油断しちまった…タハハ…。」

寒い季節のトイレでユウは不自然な汗を額に浮かべて息を荒くした。
息が荒いままユウはトイレを出ると自宅の電話台へ向かい、迷いなく真里のPHSへ電話をかけた。
3回ほどコール音が鳴ると真里の声がした。

「もしもし。」

「真里、勉強中だった?」

「いや、違うよぉ。これから遅い昼休みを取ろうかなって。今ね…インスタントラーメン作ろうと思ってさ。お湯沸かしてんだよ。」

「そっか、勉強は捗ってんのかい?」

「ムフフフ…新田さん、私を見くびってないかな?バッチリ捗ってるわよ。」

「おぉう。そうかそうか。流石だな。」

「…。」

「…。」

付き合いも長い2人はこうして電話で話している時も阿吽の呼吸で必ずどちらかが話しをしている。
2人揃って沈黙する事はほとんどない。
当然その様な状態になると2人はお互いに様子がおかしい事を察知する。

『なんだ?真里?元気無いのか?おかしい…。』

『新田さん?』

「なぁ真里。」

「え?うん?うん。」

「少し息抜きに会えないかな…。少しだけ。」

「えっへっへぇ…私もそう言おうかと思ったとこ。夕方少し会おうか。どうせ塾だし。新田さん時間大丈夫?」

「もちろん。塾はいつもの時間か?」

「うん…」

「じゃあ塾の隣の公園でな。」

「うん…」

「じゃあ夕方な。」

「うん…じゃあね…。」

ユウは受話器を置くと大きくため息をついた。

「平和は何も生まれない…か…。」

・・・

「江戸時代に色んな文化が開花したのは平和だったからだよ。文化って平和の上にしか築く事は出来ないと思うけどね。」

真理が通う塾から歩いて1分もかからない近くの公園で真理はユウを見つめながら、その目を輝かせて話す。
真里のファッションは厚手でサイズ大きめな真っ赤なパーカーに、細身のジーンズ、スニーカーというごく普通の出で立ちだが、スタイルの良さと低めの身長が手伝って実にキュートな仕上がりだ。

「戦乱の世じゃ何も生まれないって事か?」

ユウは煙草の煙を吐き出しながら真理に問いかけた。
ユウとは全く正反対の考えを述べてきた真理の意見をもう少し聞きたかったのだ。

「そう…だと思うよ?まぁ勿論ね、武具の文化とか、あぁっと古い話だと刀剣とかね?文化とは違うけど戦時中とかだと航空技術だとか造船技術だとかさ、エンジンだとか工業技術とかは発展する一面もあるんだろうけど、芸術とかは中々難しいんじゃないかな。生きるのに精一杯の中で芸術だとか新しい文化が生まれてくると思う?ご飯も食べられるかもわからない、いつ殺されるかもわからない中では生まれるものは少ないと思うけどな。」

「うんうん。ふぅん。なるほどね。じゃあ今の俺に何のアイディアも浮かばないのはどういう事なんだ?ただのネタ切れってヤツ?タハハ…。」

真理はユウの話にフッと軽く笑うと手を伸ばしてユウの頬に手を当てた。

「新田さんは何の為に音楽をやってるのかな?もう一度考えてみる時期なんじゃないかな。」

「何の為に…?」

「うん。瀧本さんから新田さんに変わって、音楽性もバンドの雰囲気もまるで別のものになった。そしてお客さんも凄い増えた。おかげでライブの回数もかなり増えたよね。」

「あ、あぁまぁな…。」

ユウは瀧本よりも上だという事を改めて言われて照れ臭そうに鼻の下を擦った。

「そのままでいいか、そうじゃないのかを考えるべきなんじゃないかって事。」

「え?」

ユウは鼻の下を擦る手を止めて真里の顔を見た。

「新田さんは今平和なんだよね?不安材料も無く、楽しい高校生活を送ってるんだよね?」

「ん。あぁ。」

「新田さんはプロの音楽家じゃないでしょ?芸術の為に、音楽の為に戦乱の世に飛び込む必要は無いと思うけどな。新しい音楽性にチャレンジしてみるのか、それが無理ならメンバーに作詞作曲を委ねるか、音楽を止めてしまうか、その判断をする時期だと思う。」

「…。」

「新田さん、戦乱の世とかさ、混乱、苦しみや悲しみは勝手に向こうからやって来るものよ?自らその中に飛び込んでも、向こうからやって来たものに飛び込んでも苦しむ時間は変わらない、私はそう思う。」

「…そういうものかな…。」

「平和なら平和を力一杯満喫する事も大事なこと!平和の中、いつ来るかもわからない苦しみの渦に震えていてもつまらないでしょ?新田さん、楽しく生きなきゃ!ね!?」

「真里…。」 

真理はユウの頬から手を離した。

「楽しく生きて…幸せになっても…誰も文句言わないよ?新田さん…。」

ユウはハッとした。
そう言う真里の目に涙が浮かんでいるの見えたのだ。

「ま、真里、どうしたんだ?」

「フフフ、じゃあ私…そろそろ塾行くよ?」

真理は涙を隠す様に後ろを向いた。

「真里!」

「新田さん、幸せになってもいいんだよ?楽しく生きてもいいんだよ?わかった?んじゃね!」

「真理…お前…どうしたんだよ…。」

走り去る真里の背中に向けてユウは呟いた。
夜の闇へと真理が消えていく。
その姿を見てユウは気が付いた。

『真理…お前…俺の前から消えるのか?お前…消えちまうのか?』

「真里!」

嫌な予感がユウの心を弄る。
具体性は皆無だが嫌な予感とだけははっきりとわかる。
ユウは真理を追い、走り始めた。

「ハァハァ…ど、どうしてこうなんだ?平和は何も生まれないって言った罰なのか?ハァハァ…ま、真理…。」

ユウは真里が通っている塾の前で立ち尽くした。
この近辺では比較的高いビルの1階にその塾は入っている。
中の様子は見えない。

『この世を動かしている強大な力を持った神って奴がいるなら是非とも言いたい。なんでお前はしょうもない願いを簡単に叶えて、1番の願いを叶えてくれねぇんだ?』

ユウは呼吸を整えると、その場を右往左往しながら塾が終わるのを待った。

『このまま真理は居なくなる、そんな予感しかしねぇ…。』

落ち着いていく呼吸に反し鼓動が速まっていく。

『あいつ塾に行く…んだよな…?』

ユウは頭の中に公園での真里の姿を思い起こした。
何かがおかしい事に今更気が付いたユウは間違い探しの様に真里と話しているシーンを再生した。
そしてユウは最大の異変に気が付いてしまったのだ。

『あ、あいつ…リュック背負ってねぇぞ…あいつ…塾には行ってねぇ!!』

真理とは塾に行く前によく会っていた。
その際勉強道具をパンパンに詰めた、お気に入りの赤いリュックを必ず背負っていたのだ。

「重そうだなぁ、真理、貸してよ。持ってあげる。」

「いいのよ。大丈夫!お気に入りなの!フフフ、新田さんには触らせないよぉだ!」

「コノヤロ!人の親切を!」

「アッハッハッハ!」

ユウは今まで何回も行われたこのやり取りを回想した。
そして最後の真理の笑い声が再生されるとユウの目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。

「お前…何が…何があったんだよ…。真理…。真理…。」

ユウの古傷が何故かうずく。
ビリビリと痺れる様なうずきだ。
ユウはそのうずきを堪えながら塾が終わるのを待った。
塾の間はPHSを鳴らしてくれるなという約束をしていたのでPHSに電話をかける事も出来ない。
1時間…
2時間…
ユウの残り少なかった煙草が無くなろうかという時、勉強を終えた塾の生徒達がわらわらと出てきた。

「真理…。」

わらわらと出てきた生徒達が帰っていく。
疲れた表情で自転車に乗り帰っていく者、親の車に笑顔で乗り込む者、親の迎えを待っている者、PHSで迎えを呼んでいるであろう者、様々な人間模様が見て取れる。
その中に真理はいない。

「ピッチ(※3)に電話…もうしていいかな…でも自習で残る時もあるとか…。」

ユウは右往左往しながら辺りを見回した。
塾内の照明が落ち始めた。
同タイミングで道端で親の迎えを待っていた最後の生徒が親の車に乗り込む。

「ハァハァ…ま、真理…。」

数十分後、遂に塾内の照明が完全に落ちて事務員が施錠をし始めた。

「す!すいません!」

「え?」

施錠をしていた事務員は意表を突かれてか、素っ頓狂な顔でユウの顔を見た。

「あの、中…もう誰もその…いませんか?生徒。」

「ええ。生徒さんはもうみんな帰りましたけど。なんでもう表玄関は閉めちゃいます。後は講師がまだ事務室にいますよ?入塾希望の方ですか?それでしたら…」

「あぁいや、違うんです。犬塚、犬塚真理って今日来ました?」

「すみません、出欠席の把握までしてないんです。」

「わ、わかりました…こちらこそ…すいませんでした。」

ユウは事務員に一礼すると近くの公衆電話に走っていった。

「あの顔…あの目…アレは消えちまう時の…それだ。俺の前から去った奴もこの世から去った奴も男も女も大人も子供もみんなあの顔、あの目をするんだ!!真理!真理ぃ!!」

ユウは自身の予感が外れる事だけを祈り公衆電話を目指し走った。


(※1)
通称ポケベル。通常の電話で固有の電話番号を打ち込んだ後に、五十音の配列に従って番号を打ち込むと相手のポケベルにメッセージが表示されるもの。ポケベルのメッセージを打ち込む為に駅の公衆電話は長蛇の列ができていた。90年代に流行。


(※2)
personal handy phone systemの略。
携帯電話とは異なり無線機の一種。ポケベル流行から数年後に流行し始めた。
高速移動中は通話がほぼできず、音質もあまり良くなかったが本体、通話料等が安価であった為、高校生や大学生等が利用していた。

(※3)
PHSの愛称。


※未成年者の飲酒、喫煙は法律で禁止されています。
本作品内での飲酒、喫煙シーンはストーリー進行上必要な表現であり、未成年者の飲酒、喫煙を助長するものではありません。

※いつもご覧いただきありがとうございます。down the river 第三章 第二部〜飛翔⑨〜は本日から6日以内に更新予定です。
今回6日間期間をいただきます。
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今後とも、本作品をよろしくお願いします。

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