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エッセイ・評論など

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音楽、その他の芸術や社会問題についての評論やエッセイなど。力を入れて書いたものから、気軽に一気に書いたものまで。とりとめのない雑感も。
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#アート

手に宿るもの

手に宿るもの

 数か月前のある日、私の出演する演奏会の案内を見たという知人から、「手がきれいだなと思っていたんですよ」と言われた。その人は、私がピアノ弾きだということを、その掲示を見るまで知らなかったのである。
 こういった日常の何気ない場面から、はじめてかつての恋人の手を握ったときや、大学に憧れを抱いて見学に来た受験生と在校生として握手をしたときといった重要な場面まで、手やその感触をほめられるという経験は何度

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これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

これからの表現芸術のために、表現芸術のこれからのために──映画『TAR/ター』との対話

「芸術家として優れている人ほど往々にして人間としては問題があることをするものだ」というような意見を、陰に陽に口にする人は、少なくない。かれらは、芸術家は社会規範からはみ出しているからこそ、常人にはできない発想や表現が可能なのだと言うのである。
 私はこういった意見に、反対の立場を取り続けてきた。
 確かに、私も含めて芸術にのめり込むような人間は、内面に、この世界への絶望と結び付いた、現実の倫理とは

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谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

谺する聖愚者の予言──マリウシュ・トレリンスキ演出、大野和士指揮によるムソルグスキー《ボリス・ゴドゥノフ》

 ひっそりとした闇に包まれた舞台に、各辺を光らせた立方体が並んでいる。上手側に置かれたその内側が照らし出されると、痩せ細った、身体に障碍を抱えている若者が、斜め上を見て椅子に座っている。その表情が背後のスクリーンに大きく映し出され、それが荒涼とした大地のような映像とクロスフェードするとともに、個人的な感情ではなく、もっと根源的な、この世界を生きる人間が抱えている宿命的な哀しみのようなものを湛えた嬰

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〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

〈世界〉に拒絶された者が、世界に救われるまで──プレガルディエンとゲースのシューベルト《水車屋の美しき娘》

 少々時間が経ってしまったが、10月の初めにトッパンホールで開かれた、テノールのクリストフ・プレガルディエンとピアノのミヒャエル・ゲースによる、「シューベルト3大歌曲チクルス」の第2夜《水車屋の美しき娘》を聴いた(10月3日)。このデュオの実演を聴くのは4年ぶりである。プレガルディエンは多くの曲を長2度下げて歌っており、前回よりさらにバリトンに近づいたことを感じさせたが、テクストを深く読み込み、音

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生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

生の哀しみ──向井響の新作「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ」

 生は、始めさせられてしまったものである。自ら望んでこの世に生まれるということは、誰にもできなかったはずだ。私という存在は、存在させられたのである。自分が生まれ、生きていることにたいして、一度も疑念を抱いたことがないという人でも、この前提を否定することは、決してできない。
 私は特に反出生主義者を自認しているわけではない。けれども、自分のものであれ他者のものであれ、生の過程で直面する苦悩の根源を探

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幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

幸福と自省──アルゲリッチ、クレーメル、ディルヴァナウスカイテによる演奏会

 ピアニストは、その長い銀髪に暖色の照明を反射させながら椅子に座ると、会場の響きを確かめるように、ニ短調の主和音をそっと、ペダルをかけた軽やかなアルペッジョで弾いた。眼鏡をかけた白髪のヴァイオリニストは、そのアルペッジョがたんに音としてではなく、すでに音楽を含んでいるかのように美しく広がったからか、和音のAの音に合わせて調弦することなく、ただその余韻に耳を澄ませ、ピアニストに合図だけを送った。
 

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「死者の声」は聴けるか?──三善晃の音楽

「死者の声」は聴けるか?──三善晃の音楽

 作曲家の故三善晃氏の音楽を最初に聴いたのは、大学一年のときだったと思う。ある授業で、その年に逝去された氏への追悼として、一度、内容を変更して氏についての講義になり、童声合唱とオーケストラのための『響紋』がかけられたのだった。作品については後述するが、そのときに私が受けた衝撃は大変なものだった。「現代音楽」を含めて、それまで聴いてきたどのような音楽にもない表現、「音楽」という枠には収まらない、しか

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自画像

このエッセイは、2016年にSNSに書いたものを一部加筆修正したものです。

 画家は、なぜ自画像を描くのだろうか。
 上野の東京都美術館で開催された「ゴッホとゴーギャン展」で、それぞれの自画像を観ていて、ふとそう思った(2016年)。それぞれに孤独を湛え、自分の美しさも醜さも、包み隠さず描いているように感じられた。ふつう、自分の顔はあまりまじまじと見つめたくない。それを自分自身の手で描くというの

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未来を拓く音――寺内詩織のバッハ

未来を拓く音――寺内詩織のバッハ

 ロビーの中央に、誰でもない裸の男が立ち尽くしている。エレベーターホールを挟むかたちで、反対側のロビーにも、直線上に逆を向いた同じ男が立ち尽くしている。そこで、彼だけが時間を止めてしまったかのように。
 多くの人は、彼の存在をほとんど気にも留めずに、あるいは一瞥をくれるだけで通り過ぎてゆく。中には立ち止まって彼を眺める人もいるが、ものの数秒である。気にはしているが、避けたという人もいるかもしれない

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