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脱学校的人間(新編集版)〈10〉

 現に生きているその社会の中で、「それ以外の生きる仕方」というものが全く考えられず、それなしにはただ単に生きていくことすらできないというほどにまで制度化された生活の仕方=様式は、それ以外のやり方において人は一瞬たりとも生きることができないのだから、人々は実際にそのような生活の仕方・手段・方法のみを頼りにして現に生きている。それどころか、あたかもそれが人間にとって「生来的な生活様式」であるかのように人々には意識されており、そしてそのような意識を自分自身として何ら疑いもなく信じられるようになっていく。
 そのようにして、「その制度がなければ自分は生きていくことができない」と考えている人たちが、実際にその制度によって生きているからこそ、その制度は彼らにとって、あたかも自分のために存在し、維持され持続し、なおかつ発展しているのだと感じられ信じられるものとなる。
 そこで、「学校を経由した者のみが人である」というように制度化された社会では、人々はその現実的生活の「制度的な条件」を、それなくしては社会において生存することすらできないような「生来的な条件」として、自分自身およびその自身の生活する社会に対して欲求し、かつ要求するところとなる。要するに、「人が学校に行くことは当たり前のことであり、自然なことなのだ」と、人は自分自身がそうであることを求め、他人も誰もがそうであるように求めるのである。

 しかしここで注意しておこう。このような欲求および要求は、「人の方から」出されているのではけっしてないのだ。人が社会の中で生活していくために、そのような条件を満たすべきであると、自分自身と他人の誰しもに求めている、ということなのではない。
 むしろそれは逆に、「人が社会において現実に生活を維持していくためには、そのような条件を満たしていなければならない」というように、人々の現実的な生活環境となる「社会の方から」、その社会の中で現に生活している人々「に対して」要求してくるものなのである。そしてもし、その条件を満たさないような者たちがこの社会の中にいるとするならば、その条件を制度的な立て付けとして自らの中において設計構築した「社会の方が」、実際その制度的な条件を満たしていない人々の、そのすでに生きられている具体的・現実的な生活までもを「制度的に奪う」のである。
 実際にそういうことが起こっているのかどうかは別として、とにかく「そのようなことが現実に起こりうるのだと人々に信じさせる」ことによって、制度としての社会が維持されるよう「社会自身が意図し」実行している。実際本当に人が生きていくためにその制度が必要なのかどうかは、ここでは全く二の次の話なのであって、まずはその制度が維持されていくために、すなわち社会が維持されていくために、人がその制度およびそれによって維持運用されている社会「を実際に必要とすること、あるいは必要な状態にさせること」が、何よりその制度および社会にとって必要なことなのである。それ以外のことで自らを維持していく仕方を、実際彼らもまた何一つ知らないのだ。社会も制度も「学校化している」というのは、実際こういうところにもあらわれてくる。

 全ての人間が関わることを余儀なくされる、学校および制度的生活様式としての学校化。その制度を経由して、例外なく全ての人間は社会に送り出されていく。
 それゆえにその全ての人間におよぼす機能として持つ強力な生活様式の統一化・同一化を通じ、社会の全てにおいて学校は「子どもを教育する以上の社会的・文化的な働き」(※1)を、われわれが一般に考えている範囲を遥かに超えて、その一手に引き受けていることになる。
 言い方を換えると、全ての人間は学校を経由して社会に送り出されるのだから、全ての人間のあらゆる社会的な生活様式は、必ずどこかしら「学校的な生活様式」が入り込んでいるはずだろうし、それどころか全ての人間は「学校的な生活様式以外を学びえない」とするならば、全ての人間は「学校的な生活様式」をそのまま「社会的な生活様式」として置き換えてさえいるはずだろうと言える。そのまま全ての人間が「学校化した生活様式」において現に生活している限りで、それは「全ての人間において通用するもの」であり、「全ての人間において必要とされるもの」ともなっている。ゆえに学校は結局のところ「人間社会の全て」を独占することとなっていくわけなのである(※2)。
 そしてそのように様式化された制度的な生活が慣習化すれば、「誰もがそうするのが当たり前」となり、それ以外の生活が考えられなくなる。その結果として、それが「そもそものわれわれの生活様式」であり、「そもそものわれわれの現実生活の基盤」なのだというようにまで考えられるようになる。さらにそういった基盤を持たない者は、社会の中で生活そのものを維持することさえできなくなるのである。なぜなら「その他の生活様式」など、もはやその社会の中では考えることすらできなくなっているのだから。

 人々の現実の生活様式が制度的に同一化されると、特定の生活行動様式に全ての行動・行為が一元化され、それ以外の行動様式は行動様式として認識されるものとはならなくなる。人々の現実的な生活行動様式の一元化は、することが制限されるだけでなく、できるはずのこと・できたはずのことがもはや一切できなくなってしまうような、日常的な生活行動に対する意識の転倒・倒錯を引き起こす。
 しかし、そのことを誰も不思議だとも疑問にも思わない。そのことを意識することすらもはやない。現実的な生活行動様式が一元化された人々においては、それ以外の生活様式などというものがそもそもないということにもはやなっているのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※2 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」


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