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道なき道を切り拓いた女性外科医スーザン・ディメック〜19世紀アメリカの医療を変えた女性医師達

人は生まれる環境、時代、人種、性別を選ぶことはできない。ビル・ゲイツのいうように、「人生は公平ではない」ことは誰もが(ある程度)受け入れた上で、人それぞれの人生を送っているものと思う (1)。しかし、いつの時代、どんな環境に生まれたとしても、正常な判断力を持ってさえいれば、何が「不公平」なのかを把握して、どうやったらそれを変えられるのか考えることは出来る。19世紀当時、アメリカ医学界に公然とはびこっていた「女性差別」に果敢に挑戦し、卓越した能力で周囲を感嘆、納得させた女性医師がボストンにいた。スーザン・ディメック医師(Susan Dimock)。高校も正式に出ていなかった彼女は、その類稀なる才能で、独学でラテン語の医学書を読破、当時難しかった女性の医師になり、外科医として活躍しただけでなく、アメリカ初の看護師の養成などにもつとめた。その惜しまれた短い人生を振り返ってみたい。

スーザン・ディメック医師(Susan Dimock) (2)。ウィキペディアより引用。

アメリカの医師の男女比

近年、医療・医学の分野での女性の進出はすすんでいる。私はボストンで医学研究に携わっているが、今この領域では、女性の方が男性よりも多く、特にインターンの学部の学生は7割以上が女性という構成で、個人的には職場に女性の方が多いのは昔から全く違和感がない。近年のアメリカでは、色々なカテゴリーで多様性が増加する傾向にある。例えば、1980年には黒人医師が占める割合は3.1%、ヒスパニック(ラテン系)医師は4.3%だったのが (3)、2018年には黒人5.0%、ヒスパニック5.8%(白人は56.2%、アジア系は17.1%、ただし、不明13.7%)とマイノリティーが伸びる傾向にある (4)。しかし、アメリカの医学界がいつもこうだったわけではなく、つい最近までは相当な男性優位な社会だった。2021年、アメリカでの医師の男女比は62.9%対37.1%で男性の方がまだ多いが (5)、2018年のアメリカ医科大学協会(American Association of Medical Colleges、AAMC)の報告によると、現役の医師の56.2%は白人で、64.1%が男性となっていたが、この統計を34歳以下に限れば、白人の50.6%、ヒスパニック55.3%、アジア系52.0%、黒人の67.2%は女性となっており、若い世代ほど女性医師が多い傾向にある (6)。

この傾向は、医学部入学者の変化によるものが大きい。1980-81年、医学部を卒業した人のうち女性はわずか24.9%だったのが、2018-2019年には47.9%と、2005-2006年ごろより卒業生のほぼ半数が女性となっている。つまり、多様性が進んではいるものの、アメリカでもこの差が縮まってきたのはつい最近の話だということがわかる (7)。2022-2023年のアメリカでの医学部志望者の57%、入学者の54%が女性と、現在ではむしろ女性の方が多くなっている (8)。ハーバード大学医学部でも、2023年の入学者164人でのうち56%が女性と、現在では女性の方が多くなっている (9)。

2023年のハーバード大学医学部の教員の組成を見てみると、助教レベル(Instructor)では54%と女性が多数であるが、講師(Assistant Professor)50%、准教授(Associate Professor)38%、教授(Professor)24%と上に行くほど少なくなっている。ここでも同じ傾向、つまり、多様性が進んだのは最近、という傾向が見られる。1980年の教員の組成をみると、女性の占める割合は、助教では21%、講師11%、准教授10%、教授3%と、30年ほど前は相当な男性優位であったこともわかる (10)。大学では、昇進には数十年の時間がかかるので、教授レベルまでが半々になるにはしばらく時間がかかるであろう。しかし、そうなるのはほぼ確実と言っていい。

多様化の進むハーバード大学医学部 (11)。ハーバード大学医学部は1906年にこのボストン市ロングウッドエリアの広大なキャンパスに移転してきたが、元々は1782年にケンブリッジ市のハーバードヤードで設立された。その後、1810年により患者が多く、医師も多数居住するボストン市に移転、1906年にここに移転するまでボストン市内を転々とする。周囲には、ブリガム・アンド・ウイミンズ病院、ボストン小児病院など有力なハーバード大学関連病院がひしめいている。

19世紀中頃、急速に変わるアメリカの医師養成システム

ディメック医師が生きた19世紀中頃までのアメリカは、医療といっても、それ以前何百年もの間続けられていたのと同じレベルの治療が施されていた。医師と同列に調剤師や民間療法師もおり、外科処置は刃物を使う「床屋」でも受けられ、医療を受ける側からすれば医師にかかるのは少しお金のかかる高級な買い物という感覚だった (12)。では、医師の医療のレベルが高かったというとそうでもない。医学では、ガレノスの四体液説、つまり体液には血液、黄胆汁、黒胆汁、粘液の4種があり、それらの混合の不均衡が病気の原因という説が2000年ほど長きにわたって信じられていた。19世紀の小説によく見受けられるが、治療に当たっては体液の不均衡を是正するために瀉血(血管を切って血を抜くこと)が行われ、吐剤や下剤の処方などが行われていた (13)。

瀉血の様子。ウィキペディアより引用 (14)

こんな状況だったので、特に女性特有の婦人科の病気や出産などに関わる医療は非常にレベルが低かった。例えば、女性の病気を治すために、経血排出を促す目的でヒルを膣内に入れる治療が行われていた。当時助産師が行なっていた月経を回復するためのハーブなどの処方の方がよかったと考えられる (15)。

産業の近代化、科学の長足の進歩、南北戦争などを経て、より良い医療やアクセスが期待され、優秀な医師への社会的な要求が非常に高まっている時代だった。医学も、パスツール(細菌学、1822-1895年)、ウイルヒョウ(細胞病理学、1821-1902年)、コッホ(感染症学、1843-1910年)などが顕微鏡や生化学的な手法を使い、より科学的な手法で医学を進歩させていた。これに対応して、この時期を境に、医師の養成や免許の付与方法が大きく改善してゆく。そんな中、アメリカでは、1850年には52もの医学校があったが、教育の内容や訓練方法はまちまちで、画一的な教育基準は存在していなかった (12)。

当時の典型的な医師養成ルートは、2年程医学校に通い、4年ほどの見習いを病院でして、各州の医師免許をとる、というものだ。1791年の権利章典(Bill of Rights)によって、各州は保健についての管理責任を付与されており、1800年代には各州の医療委員会state medical boards)が医師免許を発行し始める。各州によってまちまちだが、医学校を出ていなくても、見習いだけでも免許を得ることができた。こんな状況なので、医学校への入学も厳密な基準がなく、高校卒業程度の学歴が必要だったようだ。各医学校は、学生や授業料を集める必要があったので、基準を厳しくすることには抵抗があったとされる (16)。

ハーバード大の医学部は、当時もアメリカで最高峰と見なされていたが、1869年当時、お金さえ払えれば誰でも入ることができ、大卒者は入学者のうち5分の1にすぎず、半数以上は文章が書けないという程度のレベルだった。4ヶ月の講義だけのコースを2回というカリキュラムで、筆記試験はなく、口頭試問で習得度をはかっていた (15)。各教授は授業のチケットを売って生計を立てているような状況で (17)、医学校としての体制やカリキュラムは十分整備されていたとは言いがたい。

ハーバードヤードにあるホールデンチャペル。ハーバード大学医学部が1782年に創設された時には、解剖学がここで教えられていた (18)。
向かって右の建物のハーバードホール(ハーバードヤードの建築の中で4番目に古い1764年建立)(19)の地下では、創立まもない医学部の講義がされていた。向かって左はハーバードヤードで最も古いマサチューセッツホール(1720年建立)。

ネーサン・デービス(Nathan Davis)医師は、医師を尊敬される職業とし、医療の基準をあげるためには医学校の教育基準を設定することが重要と考え、1847年にアメリカ医師会(The American Medical Association)を設立した (20)。そんなさなか、1861から1865年までの南北戦争を経て、医療の質向上が社会的に大きな要求となり、ハーバード大学では、1860年に就任したチャールズ・エリオット(Charles Eliot)総長が医学部の教育内容を徹底的に見直し、入学基準の厳格化、試験による習得度の確認、就業年数を2年から3-4年とし、あいまいな見習い制度を廃止し、訓練内容の質の向上と均一化を果たした (21)。1890年には、アメリカ医科大学協会が設立され、医学校での教育を組織学、化学や病理学などの実習中心の内容に刷新し、全国的な基準が浸透していった。1898年までには、各州に州政府医療委員会が設置され、医師免許の発行基準が厳格化されてゆく (22)。ということで、近代的な医師養成システムは20世紀の到来をまたなければならない。

19世紀中頃のアメリカの女性医師

さて、話を女性医師に戻したい。2021年現在、男性医師の方がまだ多いアメリカではあるが、産婦人科では、男性対女性の比率は39.5%対60.5%、小児科では35%対65%と女性の方がすでに多い診療科もある(23)。産婦人科疾患など、女性特有の疾患の診察や研究の推進には、女性の参画が不可欠であることは議論の余地がないだろう。しかし、19世紀中頃、アメリカ医学界は完全な男性優位だった。1860年、アメリカには55,055人の医師がいたが、女性医師は300ほどで圧倒的に少数だった (24)。例えば、19世紀の婦人科の診察は、この図のように行われていたが、これではわかるものもわからないであろう。

19世紀中頃の婦人科診察 (25)。ウィキペディアより引用

そういう社会的な事情から、「女性が女性を診察する」という要求は潜在的に高くはあった。アメリカで最も有名な女性医師といえばエリザベス・ブラックウエル(Elizabeth Blackwell)医師。ニューヨークにあったジニーヴァ医科大学(Geneva Medical College)を1849年に卒業し、アメリカで医学部を最初に卒業した女性医師となった。ブラックウエル一家はイングランドからの移民であり、彼女も後にイングランドに戻り活動したこともあり、イギリスで1859年に医籍登録された最初の女性としても知られる (26)。妹のエミリー・ブラックウエル(Emily Blackwell)医師も、ウエスタン・リザーブ医大(Western Reserve Medical College、現在のCase Western Reserve University)を1854年に卒業し、アメリカで医学部を卒業した2番目の女性医師となっている (27)。

エリザベス・ブラックウエル医師。ウィキペディアより引用 (28)。

当時、「女性は医学、医療には向かない」という偏見が支配的だった。ハーバード大学医学部の卒業生で、その後スコットランドで医学の研鑽も積んだボストンの産婦人科医ホラシオ・ストーラー(Horatio Robinson Storer)は、妊娠中絶に反対の立場をとり1800年代の中絶規制法の根拠となった人物であるが (29)、彼は、女性を評して「女性は、月ごとに変化する不確実性があり、生と死の問題を管理する責任を負うのにふさわしくない」と発言している。ストーラー医師は婦人科という専門分野を確立した大物だが、医学的に影響力のある人物がこういうトンデモ発言を大っぴらにしてしまうぐらいだから、当時の偏見は大きかった。

エリザベス・ブラックウエル医師がジニーヴァ医科大学に受け入れられたのも、大学は彼女の出願は馬鹿げていると受け取ったが、一応評決にかけることになり、男性の学生がジョークとして投票して決まってしたものだ (30)。入学後も、街では変人扱いされ、友人もできず、男性の学生や教員から様々な嫌がらせや妨害に遭いながら苦労して卒業したとう。卒業後はアメリカの病院では採用されなかったため、ヨーロッパに渡りパリの産院で見習いを続けたが、助産師としての訓練しかさせてもらえなかった。この間、結膜炎の新生児を治療している時に飛んだ膿が右目に入り失明、希望であった外科医にはなれなくなったとされる (31)。エミリー・ブラックウエル医師も、方々の医学校から拒絶された後、シカゴのラッシュ医科大学(Rush Medical College)に1853年に入学するものの、男性医学生が女性がクラスにいることを不満とし、イリノイ医学会に掛け合って彼女の学籍を1年後に取り消してしまったため、ウエスタン・リザーブ医大に転入したのだった (27)。

エリザベス・ブラックウエル医師は、女性の、女性による、女性のための医療、医学教育を目指し、1853年にニューヨークで開業。妹のエミリー・ブラックウエル医師と、後にディメック医師に多大な影響を及ぼすマリー・ザクシェフスカ(Marie Elizabeth Zakrzewska)医師の参画で1857年にニューヨーク女性・こども診療所(New York Infirmary for Indigent Women and Children)を開設する。ブラックウエル医師は女性の啓蒙活動にも熱心で、若い女性に女性の医学教育の重要性を説いて回ってもいた。1861年の南北戦争では、看護師を養成し、北軍の医療に大いに貢献。1867年にはニューヨークに女子医大を設立、イギリスに帰国後の1869年にはイギリスでフローレンス・ナイチンゲールと女子医大を設立している (31)。

マリー・ザクシェフスカ医師。ウィキペディアより引用 (32)。

さて、ディメック医師に多大な影響を与えることになる女性医師に、上記のマリー・ザクシェフスカ医師がいる。ドイツに生まれ、成績優秀で、助産師だった母親をみて医学に興味を持ち、医学書を読破していた。ドイツの助産学校(Royal Charité Hospital)を優秀な成績で1851年に卒業すると、そこで22歳で唯一の女性教授となるが、彼女を評価し後押ししていた教授の死後、教授職を追われることとなる (33)。1853年、新興国アメリカに渡航すれば女性がフェアに扱われ、医師として働くチャンスがあるとアドバイスを受けニューヨークにたどり着くが、上記のようにアメリカも大して事情は変わらず、彼女が働ける場所はなかった。それでも医師になるという希望は捨てず、エリザベス・ブラックウエル医師と巡り会い、その診療所に参画することになる。大変聡明であった彼女の働きぶりを見ていたブラックウエル医師のはからいで、1854年より当時女性に入学を許可していたウエスタン・リザーブ大学医学部 (34)で学ぶことになる。この大学は、1852年にアメリカで2番目のエミリー・ブラックウエル医師以降、ザクシェフスカ医師を含む最初の8人の女性医学部卒業者のうち6人を輩出している (35)。

ただ、女性はここでも歓迎されていたわけでは決してなく、街では住居を見つけるのに苦労し、大学では男性医学生だけでなく教員からも執拗な嫌がらせなどにあい、女性のこれ以降の入学を阻止する動きもあって、その道は楽なものではなかった。しかし、彼女は折れることなく1856年に卒業する。医師になれば職が見つかると考えてニューヨークに帰還したが、残念ながら、「女性医師」という肩書きは社会に受け入れられることはなく、就職先は皆無であった。そんなわけで、ブラックウエル姉妹と1857年にニューヨーク女性・小児診療所の開設に携わることとなる (36)。

一方、ボストンでも女性の医学教育の必要性が認識されてきており、サミュエル・グレゴリー(Samuel Gregory)医師らにより1848年に国内最初となるボストン女子医大(Boston Female Medical College、後にニューイングランド女子医大New England Female Medical Collegeとなり、1874年にはボストン大学の医学部に合併される)が設立されていた。ボストンは、今も昔もアメリカで「最もリベラル」な都市に数えられる (37)。1850年当時も、他の地域に比べればまだ進歩的な場所であった。ザクシェフスカ医師は、最初ブラックウエル姉妹の病院のための資金援助の目的でボストンを訪れていたが(今も昔もボストンには裕福層が集中していた)、このボストンで出会った奴隷解放、女性の権利を主張する進歩的な人達から称賛され、彼女自身もそんな進歩的なボストンが気に入り、新生ボストン女子医大の産科教授職として招かれることになる。

ザクシェフスカ医師は自身の経験から、医学教育には座学より実践的な実習が重要だと認識しており、ハーバード大学の改革のはるか前に解剖や顕微鏡による鏡検が重要と考え、カリキュラムの改善を図ったが、創立者のグレゴリー医師が座学中心の教育内容にこだわり意見が合わず、しまいには彼が「女性の医師にはドクターでなくドクトレス(Doctress)の称号」にすべきだと主張していたのを聞いて1861年にその職を辞している。やはり、ここでも医学界は保守的だったのだ。マサチューセッツ医師会(Massachusetts Medical Society)は1781年に創立された歴史のある会で、ここもやはり男性医師で構成されており、伝統的な医学界はやはり女性の入り込む余地がなかった (12)。また、ハーバード大学医学部は歴史も古く、保守的な側面もあり初めての女性の医学生を迎えたのは1945年と国内でも最も遅かった部類に入る (38)。

最初ニューイングランド女性・こども病院は、ボストンダウンタウンのニーランド通りとワシントン通りの交差点あたりに開設された。現在では、右に中華街が、左に劇場などがあるシアター区域になっている。

こんな自身の経験から、ザクシェフスカ医師は1862年7月1日に女性医師が性別だけで差別されないという目的で、ニューイングランド女性・こども病院(New England Hospital for Women and Children)を開設することとなる。病床10床でのスタートだった (36)。病院の目的は3つ。女性による女性のための医療。女性への医学教育。看護師を正式な職業として養成すること。女性による女性のための病院としては、ブラックウエル医師姉妹のニューヨーク女性・こども診療所についで国内2番目であった。ここでは、教科書を読む座学ではなく、実践的な実習が重視されていた。

才女スーザン・ディメック登場

スーザン・ディメック医師は、1847年にノースキャロライナ州ワシントン市に生まれた。両親は教師で、母親は家計の足しとしてホテルも経営していた。当時のノースキャロライナは奴隷州で保守的、人口の約半数は黒人だった。スーザンは読書が好きで、算数や英文法が得意な利発な少女であったという。ノースキャロライナでは当時女性の教育は重視されていなかったが、母親のメアリー・マルビナ(Mary Malvina Dimock)は、女性の教育に情熱があり、自ら女性のための学校も設立している。

スーザンは10-11歳の時より、医学に興味を持ったようだ。母親と叔母の経営するホテル(Lafayette Hotel Washington North Carolina)に居住していたが、斜向かいには開業していたソロモン・サッチウエル(Solomon Sampson Satchwell)医師がいた。彼は後に、1872年に彼女にノースキャロライナの医師免許を付与するのを手伝っている (38)。サッチウエル医師は、スーザンの人並みならぬ才能に気付き、積極的に彼女の勉強を手伝った。本を貸したり、診療の手伝いをさせて、往診時には一緒に馬車に乗って助手もさせていたという。13歳ごろには、ラテン語をほぼ独学で習得し、ラテン語で書かれた医学書(Materia Medica)を読んでいたのを近所の人が回想している。この頃、植物のエキスで友人の歯痛の治療を施したりしていたらしい (39)。

1888年に使われていたマサチューセッツ総合病院の救急車 (67)。後ろに見えるのはブルフィンチ棟とエーテルドーム。馬車は1900年ごろには自動車に置き換わっていった。

さて、1861年に始まった南北戦争はスーザンの運命を大きく変えてゆく。1862年、ワシントンは北軍に占領されるが、その数ヶ月後、1863年に父親が亡くなり、1864年に北軍が退却する混乱の中おこった大火で (40)、一家の経営していたホテルも焼失し、一家は経済的に困窮する。一家は、叔母のマリア・マン(Maria Dimock Mann)を頼り、マサチューセッツ州スターリング(Starling)、その後ホプキントン(Hopkinton)に引っ越してゆくこととなる。

ホプキントンは植民地時代の1715年に成立した伝統ある美しい町だ。2015年、300年を迎えた。電柱のサインに300年の記念が見える。
ホプキントンといえば、ボストンマラソンの起点の街としても有名 (66)。スタート地点には、出発の号砲の銅像が建てられている。

南部より進歩的であったマサチューセッツ州で、スーザンはその後の人生に影響を与える人達と出会うことになる。叔母のマリアはかなり進歩的な考え方を持っており、夫のダニエル(Daniel Mann)は歯科医であった。ここでの交友関係から、奴隷制度廃止論者であるウイリアム・ガリソン(William Lloyd Garrison)や、個人主義的無政府主義者で軍人でもあったウイリアム・グリーン(William Batchelder Greene)大佐と、その娘ベッシー(Elizabeth “Bessie” Greene)などとも出会う。ベッシーはすぐにスーザンと大の仲良しになり、その後長くにわたり親友としてスーザンを支えることになる。この親友ベッシーは、北軍で最初の黒人部隊マサチューセッツ義勇歩兵第54連隊を指揮し、やはり奴隷制度廃止論者だったロバート・グールド・ショー大佐(Robert Gould Shaw)(41) を従兄弟に持っている。

マサチューセッツ州議事堂前にある、54連隊を称える碑。中央にショー大佐が描かれている。2022年6月、修復作業が終わり、ボストン市長がお披露目をした (42)。
ショー大佐はハーバード大学の卒業。ハーバードメモリアルホールは、南北戦争の犠牲者となった関係者のために建てられた。ハイビクトリアンゴシック(High Victorian Gothic)建築だ。ここでは、イグノーベル賞の授賞式も行われることで知られる (43)。
戦没者のリストには、ショー大佐の名前も見える。

母親は、教育に熱心ではあったものの、当時の社会的な通念から、女性は医師にはなれないから、自分のように教師になるのが良い、と諭したと言われる。この頃、女性教師は広く受け入れられていた。上記のブラックウエル医師も、同様の経緯で最初は教師として働き始めている。ただ、ズーザンの医学熱は衰えることはない。ここでもジェファーソン・プラット(Jefferson Pratt)医師という地元の名士に知り合い、ホプキントンで女子校に通いながらも医学書を大量に読破する。1865年には、実際にここで教師としても働いたものの、スーザンの才能を目の当たりにしていたこれらの進歩的な人達の後押しで、ザクシェフスカ医師を紹介され、医学の道に入ってゆくこととなる (12)。

スーザン、いよいよ医師としてのキャリアをスタートする

1866年1月、18歳のスーザンは女性の社会進出を支持する進歩的な親友ベッシーや周囲の援助もあり、ザクシェフスカ医師の設立したニューイングランド女性・こども病院にインターンとしての参入が許される (43)。ザクシェフスカ医師が、ドイツ語なまりの英語でせっかちに喋り、ドライで厳格な職業人という印象なのに対し、スーザンは南部なまりで可愛らしく穏やかな印象だったという (12)。見た目は大きく違うが、深い医学知識や医療に真摯に打ち込む情熱は2人を結びつけた。スーザンはこの時には大学はおろか、正式に高校の卒業もしていなかったが、彼女の高い能力は誰の目にも明らかだったという。2年ほど経過した1867年、彼女に最高峰の医学教育を受けさせたいと願ったザクシェフスカ医師の勧めで、同じく優秀なクラスメートのソフィア・ジェックス・ブレイク(Sophia Jex-Blake)と共にハーバード大学医学部に出願する。ハーバード大学医学部は、1846年エーテルを使った全身麻酔を成功させるなど、当時国内最高峰と目されていた医学校だった (44)。

ハーバード大学医学部の入学不許可の手紙。Petroらの論文より引用 (12)。

だが、スーザンのハーバード大学医学部の出願は拒否されてしまう。1ヶ月後の大学よりの返事には「当大学のどの部門も、女性を教える規定はない」との理由が書かれていた (12)。ザクシェフスカ医師だけでなく、聡明なスーザンを見ていたハーバード内の医師の中にも、彼女を支援していた人たちがいる。マサチューセッツ総合病院外科のサミュエル・カボット(Samuel Cabot)医師、マサチューセッツ眼・耳鼻科診療所耳鼻科医のエドワード・クラーク(Edward Hammond Clarke )医師などだ。クラーク医師は1873年に女性の医学教育についてベストセラーも出している。この医師たちは、スーザンには最高の医学教育を受ける権利があると考えていた。1867年、スーザンとソフィアは、マサチューセッツ総合病院でのインターンシップを許可されるが、見学の範囲が制限されるなどかなりの制約があり、かつその頃女性の医学部入学や病院でのインターンに49-7の評決で反対したマサチューセッツ医師会の圧力により、このインターンシップは8ヶ月後に中断してしまう (43)。

ハーバード大学医学部は、1847年から1883年まで、マサチューセッツ総合病院(Massachusetts General Hospital)の前に設置されていた (45)。左の白い建物は、今も残る病院のブルフィンチ棟。右側のレンガの建物は、今は残されていないがハーバード大学医学部の建物だ。
マサチューセッツ総合病院は1811年に設立され、今でもハーバード大学医学部最大の関連病院としてアメリカ医療の中心的存在。中央は今も残るブルフィンチ棟。ここで1846年、エーテルを使った全身麻酔が世界に先駆け行われた (46)。当時新進気鋭の建築家チャールズ・ブルフィンチ(Charles Bulfinch)により設計された。彼はこの後、国会議事堂などを設計する。
マサチューセッツ総合病院内のエーテルドーム (Ether Dome)。当時、新しい医療や手術は衆目の前でデモンストレーションすることで認められたため、多数の人が見下ろせるようになっている。ここでエーテル麻酔も行われた。
マサチューセッツ総合病院に今も残される、当時のチャールズ川岸の石垣の1部。チャールズ川は埋め立てられて今では河岸はかなり離れた場所にある。ここから、船で運ばれてきた患者を病院にあげていた。

スーザン、医学の修得にヨーロッパに渡る

そうこうしているうちに、スーザンにチャンスが訪れる。スイスのチューリッヒにあるチューリッヒ大学の医学部が女性を受け入れる、と聞き、1868年、直ちに出願し入学を許可されることになる。彼女の入学願書には、性別関係になく女性が医学的能力を基準に教育されることを確認したい旨の文章が残されている。1868年、チューリッヒに到着したスーザンはまずドイツ語を数ヶ月で習得する。チューリッヒはドイツ語圏であったので、授業がドイツ語で行われていたからだ。スーザンはここでもその高い能力を遺憾なく発揮し、周囲を驚嘆させ、通常修業に5年強かかるところを優秀な成績を収め1871年に3年で卒業している。40人ほどのクラスメートの中には、ロシアから2人、スコットランドから1人、イングランドから1人、ウェールズより1人、スイスから2人、そしてアメリカから1人という多国籍な7人の女性がおり、「チューリッヒセブン」と呼ばれ、各女性は卒後後各国で大活躍していくこととなる。上記の通り、当時のハーバード大学医学部は、アメリカでは最高峰の医学校と考えられていたが、教育レベルはヨーロッパの後塵を拝していた。当時のエリート医師は、その遅れを埋め合わせるためにヨーロッパに数年留学することが一般的であったので、ハーバードにいくよりもスーザンにとってはかえって良い結果となった (12)。

スーザンにとっては充実して幸せな医学生時代だったようだ。クラスメートであり、同居もしていたスイス人のマリー・ハイムベクトリン(Marie Heim-Vögtlin)は、スーザンを、アメリカ北東部の気骨と南部の魅力を持ち合わせており、成熟し思慮深い反面、あどけなさが残る穏やかさがある、と評している。

さて、卒業後、経済的には余裕がなかったものの、友人や家族からの資金援助で、ウイーンそしてパリで修行を積むことにする。ウイーン訪問の目的は、当時最高峰と呼び名の高かったクリスティアン・ビルロート(Christian Albert Theodor Billroth)ウイーン大学外科教授の手術を学ぶことだった。イギリス訪問時には、フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale)看護師にも会っており、後々の看護師養成のきっかけになったと考えられる。ウイーンでで会ったマルクス・フンク(Marcus Funk)医師は、「女性が医学を学んで実践できるのかという問いは、スーザン・ディメック医師の出現によって完全に解決された」と評し、彼女の能力を高く評価している。スーザンは、ここで出会った友人と、1975年7月にもう一回チューリッヒで再会することを約束し、母国アメリカに帰るのであった (12)。

ディメックセンター(Dimock Center)(47) に残されているディメック医師の肖像。

スーザン・ディメック医師、母国アメリカで大活躍す

ディメック医師は1872年にアメリカに帰国、直ちにザクシェフスカ医師の開設したニューイングランド女性・こども病院に戻り、1872年の8月20日より勤務を始める。この年、本病院はボストン市ロックスバリーの9エーカー(東京ドームぐらいの広さ)ほどの閑静な敷地に新しい病院を開院したばかりだった。当時、ボストン界隈で唯一産婦人科と小児科が同じ建物内にあるという画期的な病院だった。病院に寝泊まりしている医師はディメック医師だけであり、主任外科医としての仕事のほか、多くのインターンの学生の指導や、アメリカで初めてとなる看護師養成プログラムを開設し、かなりのハードワークだったようだ。それに加え、ディメック医師はこれまでの学費を返済するため、ボストンのダウンタウンで産婦人科の開業もし、患者を診療していたという (12)。

今も、コミュニティ・ヘルスセンター(ディメックセンター)として残る旧ニューイングランド女性・こども病院。中央を走る通りは、元々はコドマン通り(Codman Street)と呼ばれていたが、ディメック医師の業績をたたえ、彼女の死後ディメック通り(Dimock Street)となった。

病院の秘書を務め、この病院の総長にもなるエドナ・チェイニー(Ednah Dow Cheney)は、ディメック医師の最初の患者は黒人の妊婦だったという。彼女は、生まれた女の子のゴッドマザー(キリスト教カトリックで、霊魂上の親として子供を保護する役割を担う、実親でない信者)となり、ノースキャロライナ時代から大切に持っていた唯一の人形をあげたとの回想している。

欧州より帰国したディメック医師は、最新の知識と技能で病院の医療を革新してゆく。一例として、当時のアメリカでは、患者の体温を経時的に記録していなかった。もちろん、感染などのサインを見るために、体温は有用な指標となる。こんな事情で、検温のチャートがなかったため、ディメック医師はインターンの学生たちに、体温のチャートを手書きで作って体温の経過を見るように指導したという。また、患者の経時変化がまとめられたカルテシステムなども導入している (48)。

1872年開院時の建築は今でもザクシェフスカ棟として残されている。19世紀末アメリカで流行した、ゴシック様式を散りばめ、多色装飾が特徴のハイビクトリアンゴシック(High Victorian Gothic)建築だ (49)。多数の窓などがあり、換気に優れ、当時の建物に比べて衛生的だったとされる。また、左の塔には外科室があったが、ボストンでは1880年ごろまで電灯は普及しなかったため、外部からの採光がよく、天井が高い建物は外科手術に向いていたという。
この瀟洒な建物は、1876年のフィラデルフィア万博でデザイン賞に輝いている。

患者の栄養状態を重視し、またハンガリーのイグナッツ・ゼンメルワイス(Ignaz Philipp Semmelweis)教授が提唱し始めていた消毒法なども勉強していたことから、この病院では外科手術には患者の全身状態や環境の清潔が重んじられた。ゼンメルワイスは19世紀半ば、滅菌法を提唱したが医学界に受け入れられず、これが確立するのはジョセフ・リスターが1880年代に消毒法を確立してからで、アメリカで一般的になるのは1890年代のことである (50)ことからも、彼女の先進性が窺われる。

ディメック医師は、温厚で穏やかな人格に合わせ、医療技術、外科手技は非常に優れており、医学ジャーナルで紹介されるほどで、彼女の名声は高まっていった。ビルロート教授の影響で、彼女の詳細な手術記録がのこされている。特に有名なのが、ディメック医師が1873年の9月にエーテル麻酔下で執刀した7歳の女児の頭頸部腫瘍の除去術だ。術前、術後の写真が残されているので、興味のある方は以下のウエッブサイトを見ていただきたい (51)。1年後に、やはり女性外科医の先駆けだったメアリー・ジェイコビー(Mary Putnam Jacobi)医師がこの写真を見たときに、他の医師が同じような成功症例を吹聴していたことを話題にあげると、ディメック医師自身は「私にはそのような野心はありません、きちんと仕事がしたいだけ」とあくまでも謙遜していたという。

マサチューセッツ総合病院のエーテルドームに展示されている、1846年のエーテル麻酔下手術の肖像。当時の手術は、外科医は黒っぽい背広で行っていた。アメリカで滅菌法が確立するのは1890年代以降のことだ。
マサチューセッツ総合病院エーテルドームに展示されている19世紀当時の手術器具。メスは木製の柄であり、滅菌には滅菌には向かないつくりとなっている。

ディメック医師が優れていたのは外科手技だけではない。残されたカルテからは、彼女が緻密な検査により、正確な診断によって患者の機能を回復する術式を決め、全身状態を改善した上で手術を行い、的確な術後管理によって患者を回復させる経過がわかる (50)。ボストンで尊敬を集めていた外科医でハーバードの卒業生のカボット医師は、的確な手技で冷静沈着に手術する様子を見て、偉大な外科医の誕生を確信していたという。彼女の年収は300ドル。当時、ボストンの有名なホテルであったパーカーハウスのシェフが年収5000ドルであったことを考えると、高いことはなかったが、徐々に名声を博したこともあり、個人的な患者もついたことから、3年後には今までの学費の負債を返済することができたようだ (50)。

ディメック医師は、ビルロート教授とナイチンゲール看護師との議論から、優れた看護師が医療や外科手術に不可欠なことを認識しており、働き始めてわずか12日後の1872年9月1日、アメリカとしては最初の看護師養成課程を発足させ5人の学生をトレーニングし始める。ザクシェフスカ医師も以前より看護師養成を試みていたが、簡素すぎるものだったたため、これを持ってアメリカ最初のプログラムとみなされている (50)。当時、看護師の社会的地位は低く、売春で逮捕され、監獄に入っている女性に看護師になれば牢屋から出られるとリクルートをかけている例もあったほどだったという。

その5人の中から、アメリカで最初の正式に訓練を受けた看護師リンダ・リチャーズ(Linda Richards)が誕生する。1873年に卒業後、1877年にはイギリスに渡り、ナイチンゲールの下で研鑽も積んでいる。1885年には日本に渡り、看護師養成学校の設立にも貢献しており、日本とも関係が深い。1890年にアメリカに戻り、個々の患者の診療看護記録システムの確立に貢献している。リチャーズ看護師の免許とユニフォームは現在スミソニアン博物館に収納されており、免許の発行者としてディメック医師のサインが記されている (52)。

京都でのリチャーズ看護師。ウィキペディアより引用 (53)。
1899年にニューイングランド女性・こども病院に拡張された病棟。

運命の休暇、ヨーロッパへの渡航

1875年、3年にわたる過酷な仕事で、ディメック医師は疲れていた。彼女には休暇が必要だった。仲間との再会の約束もあり、ヨーロッパ訪問を決める。当時、ヨーロッパの医療が先行していたことから、訪問先から最新の外科器具を持ち帰ることも計画していたという。1875年4月27日には、ニュージャージから親友のベッシー・グリーン嬢と最新鋭の蒸気船シラー号に乗船する。出航してしばらくは好天に恵まれ、リラックスした船旅だったようである。ところが、天候が急速に悪化し、事態は急を告げる。当時、ヨーロッパ行きの船舶は、ニューヨークから英仏海峡を目指す航路をとっていた。その直前には、灯台などがあるシリー諸島がある (54)。天候が良ければ、風光明媚な場所だが、一旦海が荒れると高波と岩盤が凶器となり、過去に多くの海難事故が起こっている場所だ。

5月7日、蒸気船シラー号は最初の寄港地のプリマスを目指してすすんでいたが、濃霧と荒波により、灯台や星を観測することができず、船は現在位置を見失ってゆく。計算上では、船はシリー諸島のビショップ岩灯台付近にあると思われたため、船長は船を安定させるため速度を上げてシリー諸島に接近してゆく。乗客を甲板にあげ、灯台の灯りを探させたが、灯台の灯りは一向に見えてこない。この時、誰にも気づかれず、船はリタリアー岩礁(Retarrier Ledges)に向かってまっしぐらに全速力で進んでいたのだ。夜10時ごろ、船は座礁、船底に損傷を被る。沈没するほどの損傷ではなかったため、船長はまず船を海に戻そうとし、スクリューを反転させたが、これが仇となった。海に戻った船は再度荒波に揉まれ、3回岩盤に激突し、さらなるダメージを受ける。これにより、船の灯火は全て失われ、船はたちまちパニックに陥る。寝静まっていた乗客は船室を飛び出し、大騒ぎとなった。船長は空砲やロケットを放ち、必死の緊急信号を送るも、おりからの深い霧にかき消され、それがどこかに届くことはなかった (55)。

苦難と恐怖は、不幸にもここからさらにエスカレートしてゆく。パニックに陥った乗客は、大混乱の中、われ先に甲板上の8隻のライフボートに殺到し始める。船長はピストルと剣で鎮め、ライフボートを順番におろして秩序だって乗せようとするが、メンテが悪いボートは、栓がないなどして乗った人もろとも次々に沈む。荒波で煙突が破壊された時に下敷きになった2隻がさらに潰され、きちんと下ろされたのは2隻だけであった。この2隻は最終的に岸に着くことができる。このボートに乗れたのは26人の男性と1人の女性だけだった。映画「タイタニック(Titanic, 1997年映画) (56)」では、この事故の30年後に起こったタイタニック号の沈没を扱っており、ここでは「女性・子どもが先」という救助活動が描写されているが、この意識は実は20世紀になり発達したものだ。この頃は男性優位の社会で、船が沈没して生き残るのは、海に慣れている船員である男に多かったという (57)。

船内にいた女性と子供は、やはり甲板に上がって来たが、パニックに陥った男たちに押しやられたため、荒波と寒さをしのぐため50名余りが救命胴衣をつけて甲板船室内に身を寄せあっていたという。悲劇はこの後甲板上でパニック状態の乗員、男達の目の前でおこる。5月8日、午前1-2時ごろ、大きい高波が迫り、ついにこの甲板船室を飲み込み、屋根を破壊して一気に全員をさらってしまう。残された人たちの運命も過酷だった。船は浸水したものの沈んではいなかったが、船上にいた人々は高波と寒さにさらされ、次々と波にさらわれていき、翌朝救助隊が到着した時にはマストにしがみついた5人の男だけしか残されていなかった。

遭難する蒸気船シラー号。アメリカ議会図書館より引用 (58)。

数少ない生存者が、甲板に上がってきたディメック医師と友人のベッシー・グリーン嬢が、甲板船室ドアの近くでお互いを抱きしめて必死に祈っていたのを回想している。そのうちに水嵩がまし、お互いを抱きしめたまま立ち上がり、最後に、高波にさらわれたのを見たという。この時、多数の女性と子供が甲板船室の屋根とともに波に飲まれ、悲鳴とともに一気にさらわれていったのを一生忘れられないと語っている。救命胴衣をつけていたため、その後浜辺に打ち上げられる遺体が多かった。後日、島の住民が打ち上げられたディメック医師を発見した。心を打つ穏やかな死に顔だったという。

蒸気船シラー遭難の悲報はすぐにボストンにも伝わった。乗客乗員372名のうち、助かったのは37名のみで、335人が犠牲になったのだ。1875年5月13日のボストンの新聞では、犠牲者の中にディメック医師がいたことが報じられた。ザクシェフスカ医師はじめ、多くの同僚や学生、彼女のケアを受けていた患者達が、医学界のかけがえのない喪失を悲しんだ。ディメック医師、享年28歳。早すぎる死であった。

ディメック医師の死により、世界の医学界は、前途有望な人材というだけでなく、女性が医師になるのは大変だった時代に、周囲が認めざるを得ない類稀なる才能と熱意を持って道を切り拓いていった女性医師の先駆者も失った。訃報を聞き皆動揺し、新聞などで大きく取り上げられ、友人たちはロンドンに赴き遺体を収容、アメリカに帰り、葬儀が盛大に行われた。彼女の死後6ヶ月頃、彼女の手紙などをまとめた追悼本が出され、病院には彼女を称えて1つの無料病床が設けられた。女性、子供を優先し医療を施してきたディメック医師であったが、男性優先の海難事故救助の犠牲になったのは皮肉としか言いようがない。

ディメック医師は、ヨーロッパで医学部を卒業後、伝統あるマサチューセッツ医師会への入会を希望していたが、1872年10月2日、医師会は加入願を受け付けたものの、反対意見によって2年間放置されていた。その後も毎回議題には上がるものの、いつも少数の反対意見により採決されず、最終的には、1882年、彼女の死後7年も経ってから加入が認められることになる。1884年、この栄誉を称え、ニューイングランド女性・こども病院を通るCodman通りをDimock通りとした。ミシガン大の医学部を卒業し、同じくニューイングランド女性・こども病院で勤務していたエマ・コール(Emma Call)医師が(存命の)女性として初めてマサチューセッツ医師会員となったのもこの年だ (59)。

ここに登場する女性医師が先駆けとなり、また南北戦争で医療需要が増え、社会の意識も変化してきたこともあり、アメリカ全体では1880年までに2,400人、1910年には13,000人ほどまで女性医師が増えてゆく。これでもまだ全体の医師の5%に過ぎないが、その後上昇傾向は続いていった (60)。1969年、女性医師の就職差別も少なくなり女性が様々な病院で活躍し始め、ニューイングランド女性・こども病院は、一般病院としての競争に置かれるようになり、その女性のための病院という特有の使命は終わりを告げた (61)。現在では、病院としての役割を終え、ディメックセンター(Dimock Center)というコミュニティヘルスセンターとなって近隣住民の健康に貢献している (62)。

ディメックセンターの入り口にある、創立者ザクシェフスカ医師の銘板。
ディメックセンターに残るザクシェフスカ医師とディメック医師の肖像画。

このキャンパスに残されている歴史的な建造物は、1991年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定され、現在も保存されている。ザクシェフスカ医師、ディメック医師は共に、ボストン市にある19世紀を彷彿させるフォレストヒル墓地(Forest Hill Cemetery)に埋葬されている (63,64)。

最初に医学部を卒業した女性として、ニューヨークのブラックウエル医師は、書物やメディアでも注目度が高く、頻回に取り上げられている。しかし、今日、ディメック医師を思い出す人は少ない。ディメック医師の才能と、折れることなく挑戦し続けた姿勢は、女性医師の立場を改善していっただけでなく、医学の進歩や看護師の養成という目にみえる形で着実に実を結んでいた。この文章がディメック医師を思い出すきっかけとなれば幸いである。

<追記>
ディメック医師に関する伝記本が最近出版されている。興味のある方には、ぜひ一読をお勧めしたい。上の文章でも頻回に引用しているウエッブサイトの著者であるスーザン・ウイルソン女史による (65)。
Susan Wilson著
Women and Children First: The Trailblazing Life of Susan Dimock, M.D.


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