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地方映画史研究のための方法論(35)ノンフィルム資料分析③ジョナサン・グレイによるオフ・スクリーン・スタディーズ

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

2024年3月には、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか——鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024年)を刊行した。同書では、 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。(今井出版ウェブストアamazon.co.jp

地方映画史研究のための方法論

地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、杵島和泉さんと共同で行っている研究会・読書会で作成したレジュメを加筆修正し、このnoteに掲載している。過去の記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論

大衆文化としての映画
(27)T・W・アドルノとM・ホルクハイマーによる「文化産業」論
(28)ジークフリート・クラカウアー『カリガリからヒトラーへ』
(29)F・ジェイムソン「大衆文化における物象化とユートピア」
(30)権田保之助『民衆娯楽問題』
(31)鶴見俊輔による限界芸術/大衆芸術としての映画論
(32)佐藤忠男の任侠映画・剣戟映画論

ノンフィルム資料分析
(33)ロラン・バルト「作品からテクストへ」
(34)ジェラール・ジュネット『スイユ——テクストから書物へ』
(35)ジョナサン・グレイのオフ・スクリーン・スタディーズ

ジョナサン・グレイとオフ・スクリーン・スタディーズ

ジョナサン・グレイ

ジョナサン・グレイJonathan Gray)は、カナダ・トロント生まれのメディア研究者・文化研究者。「オフ・スクリーン・スタディーズOff-Screen Studies」を掲げ、娯楽メディアと視聴者が相互に作用し合う中で、いかにして意味や価値が生み出されているのかを明らかにすることを目的とした研究活動を行っている。

グレイはトロントからイギリス(サリー州)、オーストラリア(パース)、シンガポール、香港、そして再びカナダへと、各国を転々としながら育ったという。1996年にバンクーバーのブリティッシュコロンビア大学を卒業し、1997年にリーズ大学で修士号を取得。その後、2000年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジで2つ目の修士号を得て、2003年には同大学で博士号を取得した。2003年からカリフォルニア大学バークレー校、2005年からニューヨーク市のフォードハム大学に勤め、2009年にウィスコンシン大学マディソン校コミュニケーション芸術学科に赴任。現在は同大学の教授を務めている。

主な著作に、『シンプソンズと共に見る——テレビ、パロディ、間テクスト性 Watching with The Simpsons: Television, Parody, and Intertextuality』(ニューヨーク・ラウトレッジ、2006年、未邦訳)、『別売されるショー——プロモーション、スポイラー、その他のメディアのパラテクスト Show Sold Separately: Promos, Spoilers, and Other Media Paratexts』(ニューヨーク大学出版局、2010年、未邦訳)、『反感を抱く心——メディア、観客、そして味のダイナミクス Dislike-Minded: Media, Audiences, and the Dynamics of Taste』(ニューヨーク大学出版局、2021年、未邦訳)など。

オフ・スクリーン・スタディーズ

ジョナサン・グレイは『別売されるショー——プロモーション、スポイラー、その他のメディアのパラテクスト Show Sold Separately: Promos, Spoilers, and Other Media Paratexts』(ニューヨーク大学出版局、2010年、未邦訳)において、前回取り上げたジェラール・ジュネットの「パラテクスト」概念を、映画やテレビ番組などのメディア研究に適用することを試みている。本稿では、地方映画史研究におけるノンフィルム資料の分析を行うための理論や方法論を得ることを目的として、『別売されるショー』の主に序章と1章(部分的に2章)の内容を要約してみたい。

映画であれテレビ番組であれ、もっとも一般的な分析の方法は、スクリーンに映し出されるものの精緻な読解だろう。だが、そのテクストの社会的な意味や活用のされ方、視聴者がテクストに出会い、受容するまでのプロセスを検討するためには、画面の精緻な読解だけでなく、そのテクストに付随するパラテクストを分析することが不可欠である。パラテクストは、大なり小なりテクストの意味を変える可能性を持つとグレイは言う。例えば映画の予告編は、本編を鑑賞する前にジャンルやテーマなどに関する情報を伝え、テクストの読解や解釈の枠組みを構築する働きをするだろうし、ネット上のディスカッションサイトは、そうした枠組みを強化したり、変化を加えたりもするだろう。またビデオゲームやコミックはテクストの物語世界を拡張し、より没入感の高い環境を作り上げていく。パラテクストは、私たちがテクストに到達するまでの道のりで通過しなければならないフィルターであり、また、テクストの受容と同時もしくは途中からテクストの性質を変えたり、ある側面を増幅させたり、新たな何かを付け加えたりもする。

このように、予告編やDVDの映像特典、ウェブサイトやレビュー、ファンが作る作品など、映画やテレビ番組を取り巻くパラテクストが、視聴者にどのように働きかけ、どのような反応を引き起こしているかを分析することで、それらが映画やテレビの位置付けや定義付け、意味の生産にどのように関与しているのかを明らかにすることがグレイの研究目的であり、彼はその取り組みを——映画研究とテレビ研究を包括する学問領域である「スクリーン・スタディーズ」と対応させるかたちで——「オフ・スクリーン・スタディーズ Off-Screen Studies」と呼んでいる。

日本では、社会学者・メディア研究者の近藤和都がいち早くグレイを参照し、戦前期の「映画館プログラム」の分析を行っている(『映画館と観客のメディア論——戦前期日本の「映画を読む/書く」という経験』青弓社、2020年)。ノンフィルム資料の分析を進める上で、オフ・スクリーン・スタディーズは重要かつ貴重な理論的枠組みを提供してくれるだろう。

パラテクストに関連する用語と理論

広告とプロモーション

別売されるショー』の序章と第1章では、映画やテレビ番組などのメディア研究におけるパラテクスト分析に関連する用語と理論の概説がなされている。

初めにグレイは、パラテクストが「広告」や「プロモーション」と多くの面で重なり合っており、また両者は、非常によく似た方法で機能していると指摘する。「広告 advertisement/advertising」の目的は商品を売り込むことだが、単なる販売行為に限らず、認知度の向上やイメージの向上といった目的も併せ持っており、特にその面を強調したい場合には「プロモーション promotion」という語が用いられることも多い。現代の広告は、商品の機能を列挙したり、その本質や由来を説明したりすることには消極的である。代わりに多くの広告は、ブランドを確立し、付加価値を約束することで商品を売り込もうとする。例えばスナックフードの広告は、空腹な十代の息子に母親がスナックフードを与え、家族の幸福な時間が生まれる物語を描くことで、「スナックフード」と「家族の幸福」を結びつけ、商品の説明を超えた意味や付加価値を与えている。

別の言い方をするならば、広告は商品をテクスト化し、ポピュラーカルチャーの一部と見做されることを目指している。スターやアイドルの起用、イベントやテレビ番組などとのタイアップを通じて、それらを商品のブランドアイデンティティと結びつけることの有効性は古くから認識されてきた。例えばデュ・モーリエの煙草は、長年モントリオール・ジャズ・フェスティバルのスポンサー商品となり、フェスティバルのイメージを借用してきた。広告主は商品やブランド自体がある場ではなく、広告やプロモーションの場で商品やブランドの意味を創造しようとする。

ハイプ(誇大広告)とシナジー

通常の広告を超えた、過剰で強烈な広告やプロモーションは「ハイプ Hype」(誇大広告)と呼ばれる。この言葉は膨張や増殖、加速といったイメージを喚起する。大規模な広告とプロモーションを展開して宣伝対象を急速かつ熱狂的に売り込むことで、一時的にその存在感を高め、やがてスローダウンしていくのである。そこには、宣伝対象に対する過大評価や不正・異常な方法といったイメージもまとわりついているが、グレイは、ハイプはありふれたものであり、通常の商業活動の一種であると主張している。

ハリウッド映画やテレビ番組は、こうしたハイプによって広く宣伝されると共に、シナジーのネットワークに組み込まれ、さらに存在感を増していく。「シナジー Synergy」とは、複数の組織や製品、テクスト、その他の要因の相互作用や協力関係によって、個々の独立した効果の合計を上回る効果を生み出すことを意味する。エンタメ業界においては、シナジーとは、玩具やDVD、ビデオゲームなど様々なメディアの製品を他のプラットフォームとリンクさせ、それぞれの製品がお互いに広告し合い、豊かなメディア経験を作り上げる戦略を指す言葉である。

パラテクスト

ジェラール・ジェネットは1987年に刊行した著作『スイユ——テクストから書物へ』(和泉涼一 訳、水声社、2001年)において、テクストに付随して現れ、そのテクストの受容するための入口として機能したり、その意味や解釈を方向づける働きをするものを「パラテクストParatext」と名付けた。メディアの世界において、パラテクストはポスターやビデオゲーム、ポッドキャスト、レビュー、映画やテレビ番組の関連商品といった具体的なかたちを持って現れることが多いが、例えば「ジャンル」のように、具体的な実体を持たないものもパラテクスト的な機能を持つことがあるとグレイは補足している(例えばカートゥーンは大人も楽しめるテレビ番組として始まったが、公共的な議論の結果、子ども向けのジャンルに位置づけられた。そしてこうしたジャンルの規定は、人びとのカートゥーンの受容や消費の仕方に影響を与え続けている)。

ジェネットは、パラテクストを「敷居」や「水門」、あるいは「エアロック」になぞらえている。気圧の異なる空間を行き来するために、圧力差を調整する機能を持つ小部屋=エアロックを通過するように、パラテクストは、読者や視聴者がテクストの世界に移行するための調整を行う通路として機能する。同じ映画に付随するパラテクストでも、例えばカンヌ国際映画祭やサンダンス映画祭での賞賛や受賞を伝える広告と、ブリトニー・スピアーズの賞賛を伝える広告とでは、それぞれまったく異なる映画体験を想像するだろう。パラテクストは、特定のテクストに対する想像や期待を抱かせ、その受容の仕方をあらかじめ方向づける。私たちはパラテクストを参考にして、どの映画を見るべきか、一人で見るべきか友人と見るべきか、大画面で見るべきか自宅で見るべきかなど、余暇の過ごし方を検討するのである。

ところでジュネットは、パラテクストをあくまでテクストに付随するものとして扱うことを主張していた。メディアの世界でも、パラテクストは映画本編やテレビ番組の「周辺要素 Peripherals」と見做されることが多い。だがグレイは、パラテクストを単なる付随物や派生物と捉えるべきではないと言う。パラテクストは、映画やテレビ番組から離れた場所にありながら、テクストを生産し、管理し、それに多くの意味を与えている。要するに、パラテクストもテクストの不可分な一部なのである

実際、誰もが映画やテレビ番組以上に多くのパラテクストを消費しており、本編を見ぬまま、パラテクストだけを通じてその作品についての知識を形成していることも多い。例えばシネコンで上映されている10本の映画から1本を選ぶ場合、私たちは実際に鑑賞した映画だけでなく、他の9本も推測的に消費している。特に『スター・ウォーズ』(1977-)のような人気シリーズや『パッション』(2004)のような話題作は、実際に作品を鑑賞した観客をはるかに超える数の「観客」——パラテクストがテクストの全体となっている人びと——にとっても意味を持つだろう。メディアの研究を行う上で、映画やテレビ番組自体を詳細に分析することは当然重要だが、熱心なファンに限らず、多様な人びとのメディア受容を理解するためには、パラテクストの分析が不可欠であるとグレイは言う。パラテクストは、大衆文化を解釈するための基盤なのである。

テクスト

グレイは、映画作品やテレビ番組をテクストと同一視してはならないと注意を促す。ロラン・バルトが「作品からテクストへ」という標語を掲げたように(「作品からテクストへ」『物語の構造分析』所収、花輪光 訳、美鈴書房、1979年、原著1971年)、「作品」は手に取ることのできるフィルムロールやテレビ番組の放送用テープで構成されているが、「テクスト Text」は、これらの動画像と観客・視聴者との相互作用によって命を吹き込まれる。読者や観客・視聴者による意味の生産を通じてのみ、テクストは経験されるのである。

それゆえ、同一の作品からでも多種多様なテクストの生産が行われることになるが、そこで生み出される意味や解釈は、完全に観客・視聴者の自由であるわけではない。個々人が鑑賞中にとる態度や反応、作品に対する評価は、常に何かしらのパラテクストに依存し、その影響を受けている。オフ・スクリーン・スタディーズでは、こうした、テクストの生産に対してパラテクストが果たす役割を重視する。

間テクスト性

テクストとは「引用の織物」であるとロラン・バルトが述べたように(「作者の死」『物語の構造分析』所収、花輪光 訳、美鈴書房、1979年、pp.86-87)、あるテクストの意味が他のテクストとの相互的な関連性の中で見出されることを「間テクスト性 Intertextuality」と言う。私たちは常に、他のテクストが提供する枠組みを通じてテクストを理解している。例えば「昔々……」から始まる物語は、即座に過去に読んだ童話や昔話を思い起こさせるだろう。あるいは映画の登場人物が、木の葉の影から覗き込むような手持ちカメラで撮られているのを見れば、過去にホラー映画を見た経験から、その人物は何者かに尾行されており、カメラの目は当の捕食者のものだと推測するかもしれない。

間テクスト性は、作者によって意図的に仕組まれることもあれば、作者が予測できない偶然の結びつきが生じることもある。作者はしばしば、観客・鑑賞者がテクストの望ましい理解や受容をすることを保証するための手段として、間テクスト性を活用しようとする。登場人物に他のテクストと関連づけた名前をつけたり、撮影方法や演出などで特定のジャンルを連想させたりすることによって、テクストを理解するためのガイドを提供するのである。

他方、作者が意図しない間テクスト性の例としては、テレビニュースで犯罪率上昇の報道を見てからチャンネルを変えると、偶然、家庭用セキュリティシステムのCMが映し出され、そのシステムを導入する必要性を強く感じるといった場合が考えられる。あるいは、人肉を食らう猟奇殺人犯を描いた映画『羊たちの沈黙』(1991)のテレビ放送で、ハンバーガーのCMを続けて見て嫌悪感を覚えるといった場合も考えられるだろう。

コンテクスト(文脈)と解釈共同体

文芸評論家・法学者・英文学者のスタンリー・フィッシュは、読者が自身の望む任意の意味をテクストに刻印できることを認めつつも、実際に行われる読解や解釈は「コンテクストContext 」(文脈)および「解釈共同体 Interpretive Communities」によって決定されたり制限されたりすると主張している(『このクラスにテキストはありますか』小林昌夫 訳、みすず書房、1992年、原著1980年)。解釈共同体とは、共通のコンテクスト(文脈)や考え方を持った個人によって構成された集団である。テクストの読解を行う以前から、その読者は自らの属する解釈共同体の解釈戦略を備えており、それが実際に読まれるテクストの読解や解釈を方向づけるのである。もちろん意味の生産に関するすべての要因を読解行為だけに帰することはできないにしても、コンテクスト(文脈)と解釈共同体がテクストの読解に与える影響力を認識しておくことは重要だろう。読者はテクストに出会う前から一定の準備ができており、個人としてではなく集団として、ある傾向を持った読解や解釈をしようとするのである。

以上を踏まえると、間テクスト性がいかにして特定の文脈や解釈共同体を構築するのかを考察できるようになる。例えば『ザ・シンプソンズ』(1989-)や『サウスパーク』(1997-)に見られる「パロディ」は、批評的な間テクスト性として機能する。パロディ作品の作者は、パロディの対象を取り囲み、別の言説の中に閉じ込めることで、伝統的な解釈共同体の意味形成のプロセスに反論し、それを否定したり、消去しようとしたりする。成功したパロディ作品は、個々の視聴者に語りかけるだけでなく、代替的な解釈共同体を作り上げ、育てることにも長けている。

入口となるパラテクスト

パラテクストの二分類

パラテクスト的・間テクスト的なネットワークの成功例として、『ジェームズ・ボンド』シリーズが挙げられる。コードナンバー「007」で知られるスパイのジェームズ・ボンドは、過去50年以上に渡り、映画や書籍、関連商品や広告など様々なメディアに登場してきた。

ボンドを取り巻く豊かなパラテクストは、一方では、映画『007』シリーズの新作など新たなテクストの世界に踏み込むためのエアロックとして機能するが、他方では、新たなテクストもまたパラテクストとして機能し、ジェームズ・ボンドというキャラクターや過去の映画シリーズなどに別の意味づけや解釈を与えることもある。この例からも分かるように、テクストとコンテクスト(文脈)をそれぞれ実体のあるものとして分けて考えることはできないし、テクスト・パラテクスト・間テクストの区別もまた、あくまで分析のための便宜的な区別に過ぎない。実際にはパラテクストも間テクストも、常にテクストの構成要素であることを押さえておく必要がある。

以上を踏まえてグレイは、ここからの分析のための便宜的な区別として、パラテクストを大きく二分類することを提案する。一つは「入口となるパラテクストEntryway Paratexts」。これは映画やテレビ番組を視聴する前に出会うパラテクストで、テクストへの入口を制御・決定する。もう一つは「途中からのパラテクスト Paratexts In Medias Res」で、テクストと同時か、もしくは最初の視聴の後から観客・視聴者に働きかけるパラテクストである。「後の」ではなく「途中からの」となっているのは、パラテクストに終わりはなく、映画やテレビ番組の受容や理解の仕方にいつまでも影響を与え続けることを強調するためだ。

入口となるパラテクスト——推測的消費とメディア全体への働きかけ

まずは「入口となるパラテクスト Entryway Paratexts」について確認しよう。メディア業界において、パラテクストは極めて重要な役割を果たしている。一般大衆やメディア、業界はしばしば、映画が公開された週末の興行収入だけでその作品を評価する。最初の週末に観客が集まらなければ、映画館はその作品を主要劇場から引き上げ、結果的にテレビのライセンス料やDVDの売り上げも減少する。そのため業界は、広告やプロモーションなどのパラテクストが集客に効果を発揮することを期待すると共に、パラテクストの成功や失敗を、テクスト全体の成功や失敗の指標としても評価するのである。

私たちは日々、映画やテレビ番組の送り手によって入念に構築されたパラテクストを大量に見て、新たなテクストを推測的に消費することに時間を費やしている。その映画は私たちにどのような喜びを提供し、どのような効果をもたらしてくれるだろうか。期待や懸念、欲望など様々な思いを抱きながら、実際に鑑賞する作品を選択するのである。

パラテクストはまた、特定の映画やテレビ番組に対してだけでなく、メディア全体にも働きかける。例えば中流階級主婦向けの婦人雑誌に掲載された広告やコラムでは、テレビを家族の一員として迎えることを勧め、テレビを自宅のどこに置くべきか、どのように使用すべきか、注意すべき点は何かといったことが繰り返し書かれてきた。こうした教訓的・道徳的なガイドラインは今日でも広く見られる。特定のテクストやジャンルの消費に関する指示を出すのに留まらず、日常生活の中でメディアをどのように利用すべきかを指導することによって、メディア業界にとって都合の良い解釈共同体を作り出そうとしているのだ。

批判的なパラテクストと支持的なパラテクスト

パラテクストの中には、特定のテクストを批判することで読者の注意を逸らそうとしたり、その読解に影響を与えようとするものもある。例えばD・W・グリフィスの『國民の創生』(1915)に対する批判的なレビューや解説を目にした観客は、それが人種差別主義的なプロパガンダ映画であることを前提として鑑賞に臨もうとするだろう。

あるいはデヴィッド・クローネンバーグの『クラッシュ』(1996)は、自動車事故に性的な興奮を覚える人びとを描いた映画だが、イギリスでは著名な政治家や新聞のコラムニストが危険な映画だと問題視し、上映禁止を訴えた。中には映画を見ておらず、プロットの要約や一部のシーンに関する説明だけを根拠に批判する者もいたが、映画を取り巻くメディアの議論はそれ自体が批判的なパラテクストとして機能し、実際に映画を見た人びとの読解にも影響を与えることになった。

またパラテクストは、テクストの特定の部分やキャラクターに限定して影響を与えることもある。俳優の過去の犯罪歴が報じられたことによって、映画やドラマの作中で演じた悪役が、より現実的で本物らしく見えるようになる場合などがこれに当たる。

一方、支持的なパラテクストが大量に生産されてテクストの意味を補強し、ハイプやシナジーの領域に至ることもある。例えばディズニーのアニメ映画が公開される前には、ぬいぐるみや塗り絵、時計、アクションフィギュアなどが先行発売されるのが恒例である。朝の子供向け番組ではCMが流れ、マクドナルドのハッピーセットでも関連グッズが販売されるなど、パラテクストが身の回りの世界を満たすことで、子供たちに「みんな」がその映画を見ていると感じさせ、自分も見なければと思わせる。ディズニーが打ち出すハイプとシナジーは、今や映画鑑賞という行為と切り離すことのできないものとして、テクストの一部を成している。それどころか、「映画とはハッピーセットの食べられない部分だ」といったアイロニカルな主張さえ語られるようになった。

映画ポスターのスタイル

パラテクストがいかにしてテクストの意味や解読の枠組みを提供しているかを確認するために、グレイが第2章で論じている「映画ポスター」に目を向けてみよう。映画ポスターは、その作品のジャンルや間テクスト的なスター俳優の姿、観客が体験できる世界の種類などを示し、観客を映画館へと誘う重要な役割を果たす

様々なポスターを比較すると、ジャンル毎にある程度標準化されたスタイルが見て取れる。アクション映画では、孤独な男性(時折は女性)のヒーローが鋼のような冷たい目つきでアクションに備えたポーズをとり、武器を手にしたり、筋肉を見せつけたりしている(例えば『007/ゴールデンアイ』(1995)などのボンド映画全般)。有名なスター俳優が出演するコメディ映画では、笑顔や間抜けな表情を浮かべたスターのクロースアップがしばしば用いられる(『ビーン』(1997))。 ホラー映画では、作中の殺人鬼を象徴するものや(例えば『エルム街の悪夢』(1984)のフレディの鉤爪)、子ども・祝い事といった無垢の象徴が貶められた様子などが目立つ(『ファイナル・デッドコール 暗闇にベルが鳴る』(2006)の血痕が付着したクリスマス飾りなど)。

左から『007/ゴールデンアイ』(1995)、『ビーン』(1997)
『エルム街の悪夢』(1984)、『ファイナル・デッドコール 暗闇にベルが鳴る』(2006)

性を題材にしたコメディでは、女性が脚を組んでいたり(例えば『爆笑!? 恋のABC体験』(1983))、半裸の女性が映し出されたりする(『スプリング・ブレイク』(1983))。ロマンス映画では、メインキャストのカップルがお互いに愛情を持った目で見つめ合っている場面が選ばれたり(例えば『恋人たちの予感』(1989))、満足げな表情を浮かべた女性のクロースアップが用いられることが多い(『アメリ』(2001)など)。

左から『爆笑!? 恋のABC体験』(1983)、『スプリング・ブレイク』(1983)
『恋人たちの予感』(1989)、『アメリ』(2001)

その他のジャンルもそれぞれ独自のイメージやスタイルを持っており、一目見ただけでその映画がどのジャンルに属するのか判断できる。また多くの映画ポスターは、スター俳優を目立たせる傾向がある。スター俳優は、過去に演じた役柄や本人のパブリックなイメージと、ポスターが宣伝する映画とを結びつける間テクスト性を備えている

映画ポスターの分析①『ホーム・アローン』(1990)

映画ポスターがより複雑で踏み込んだ意味を提供する例として、グレイは『ホーム・アローン』(クリス・コロンバス、1990)のポスターを取り上げている。そこでは、マコーレー・カルキンの演じる少年が顔に手を当てて、おどけた雰囲気で、驚きかあるいは恐怖の表情を浮かべている。その背後では、明らかに悪党らしき二人組(ジョー・ペシとダニエル・スターン)が窓から顔を覗かせている。ポスターの上部には、「ケビンの家族が休暇に出かけた時、ちょっとした忘れ物をした:ケビン」と書かれており、ポスターの中央下部には「でも心配ない…彼は料理をし、掃除をし、やっつける!」という文言がある。映画タイトルの下には「家族ファミリーのいないファミリーコメディ」というキャッチコピーが記されている。

クリス・コロンバス『ホーム・アローン』(1990)ポスター

視覚的にはシンプルだが、実はこのポスターは、ささやかに複数のジャンルの間を横断している。家族に見捨てられた少年と、侵入者の脅威という要素だけを見れば、ホラー映画か犯罪ドラマのようなプロットにも捉えられかねない。だがポスターに写る三者のコミカルな表情、ユーモラスなコピー等により、印象を反転させ、家族向けのコメディとして売り込むことに成功している。このポスターは子どもにとって恐ろしい状況と無力感を表しているが、同時に、その権力の力学は作中で必ず反転すると約束してもいる。また子どもの観客に向けては、親なんていらないという気持ちや悪戯心、さらには主人公の少年を媒介として強い力の行使を間接的に体験できると示唆することで、映画を見たいと思わせるためのフックとしているのである。

映画ポスターの分析②『ジョーズ』(1975)

続いてグレイは、『ジョーズ』(スティーヴン・スピルバーグ、1975)のポスターを分析している。ポスターの中央、タイトルの下部に、若い女性が海を泳ぐ姿が描かれている。水面下では、巨大なホホジロザメが口を開き、鋭い歯を見せつけて、今にも女性に向けて突進しようとしている。また最上部には、「恐ろしいNo.1ベストセラーを原作とする恐ろしい映画」と書かれている。「恐ろしい」という言葉を二度繰り返すことで、サメを前にした者の絶望的な状況を強調している。

スティーヴン・スピルバーグ『ジョーズ』(1975)ポスター

『ジョーズ』のポスターは、観客に海への恐怖を植え付けることに専念しており、恐怖以外の何も売りにしていない。『ホーム・アローン』のポスターと違い、このポスターには実際のプロットも登場人物も描かれていない。ホホジロザメは捕食者の象徴であり、女性は無数の犠牲者の象徴だ。この映画のジャンルはホラーだと示すだけでなく、ポスターを見る時点から観客に恐怖を味わわせ、映画を見る時の感情を先行して体験させるようなポスターになっている。

途中からのパラテクスト

途中からのパラテクスト——オーバーフローとコンバージェンス

続いて「途中からのパラテクスト Paratexts In Medias Res」を見てみよう。現代の多くの映画やテレビシリーズは、DVDやCD、スピンオフ小説、公式ウェブサイト、ファン同士が語り合うためのディスカッションフォーラムなどと共に提供される。映画の鑑賞やテレビ番組の視聴を終えても、インターネットでその物語や登場人物について調べたり、スピンオフのウェブドラマを視聴したりしていれば、テクストを生産する経験は本編の上映時間や視聴時間を超えて、いつまでも持続するだろう。このような事態を、映画・文化研究者のウィル・ブルッカーは「オーバーフロー Overflow」という概念で説明しようとする(Will Brooker「『ドーソンズ・クリーク』での生活——ティーン視聴者、文化的収束、テレビのオーバーフロー Living on Dawson’s Creek: Teen Viewers, Cultural Convergence and Television Overflow」『International Journal of Cultural Studies』4(4)所収、2001年、未邦訳)。この言葉は、テクストが肥大化し、外部のパラテクストにまで溢れ出すというようなイメージを呼び起こす。現代のシナジーの多くは、広告として本編を見るよう促す役割を果たすだけでなく、付加価値を提供し、テクストの物語世界を拡大する役割も担うのだ。

オーバーフロー」という比喩的な概念が、映画やテレビ番組の本編から外部へと拡散していく方向を示唆するのに対して、メディア研究者のヘンリー・ジェンキンスは、こうした複数のメディア・プラットフォームで展開するテクストを「コンバージェンス」という語で表している(『コンバージェンス・カルチャー——ファンとメディアがつくる参加型文化』渡部宏樹・北村紗衣・阿部康人 訳、晶文社、2021年、原著2006年)。

コンバージェンスは、広義には単一のテクストの枠組みの下で、複数のメディア・プラットフォームの間をコンテンツが横断したり、同時展開しているようなあり方を指す。例えば『マトリックス』シリーズは、ウォシャウスキー姉妹による長編映画第一作(1999)とその続編だけでなく、スピンオフのオムニバスアニメ『アニマトリックス』(2003)やデジタルゲーム『ENTER THE MATRIX』(2003)など、様々なプラットフォームで展開されるコンテンツを通じて、一つの物語世界が描き出される。さらには、同シリーズのファンも二次創作を書いたりコスプレをしたりと、自らパラテクストを作り出している。

このように複数のメディア・プラットフォームを舞台として、一方ではテクストが外向きに拡大しつつ(オーバーフロー)、他方では他のテクストを取り込んで内向きに収束していくという(コンバージェンス)、二つの同時的な流れを理解することが重要であるとグレイは述べている。

際限なく先送りされた物語世界

途中からのパラテクストがテクストにどのような影響を与えるかを考えるためには、観客や視聴者にとってテクストがどのように生産・経験されるかを問う必要がある。

文学研究者のヴォルフガング・イーザーのテクスト理論やスタンリー・フィッシュの「感情的文体論 Affective Stylistics」では、読書という行為が動的かつ積極的なものであることが指摘されている(J・P・トンプキンズ編『読者-反応批評——フォーマリズムからポスト構造主義へ Reader-Response Criticism: From Formalism to Post-Structuralism』ジョンズ・ホプキンズ大学出版局、1980年、未邦訳)。書物を読むとき、読者は完成・完結した言説に反応するわけではない。最初の単語から次の単語、そして3番目……と、順に文字を追う経験の時間の流れの中で、同時並行的にテクストの解釈は行われる

多くのテレビシリーズは、その始まりから終わりまで数ヶ月、もしくは数年という長い期間を要する。基本的に各エピソードの間には一週間、シーズンとシーズンの間には数ヶ月の休止期間が設けられている。その間、視聴者が一切解釈行為を行わず、最終回を迎えてから初めてテクストを理解すると考えるのは馬鹿げているだろう。視聴者は毎週放送される番組を追いながら、並行して常に解釈行為を行っている。放送が行われていない間には、ネットで番組の感想を読んだり、タイアップ商品を購入したり、その他の様々なパラテクストを消費する。また番組の冒頭には、大抵「前回までのあらすじ」「前回の放送では」といったパラテクストが組み込まれている。それは新規の視聴者に対しては入口となるパラテクスト、継続的な視聴者に対しては途中からのパラテクストとして機能し、それぞれテクストを解釈するための枠組みとなる。

現在では、多くのテレビシリーズが物語を無限に引き延ばし、無数の謎や詳細な設定を散りばめたテクストの宇宙を構築している。これを映画・メディア研究者のマット・ヒルズは「際限なく先送りされた物語世界 Endlessly Deferred Hyperdiegesis」と呼んでいる(Matt Hills『ファンカルチャー Fan Cultures』ニューヨーク・ラウトレッジ、2002年、未邦訳)。視聴者は、様々なプラットフォームを横断して展開されるテクストの広大な空間性や解放性に魅せられ、番組制作者が提供する様々なパラテクストから、次に何が起こるのかを知るための手がかりを積極的に見つけ出そうとする

終了後のパラテクスト

映画の公開やテレビ番組の放送が「終了」した後でも、そのテクストはパラテクストによって揺り動かされる可能性がある。過去のテクストが現在のテクストに影響を与えるだけでなく、現在のテクストが以前のテクストに影響を与えることもできるのだ。

例えば子どもの頃に何気なく見ていたテクストが、後になって成人してからその深いニュアンスを理解することがある。また映画研究者のアネット・クーンは、70代の女性映画ファンが今でも20代の頃に見た映画を楽しんだり、語り合ったり、そこからまた新たな意味を見出したりしていることを論じている(Annette Kuhn「あの日は生涯、私を支えてくれた——映画の記憶と持続するファンダム That Day Did Last Me All My Life’: Cinema Memory and Enduring Fandom」『Identifying Hollywood’s Audiences: Cultural Identity and the Movies』所収、英国映画協会、1999年、未邦訳)。継続的なファンにとっては、過去の映画鑑賞もまた、現在の日常生活における重要な一部として、絶え間なく再生し続けられるものとしてあるのだ。テクストは「終了」後も生き続け、パラテクストは常に「途中」から機能する。テクストがパラテクストによる文脈化から解放されることは決してない。

テクストになるパラテクスト

パラテクストは、時には付き従っていたテクストを引き継ぎ、やがてはテクスト自体になることもある。例えばディズニー映画のハッピーセットを楽しんだ子どもが、実際に映画を見ることはなかったり、テレビ番組よりもそのディスカッションサイトに魅了されるファンが居たりするように、一部の観客・視聴者は、テクストの経験よりもパラテクストの経験のほうが興味深く価値あるものであると見做す。そもそも、パラテクストとテクストの区別は研究者が分析のために導入したものであり、一般の人びとにとっては大して意味を持たないかもしれない。先述したように、私たちは生涯に渡って膨大なテクストを推測的に消費している。すべての映画やテレビ番組を見ることはできないからこそ、必要に迫られてパラテクストをテクストの代わりにし、テクストの全体としているのだ。

The Simpsons Ride sign at Universal Studios in California

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