可能なるコモンウェルス〈14〉

 絶対王権国家を統治する君主なるものとは、その地位は「神によって」授けられたものであって、手中におさめる「世俗的な支配権力」は神と同様に全能なのであり、胸中にある意志は「宇宙の立法者が抱く意志として、世界を統べる法そのものとなる」のだ、といったように、その存在そのものがすっかり神と重ね合わせにイメージされており、その「実存」としても完全に神と一体化されたものとして、すなわち「永遠の生命を有する者」であるかのように考えられていたと、アレントは端的に解き明かしている(※1)。
 しかしこういった「イメージ」というのはもちろん、あくまでも「絶対的全能者である神自体は、世俗的な諸関係から完全に超越して存在する」という前提にもとづいて成立しているものである。そこで「世俗的な支配者」である絶対君主は、自らの立場をそのような神=絶対的全能の「代理人」として、その「超越性」に重ね合わせ一体化させることで、むしろ逆に自らを、支配−被支配の「世俗的な関係」から抹消しようと企図したわけである。世を支配しているのは彼自身ではない、「神」なのである。その「神の代理人」である限りの彼=君主自身は、自身をして何一つ意志などしてはいないし、立法することなども全くないのだ。
 そのように、自らの実存を神という存在の超越性に重ね合わせ一体化させることで、彼すなわち絶対王権君主は「自分自身であること」をやめる。そうすることによってこそ彼は、むしろ自身による支配のその「正当性=正統性」を、ついに我がものとして獲得することができるところとなる。「彼自身が権威となる」のをやめることによってこそ彼は、己れ自身をして「絶対的な権威を表現する権利」を得ることになる。
 こうして彼=絶対君主は「主権者」となる。そしてこの権威の構造は、後に続く「人民主権」においてもそっくりそのまま引き継がれることとなるわけである。
「…絶対君主政の後につづいたのは、これに劣らず絶対的な国民の主権であった。…」(※2)
 世俗的支配の「全権」を、「宇宙的全能」の神性=超越性に転化することによって成立する、現世的支配関係の絶対性。その「現世的な代理人」となる立場を絶対君主から相続することとなる、新たなる「現世的」主権者・人民は、まさしくその超越的絶対性をも同時に相続することにおいて、自身をして「絶対君主と同じように、地上における神の新しい代理人」(※3)という立場に立つ。その立場の「超越的絶対性」とはまさに、現世的な諸関係から超越的な立場にある」ことにおいて絶対的な地位として成立しているわけである。

 あらためて確認しておくと、絶対王権君主が独占する「全能」の権力、その内在的な根拠は、「超越的な」権威、すなわち「絶対者=神」の代理人という立場から引き出してきたものだ、というのがアレントによる考察である。その観念は、旧来から続く「西洋文明の伝統」にもとづく観念なのであった。
「…絶対者という厄介な問題を生みだした歴史的地形を知るための方法がたくさんあるのは疑いない。旧世界についていえば(…中略…)『言葉が肉体になった』のちに、地上における神的権力の具現は、まずキリスト自身の代理人である司教と教皇によっておこなわれた。次いで彼らの後を襲ったのは国王であり、彼らは神授の権利によってその支配の正統性を主張した。…」(※4)
 そしてその後に「それに劣らず絶対的な国民主権」が、その「支配の正統性」を相続した、というわけである。
 もちろんこのことは、すでに「ある時期」において経験的に気づかれていたことであったと言える。「絶対的なもの」の、その絶対性とは、しかし何らかの「現実的経験に根拠を持つ」のでなければ、「現世的には」何らの説得力をも持ちえないはずである。
 「経験的な権力」とは、その経験を「本来的」ものとして還元し、それを自らの「立場」に内面化させることによって、経験が本質に転位されて成り立つその立場は、「現実的な有限性から切り離されて、無際限なものとして超越化」し、「普遍・不変なもの」として絶対視されることになる。これはもちろん、何も「西洋文明に限った」話ではないのだ。こういうことは実に、古今東西において「一般的に発生する」ものなのである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アレント「革命について」
※2 アレント「革命について」志水速雄訳
※3 アレント「革命について」
※4 アレント「革命について」志水速雄訳

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