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脱学校的人間(新編集版)〈76〉

 「学校がなければ幸福になれない社会」も不幸だが、一方で「学校がなくならなければ幸福になれない社会」もまた同様に不幸である。そのことが必要とされ、かつそうあるべく条件づけられているという意味では、要するにどっちもどっちなのだ。
 ところでもし仮に「学校がなくならなければならない社会が必要なのだ」として、そこでその企み通りに「この社会から学校だけがなくなる」などということが、はたして現実に考えられるものだろうか?端的に答えれば、それはむしろありえないことなのだと言わなければならない。なぜなら今の「この社会」とは、まさしく「学校を必要としている社会」であるのに他ならないのだから。そこから学校がなくなるとすれば、おそらくそのときはそれこそ「社会そのものがなくなるとき」なのである。
 だが「脱学校」をめぐる一般的な議論というのは、あくまでも「今のこの社会から学校だけがなくなった状態」を念頭に置き、それを前提としている。「社会自体」はそれでもなお温存維持され、今後も変わらず持続していくであろうということについて、人は何ら疑いもしない。ゆえにそこから、「もしこの社会から学校がなくなったら一体どうするのだ?その替わりになるものはあるのか?」などというような不毛な議論も、人々の間で安心して交わしていられるところとなる。実際このような議論が交わされること自体「すでに学校化している」証左なのだが、人々はもちろんそのことにも全く気づいてはいない。
 もし本当に社会から学校がなくなってしまったら、一体どうなるのか?
 もし人は、誰もが学校を経由することによってでしかこの社会に生きてはいられないのだとしたら、その学校がこの社会から本当になくなってしまったとき、人は一体どうするのだろうか?どのように生きていけばよいのだろうか?
 学校を必要としているこの社会から、あるいは学校がなければ人は誰も生きていけなくなるようなこの社会から、もし本当に学校がなくなってしまったとしたら、それによって人は本当に「もはや生きてはいられなくなる」のだろうか?
 そういった、当然出てくるであろう問いについて、「現実に答えられない」というばかりでなく、「それを現実として想像することができない」ということこそが、あらためて言えばまさしく「社会の学校化において真っ先に問われている問題」なのである。しかしそれを逆に考えてみれば、これらの問いが成立するような社会であることを「意識して想定しない」というのが、実は社会を学校化していくための要点となってもいるのだ。

 もしこの社会から学校がなくなったら、一体どうするのか?
 このような問いは当の社会にとって、「けっして直面してはならない、回避すべき問題」として、実はそもそもあらかじめ想定済みのことでもある。そして、だからこそその上で「この社会では、そのような問題を意識して想定しないこととしている」わけなのである。
 社会はこのような問題をあらかじめ想定し回避する。だが、けっして解決しようとはしない。このような問いをはなからまるごと否定して、意識的にそもそもなかったこととする。
 まずそれが社会にとってそもそもなぜ「回避されるべき問題」となるのかと言えば、それは「社会においてそもそも解決することが不可能な問題だから」である。なぜなら、この問題を社会において解決してしまうとすれば、むしろそれによって「社会であることを失う」ことにもなりうるのだから。だからこそ社会にとってはそのような問題が生じ、かつ存在すること自体けっしてあってはならないこととして斥けられるのである。なぜなら、そのような問題が生じ、かつ存在すること自体、すなわち「社会そのものの否定」ともなりうるのだから。いや、社会はむしろこのような問題を、「逆説的に受け入れ、構造的に肯定すること」によって、ようやく自らを維持しえているのである。
 念のため一言注意しておこう。ここでは別に「学校のことだけ」とか「社会のことだけ」について言っているわけではない。試しに思いつくまま、その対象を入れ替えてみるとよい。「経済」とか「労働」とか「家族」とか「軍隊」とか。そしてそれらが「なくなった状態」を考えてみるとよい。そうすると、「それがなくなったらどうするのだ」などと喧しく不安をあおるような社会は、逆に「それがなくなったら困るようにそもそも意図して作られている」ということが容易にわかることであろう。そこで逆にもし、「社会からそれがなくなっても別に困りはしない」などということにでもなれば、「その社会でなくても別に困らない」ということと同義だということになる。そしてもし本当にそうなったとしたら、そのときは人間の方ではなく、むしろ「社会の方が困る」ことになるわけである。

 学校化した社会においては、学校は社会そのものであり、社会は学校そのものである。そのいずれかが失われるとき、もういずれかの方も同時にそのものとして失われる。そしてそのいずれもが、そのようにあらかじめ意図した上で作られている。
 とすればそのような社会がもし、学校を失うという自らの存立基盤を覆されるようになるかもしれない現実に直面したとき、一体どのように対処することになるのだろうか?
 繰り返すが、実はこの社会においてこれまでなされてきたことのいっさいは、そもそも暗黙に、このような想定を背後に抱えた上でなされてきたものだったのである。要するにそれは「最初から気づかれていたこと」なのであった。
 社会はそもそもそのはじまりから、そのような危機に直面していた。そして当然、今この時点でもその現実に直面しているのである。社会自身がそのことにすでに気づいており、それどころかそもそもの最初からそのことに気がついていたのだった。
 社会とはそもそも「自然のもの」ではない、それは「意識して作られたもの」である。ゆえに、意識して維持しようとしなければ、いっときの間も維持していることなどできないというのが、この社会の現実なのだ。だからこそ社会はこれまでも自らを「必死に維持しようとしてきた」のであり、なおかつ「そうすることによってようやくここまで維持されてきた」のである。そうして「意識して必死に維持されている現実」を次々と上書きしていくことによって、少しでも気を抜けばもしかしたら維持できなくなるかもしれないような、自己存続危機の潜在性を、人々からひた隠しにしてきたわけだ。

 「意識的に維持しようとしなければ維持できない」というのが、社会という「意識的な構成体」の存立に関わる現実なのであり、そのように意識的な維持を絶えず図ることによってようやく、自らがもはや維持できなくなるかもしれないような危機は回避されるところとなる。
 とすると、それによって「社会自体が維持できなくなるかもしれない現実的な危機は、根本的に消滅した」ものと言えるのだろうか?
 無論、それはけっして「消滅しえない」だろう。もし消滅したというなら、もはや「意識的に維持し続ける必要」も同時に消滅することになるのだろうが、それでは同時に「社会が社会である必要」もまた、消滅することにもなるだろう。そうなってしまってはもはや、「社会それ自体が成立しえない」のである。これは社会にとってはたしかに不条理なことだ。しかしそれがまさしく社会にとっての現実なのである。
 危機は回避されるに越したことはない。しかし、回避されたらもはやその危機は、誰にも意識されなくなるだろう。そのとき社会は、自らを維持していくためのエンジンを一つ失うことになるのだ。
 ゆえに、「自らが維持できなくなるかもしれない危機を回避し続ける」という、社会に宿命づけられた運動は、「危機から逃げ切ることからも逃げ続ける」運動として成り立っている側面もあるわけだ。そして社会自身としては実際問題、そうするしかもはや仕方がないがゆえに、それは宿命となっているわけなのである。

〈つづく〉


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