不十分な世界の私―哲学断章―〔28〕

 もし、ある特定の出来事が「その人自身=そのもの」を、すなわち『人格』を表すものであると考えられているとしたら、また、もしその出来事が「その人自身=そのもの、すなわち人格」の成立に還元されていると考えられているとしたら、その人はその特定の「たった一つの出来事」に生涯にわたって拘束され、免れることができないということになるのだろうか?もちろんその出来事は、「その人の行為によって生じたもの」であったとしても、それが「その人の全て」に転化されてしまうほど、出来事とは人にとっての「重荷」ならなければならないようなものなのだろうか?
 人間の行為によって生じた出来事は、時を遡って「なかったことにする」ということがけっしてできない『不可逆性』を持つが、しかし、その人の行為によって生じた出来事を「その人そのもの」に還元せず、『人格』を出来事の拘束から切り離し、その出来事を終わらせる役割を果たすものとして、人間による『許し』の能力がある、とアレントは言う。
 人間は、「…自分の行なっていることを知らず、知ることもできなかったにもかかわらず、自分が行なってしまったことを元に戻すことができない…」(※1)ばかりでなく、「…その過程を安全にコントロールすることさえできない…」(※2)のであり、それはまさしく、人間は未来が実際にどのように成立するかを予見することができず、いわば賭けのように「この現在」において行為しなければならないからだということに由来する。ゆえに、予見できなかった未来が実際に訪れたところのものである「実際の現在」は、つねに人間が思い描いた「未来」とは違ったものになっている。そんなとき、「…人間は、自分の行なったことの作者であり、行為者であるというよりは、むしろその犠牲者であり、受難者のように見える…」(※3)ことさえあるのだ、いやそればかりでなく、反面では「加害者であり有罪者でもありうる」とアレントは考える。
「…人は自分のしていることをまったく知らない(中略)そして彼は自分の意図もせず予見さえしなかった帰結について必ず「有罪」となる…。」(※4)
 なぜそのように、未来は人の予期しない結果になってしまうのか?それはまさに、人間が自分がしている行為の「全体」を全く把握してはおらず、また把握することができないがために、「…人間は自分の行為の唯一の主人たりえず、行為の結果について予め知ることができず、未来に頼ることができない…」(※5)からであるのに他ならない。なぜならそのような行動・行為は、人の思い描いた通りには全く動いてはくれず、実際に何をどのように行為・行動するかは、人には予見することができない「他者=対象との関係においてはじめて成り立つ」ものであるのに他ならないのだから。
 そのような物事の思う通りのならなさに対して、時として人は、自らの行為や、それによって生じた出来事を忘却してしまったり、あるいはその結果を誤魔化したり隠蔽したりすることもあるだろう。何しろ、なぜその行為・行動が成立したのか、人には全く把握することができないのだから、その原因や責任を問われても、「自分には何が何だか全然わからない」とトボケたふりをすることだってできそうなものだ。しかし、それでもやはりそれらの「…行為を取り消したり、その行為の結果を阻止することはできない…」(※6)のであり、少なくともその自らの行為とその結果である出来事の「取り消し、あるいは阻止」は、「自らのみの手によってはけっしてできない」ことなのである。繰り返すが、なぜならそれは「他者との関係において成り立っているもの」なのだからだ。

 アレントは、このような自らの手による行動・行為の結果について、その同じ自らのみの手によってでは、いかにしてもそれを「取り消すことも元に戻すこともできない」という、「…不可逆性の苦境から脱けだす可能な救済…」(※7)が、すなわち人間の「許しの能力」なのである、としている。そして、この『許し』とはまさしく、「他者の手によってなされるもの」なのである。それは、人の行動・行為が「その対象との関係において成立する」もの、つまり「他者との関係において成立しているもの」であるという事実に由来している。
 許しというのはもちろん、何もその許しの対象となる出来事=行為を「なかったことにする」ということではなく、その行為や出来事を、あくまでも「相互の関係において生じる行為=出来事としてのみ」取り扱い、なおかつそれを相互の関係において生じた出来事として「終わらせるべきもの」として取り扱われるものなのだということを明言するものだと言える。つまり、ある特定の行為は、行為者自身=そのもの、すなわちその行為者の『人格』に還元されるべきではなく、あくまで行為者とその対象の相互的な関係において生じた行為=出来事として「精算する」べきだ、ということの言明である。許しとは、それぞれの人の行動・行為を、あくまでも「出来事として精算する」ことにより、その行為・行動・出来事から、その行為者自身を解放するということを明言するものなのだ。
「…自分の行なった行為から生じる結果から解放され、許されることがなければ、私たちの活動能力は、いわば、たった一つの行為に限定されるだろう。そして、私たちはそのたった一つの行為のために回復できなくなるだろう。つまり、私たちは永遠に、そのたった一つの行為の犠牲者となる。…」(※8)
 「たった一つの行為の、その結果」が、不的確であったり無意味=無価値であったりしたために、場合によってその人自体が死ななければならなくなったり追放されたりしなければならなくなったりするのだとしたら、人のその行動・行為は、「全くその人自らの手によってのみ成り立つものと見なされている」ことになる。しかし、人の行動・行為とは、その対象との関係において成り立つものと見なすのであるならば、それはあくまで対象との「間」において成立しているものなのであり、すなわちそれはその「間における出来事」なのであり、よってその「間における関係性」として成立するものであり、ゆえにその関係・行為・出来事による結果は、「その関係に限定されること」として見出されるべきものである。『許し』は、この前提に立つことで成立している。あくまでも、「人と、その対象との間にある出来事を、出来事として終わらせる」ことが許しなのであり、出来事をその行為者自身に還元しないことの明言として成立している行為」が『許し』なのである。
 逆に言うと、たとえば人を殺したり、あるいは追放したりするということは、その結果を取り返しがつかないほどに「その人自体に還元してしまう」ことになる。それはけっして「許されない」ことなのだという明言としても、この『許し』は成立し機能しているのだ。

〈つづく〉

◎引用・参照
(※1) アレント「人間の条件」第五章33 志水速雄訳
(※2)〜(※4) アレント「人間の条件」第五章32 志水速雄訳
(※5) アレント「人間の条件」第五章34 志水速雄訳
(※6) アレント「人間の条件」第五章32 志水速雄訳
(※7)〜(※8) アレント「人間の条件」第五章33 志水速雄訳

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