自画像

このエッセイは、2016年にSNSに書いたものを一部加筆修正したものです。

 画家は、なぜ自画像を描くのだろうか。
 上野の東京都美術館で開催された「ゴッホとゴーギャン展」で、それぞれの自画像を観ていて、ふとそう思った(2016年)。それぞれに孤独を湛え、自分の美しさも醜さも、包み隠さず描いているように感じられた。ふつう、自分の顔はあまりまじまじと見つめたくない。それを自分自身の手で描くというのである。考えてみるととてつもない勇気の必要なことであることに気づいた。
 朝比奈あすかさんの小説『自画像』で、主人公の田畠清子の中学校時代に、美術の授業で自画像が課題に出されるという場面がある。清子はあるとき、物語の中のキーパーソンの一人である、顔中の面皰が多いことへの暴言をはじめとするいじめを受けている蓼沼陽子が描いた自画像を目にして驚く。
 「彼女の顔一面を覆う面皰といったら…あたかも虫眼鏡を使って観察したかのような精緻さに、度肝を抜かれました。赤、茶、こげ茶、黄、黒、黄土色、白。何色もの絵具を溶かし込んで描かれた、立体的にさえ見えるその面皰を眺めていると、わたいは最初の自己紹介で岩永先生がつけくわえたあの諺――蓼食う虫も好きずき――を思い出してしまいました。そのとたん、面皰は虫のように蠢き始めました。」
 その自画像はまだ未完成で、目に色がつけられていない。清子は、描かれていないその瞳を「きれいな色を使って」「目の中に、光をたたえて」「穏やかなまなざしに」描いてほしいと願う。清子は、陽子に助けられた経験がある。自身がいじめを受け孤立しているのにも関わらず、自分に手を差し伸べてくれた陽子の澄んだ心に、どこかで惹かれているのである。
 陽子が、自分の顔をありのままに描くことができるのは、その眼差しに曇りや迷いがなく、事物をそのまま捉える純粋さと勇気をもっていたからである。もし、自分の目が曇っていたら、ものごとや対象をまっすぐに捉えることはできない。自分の顔を偽りなく描くのであれば、なおさらだろう。自分の中に偽りや虚栄があれば、それが自画像に表れてしまう。
 画家たちは自画像を描くことで、自分の目が曇っていないか、確かめようとしているのかもしれない。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?