自分がどんなに愛されない人間でも、子供のことは愛してもいいし、子供は愛してくれるということが世界をこんなにもマシな場所にしてくれている
世の中の母親たちはみんないいお母さんをやってあげたいと思っているとして、けれど、誰もが似たような感じに、いいお母さんをやってあげようと思っているわけではない。
いかにもいいお母さんらしいことをやってあげながら、いいお母さんだと認めてくれているようなリアクションを子供がしてくれるように誘導し続けているという場合もあるのだろう。
その場合、その行動の全ては、子供に喜んでもらいたくてやっていることではあるけれど、どんなことをしてあげるのがいいお母さんだというイメージが先にあって、それを子供にやってあげようとしているし、それをやれば子供は喜ぶはずだと思っているから、むしろ子供の気持ちは全く気にしないで、いいお母さんとして何をやってあげようかということを自分が楽しむことの方がモチベーションの中心にある感じになっていたりもするのだろう。
そんなふうでは、世話を焼かれている子供からすると、そんなこと全く求めていないのにと、びっくりしてしまうことがちょくちょくあるけれど、喜んであげないと悪いような態度で接せられているから喜ぶしかなくて、いつも圧迫感がつきまとった親子関係になってしまったりするのだろう。
そんなふうに、いいお母さんをやるというよりも、その人のパーソナリティーからしたときに、そのひとが子供を育てるのならそうなるというような育て方をするひとたちというのは、かなりたくさんいるのだろう。
それとは逆に、子供を子供扱いせずにひとりの人間として扱って、自分も親である以上にひとりの人間であることを子供に受け入れさせたうえで家族をやっているひとたちというのも、それなりにいるのかもしれない。
それがいいということではないのだ。
親が親らしい態度を取ってくれない場合は、子供の成長によくない影響が出たりすることもあるらしい。
自分を無条件に守ってくれて、無条件に大事にしてくれる存在がいて、そうやって世界の中に自分の安心できる場所があって、存分に甘えさせてもらうことで、人間は愛することや愛されることを学んでいくものなのだろう。
俺の母親は、そういう意味では、いい母親をやろうとしているというよりは、自分がしっくりくるやり方で俺を育ててくれたのだろう。
いかにもお母さんらしい顔や言い方をしたりせずに、いつもの自分とそこまで大差のない態度で俺に接していた気がする。
覚えてはいないけれど、弟に対してもべたべたしたり、猫なで声をかけたりしていなかったと思うし、素っ気なくはなかったけれど、平熱感の強い態度で子供に接していたのだろう。
とはいえ、俺は母親に壁を感じたりはしていなくて、俺にとって母親はちゃんと母親以外の何者でもない存在だった。
母親らしいことをしてくれなかったわけではなく、子供の自発性を大事にしたり、親の楽しみのために子供を利用するようなことをしないとか、自分なりに子供にとってどうしてあげた方がいいと思ういくつかのことを気を付けながら、あとは普通に母親をやってくれていたのだろう。
きっと、自分が楽しむために子供と一緒に何かをしたいという感覚がなかったんだろうなと思う。
子供が楽しそうにしているのを見られれば楽しいという以外に、子育てで楽しもうというモチベーションがなかったのだろう。
そういう子育てを楽しむことについてのモチベーションのあり方の違いはどういうところから来ているのだろう。
けれど、多くのお母さんたちは、そもそもいつでも世の中のイケているひとたちや楽しそうにしているひとたちのやっていることを自分もやれるならやりたいと思っているひとなのだろう。
俺の母親は、みんながやっていることの大半は自分には似合わないから、自分に合った楽しみ方ができればいいと思ってきたひとではあったのだろうし、その違いは大きかったのかもしれない。
俺の母親は、自分がかわいらしさのかけらもない母親に育てられたし、出来がよくなくて姉のように認めてもらえなかったけれど、ひどいことをされたわけでもなく、大事にはされて、短大にも行かせてもらって、感謝もしていたし、母親として尊敬もしていたのだと思う。
だから、自分もかわいいお母さんになんてなろうとせずに、その代わりにちゃんとしたお母さんとして接してあげようというようなつもりで母親になったのかもしれない。
俺の母親は仕事を辞めるつもりがなかったし、その祖母だって、四人の子供を育てながら仕事をしていた。
忙しくしながらも子供を大事にして、けれど、子供をかわいがることで自分がいい気持ちになるようなかわいがり方はしないひとだったのだろう。
だから、俺が生まれてからしばらく祖母の家で子供の世話を手伝ってもらいながら生活したとき、祖母が俺をにこにことかわいがってうれしそうに連れ回しているのを見てびっくりしていたのだろうけれど、そういう祖母の孫をあやす楽しそうな様子に心を柔らかくしてもらいながら、俺の母親は、厳しくしなくてもいいし、優秀じゃないからと扱いを変えたりということは親を見習わないようにしつつ、それ以外は、自分が育ててもらったみたいにしてあげればいいんだと思っていたのだろう。
きっと、俺の母親というのは、俺と同じように、別に楽しいことをしていなくても、普通にひとと一緒に何かをしたり、何でもないような話をしていれば、それでそれなりにずっと楽しくやれるひとだったのだろう。
だから、俺と何をしたがることもなく、俺で何をしたがることもなく、ただそばにいて様子を見守って、ちょくちょく俺や弟が自分のところにやってくるだけで充分に子育てに満足していられたのだろう。
平日は仕事で疲れているし、週末や休みに旦那が子供を遊ばせてくれるのに付き合っているだけで、子供が楽しそうにしている顔もたくさんに見られていたし、何の不満もなかったくらいなんだろうなと思う。
世の中のお母さんたちだって仕事をしながら子供を育てているし、体力的には大変な毎日なのだろう。
とはいえ、だからこそ、子供にいいことをしてあげて、子供に楽しそうにしてもらうことで、いい気持ちになりたいと思うお母さんたちも多いのだろう。
そして、そう思ったときに、子供をペットとか着せ替え人形のように扱うのはよくないとは思っているのだろうから、ちゃんといいお母さんっぽいことをしようとはするのだろう。
けれど、いいお母さんがやってあげることならいいんだと思って、そういうことをいろいろ探してきてたくさんやってあげたがるのだろうし、子供にかまいすぎて、子供をかわいがりすぎることになるのだとは思う。
そういうお母さんたちが悪いというわけではなく、子供が自分のやってあげることをいつもしっかりと喜んでくれる場合は、そういうお母さんたちのように子供をかわいがりすぎてしまうようになるひとの方が多かったりするのだろうし、それは単に自然な母親の愛情の強まり方のメカニズムというだけで、そういうもので母子の情緒的結びつきを強めていけるように人間はできているのだろう。
みんな楽しいことがしたいし、自分のやってあげたことで喜んでくれるひとがいるのなら、そのひとを喜ばせることが気持ちよすぎて、いろんなことで喜ばせようとしてばかりになるものなのだろう。
そうなってくると、いかにもいいお母さんっぽいことをやってあげて、子供を子供でしかない存在として扱って、自分も母親でしかない存在かのように振る舞う方が、たくさん楽しくなるには効率的なのだ。
ひとによるのだろうけれど、そもそも子供と時間を過ごすことの心地よさとして、普段の自分と子供に対しての自分がはっきりと切り替わっているのが安心で快適だというひとも多いのだろう。
多くのひとは、社会の中では軽視されがちで、所属している集団でも、いつものノリとして軽く見られているのを受け入れた態度でひとと話しているのだと思う。
けれど、家庭の中でなら、自分は常に主要人物でいられるのだ。
多くのひとにとっては、それこそが家族を持つ意義の中心だったりもするのだろう。
現実の自分というか、社会の中での自分とか、自分が属している集団の中での自分というものは、自分をうんざりさせるものだったりする。
けれど、奥さんとしてとか、母としての関係は、大半を家庭という密閉された場所で過ごす一対一の関係だから、たくさんひとがいる中で自分がどの程度の存在なのかととは別に、その一対一の間だけで強固な関係性を作っていける。
外では雑魚キャラだったり、見た目のよくないひととか、一緒にいてもつまらないひとだとか、仕事のできないのろま扱いされているお母さんも、家では、自分が普通のお母さんであるかのように振る舞うことができるし、頑張ればいいお母さんとして子供をたくさん喜ばせてあげることができる。
そうやって自分をいいものに思えるようにして、自尊心を維持しているひとがたくさんいるのだろう。
ファストフード店なんかにいると、多くのひとにブスだと思われるような見た目で、服装なんかも人並みよりはだいぶんダサくて、喋っているのが聞こえてきていても、びっくりするくらいつまらない話をしているおばさんでも、一緒にいる子供が楽しそうにしているようなひとだと、それなりに幸せそうなリラックスした感じを発していたりして、そういう光景を見ると、このひとは子供がいなかったとしたら、全然違う顔で生きていたんだろうなと思ったりする。
子供からすると親は世界一大好きなひとだから、親は自分のことを世界一大好きだと思ってくれている相手に向ける顔を子供に向けることができる。
ファストフード店の幸せそうなおばさんにしても、子供を除けば、自分のことを世界で一番大好きだと思ってくれているひとなんていないし、自分のことを好きだと思ってくれていて、一緒にいるだけで楽しそうにしてくれる友達すらいないかもしれないのだ。
そして、そういうおばさんを見て、あんなださくてとろそうなひとでも子供がいたら幸せそうにしているんだというのを見て、やっぱり自分も子供がほしいと思うひとがとてつもなくたくさんいるんだろうなと思う。
世の中には納得いっていない役回りでまわりから認知されていたり、他人から不本意な扱いを受けていて、本当にしたい顔ではない顔をして生きているひとがたくさんいるのだろう。
そして、そういうひとたちも、家の中では、自分のことを大好きな相手に向けて、自分のしたい顔をできていたりするし、逆に、家族や恋人がいないひとたちというのは、社会の中で強制される顔をして過ごす以外には、ひとりになって何かをしながら無表情に過ごすしかないのだろう。
したくない顔と無表情で時間が流れていくのは寂しいことだろうし、だからひとは子供がほしくなったり、恋人がほしくなったり、ペットを飼いたくなったり、画面に向かって全力でにたにたするためにアイドルを好きになろうとしたりするのだろう。
子供が親のことを親としか思えなくて、親が現実的にどんな程度のどんなひとなのかということを感じ取るのが難しいのは、親が家族に対してだけ別の自分で接しているからという場合が多いのだろう。
子供のために何でもやってあげようと思ってくれているかわいがってくれる親ほど、より濃密に一緒に時間を過ごしているようでいて、親が家の外でどんな人間なのかはちっとも見えてこなかったりしているのだと思う。
逆に、自分の生活の中で子供の世話よりも優先度の高いものがあって、子供の世話をしないといけないことを煩わしそうにしているひとの方が、子供からすれば親が社会の中でどういう人間なのか透けて見えたりするのだろう。
もちろん、子供の側だって、小学生くらいになってくれば、家の外での出来事を何でも親に話すわけではなくなるし、家の外と中でしている顔が違ってくるようになるのだろう。
人間は自分が所属している場所ごとに、その場で認知されている自分を受け入れて、その場でのいつもの自分として振る舞うものなのだろう。
けれど、俺は小学生の頃も、中学高校生の頃も、実家を出てからも、親に対しての顔と他の場所での顔に大差がなかったように思う。
それは俺がどこにいても不本意なキャラクターや役回りを押し付けられることもなく、いつでも自分のしたい顔をしていたからというのが大きいのだろう。
けれど、その前に、親が何かしらのノリとかパターンみたいなもので語りかけてこなかったことで、家の中でも家のノリに合わせたパターンで過ごしている感覚にはなっていなくて、基本がそうだったから、家の外でも、家とは切り替えて別のノリで振る舞おうとしなくて、それが学生時代も、大人になってからもずっと続いたから、家族に対してはだんだんと接する態度は変わっていったけれど、だからといって、他の場所にいるときとは違う顔で接しているようになったりすることはないままになったということだったのだろう。
俺はそんなにまでも、何も押し付けられずに、一方的なこともされずに育ったのだ。
俺には全く反抗期がなかったけれど、それは親がいつでもその時点の俺に合わせた接し方をしてくれていたから、自分の扱われ方が窮屈だったり不快だったりすることがなかったからというのもあったのだと思う。
(続き)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?