結局皆様他人事

昔好きだった人達が有名になればなるほどに疎外感孤独感のようなものを感じるが、老害なのでそれでもついていこうとなどはせずあくまでも好きだった頃の成果物を懐古し続ける。

そしてそういう人たちがまだ社会的な人気を得ていない頃、どこかの動画サイトでオタクたちに支持されていた事に書いた歌詞には普遍的な真理めいたものが宿っている。

それらの歌詞については当たり前でみんな思ってることであるとかよく言われることであると掃き捨てる容易いが、現にそう言った言葉によってそう主張するものが人気者になれていないのであればそれはただの負け惜しみであると感じる。

仮にそうでないとしてもみんなの心の片隅にあることを放置して掬い取れないのが凡人であり巧みに掬い取って見せるのが優れた作詞家の一つの本領なのである、とわたしは思う。

結局皆様他人事。

それはなんでもない歌詞の一節であるようでいつまでもいつまでも付き纏う世の中の薄情さを浮き彫りにさせ続けているようだ。

世の中には沢山の当たり前があり至る所に欺瞞がある。
自分が受けていない痛みは対岸の火事として放置、自分の問題こそが深刻で複雑なのだと誰もが主張したがある。
ある人はこれを全人類ナルシストと表現した。

そしてそれは時と共に悪化の一途をア辿っているようでもあった。

10年前と今の人々の「ノリ」を比較してみると、まだ10年前は「一緒に盛り上がろう」という気概が感じられた。
今はどうだろう。
常に他人の粗を探し、問題点を指摘し、嘲笑うことだけが笑いであるとしている人たちが蔓延っているように思える。
他人に冷たいことは当たり前で「そんなのこっちは知ったこっちゃないし」と仲間内が楽しめればそれがどんなに凶悪や醜悪なことであっても歓迎される風潮がある。
馴れ合いを嫌い廃し、冷笑し批判し指摘することがより上手であるとされているように思える。
酷いことを言うのも言われるのも当たり前、それに耐性がないのは甘い、弱肉強食であり他人の痛みなど知ったことではない、そういう薄情さがカッコいいとさえされているきらいを感じるのだ。

堕落と刹那主義が蔓延し今自分たちさえ愉しめれば後の事も他人のこともどうだっていい。
そういう他人事を決め込む姿勢が益々幅を利かせている感触がある。
日本人は冷たい、とはここ数年よく聞かれる話である。
現時点で道端で倒れてる人がいても無視を決め込む姿はネットでもテレビでも実体験でも何度となく見かけてきた。
そして自殺した友人の名前をプロフィールから消す子供たちの話。
このままいくと10年後には本当に、例えば隣で人が今まさに死んだとしても誰も気にしないようなそんな無感動とも言える境地に達するのではないか。
既に知らない他人がどんなに困ってても知ったこっちゃないという社会なのだから、死という強烈な出来事についても輪をかけて反応が薄くなることは想像に難くない。
結局皆様他人事は先祖代々昔からそうであったのかもしれない。
しかしそれはここにきて余計に強度を増しており、誰もが自分以外をかわいそうとも哀れとも感じない社会が出来上がりつつあるのかもしれない。
かく言うわたしもそのうちの一人なのかもしれない。
わたしはホームレスに飲食物の提供などを行なっているが、自分の境遇についてはかなりこの国の同世代ではワーストに近い方であると思っているし、それに比べれば他人が不遇とされることのほとんどは甘い不遇であると正直思っているから、怪しいところだ。
もっと他人に対して寛容にならなければならない、何故なら自分は他人にとっては他人なのだから。
情けは人のためならず。
結局は全てエゴだと言うツッコミが内発的に生ずるが、それはそうだろうという宥めかしも共存する。
なんだってエゴなんだ、優しいと思われたいから優しいことをする、施したいと思うから施す、こう言う人間でありたいからと善行をする、イメージ戦略にせよ、そんな自分に酔いしれるにせよ、全てはエゴ。
その全てはエゴという考え方と結局皆様他人事はなというかこう、近い位置にある概念に思える。
誰もが自分の身が一番可愛い。
子供を愛してると自認する母親などは子供のために身を粉にすることや身代わりになることも勝ってでるかもしれないが、それもある意味では自分の信念、感情、思考の為のエゴイズムと強引にこじつけることができる。
なんか脱線していきそうだからこの話はここではよしておこう。

で何が言いたかったの?

もっと他人に対して寛容になろうぜ。
受容して認め合おう。
別にダサくたってカッコ悪くたっていいじゃない。
負けたって間違ってたっていいじゃない。
他人が思ったことを感じることを否定しても始まらない。
それらは少なくともその人にとっては真実でありその真実を歪ませる権利も義務も誰しもにないのではあるまいか?

なのかな?
どうだか。

じゃあそうだな、たとえば、もっと自分ごとにして考えてみなよ的な?
ジプが同じ立場だったら、という思考をみんなに強制する…?
そうした先に何があるのだろう。
本当に社会は良くなるのだろうか。

他人の痛みをヒアリングし、受け止め、認め、その上で協調共存していく為の方策を模索していく。
なんだか、決して実現されないタイプの公約みたいに耳障りのいい綺麗事に思えてならない。
受けたそばから耳から滑り落ちていきそうだ。

しかしもし皆様が他人事を止めることができたならば…切り捨てられている人達を拾い上げて本当に困窮している人間を救うことはできるかもしれない。
それには痛みが伴うだろう。
具体的には持つものが高みから降りてくる痛み、中間層が上下からの圧力に挟まれる痛み、下層のものが登る中で受ける混乱や差別など。
どこにだって屈辱や妥協がありふれていそうだ。
なるほど通りで社会がこんなふうになっているわけだ。

誰も他人の痛みなど理解したくなどないんだ。それをする時はなんらかの利益があったり、強い不利益を回避するために必要に迫られて仕方なくそうするというだけ。
高みに立つ者たちはわざわざ降りてきて本当の慈善活動に取り組もうなどと言う気概は勿論なく、中間層の者たちは自分達は下層の人間とは違うという虚栄心に薪をくべ、下層の者は概して影響力がないので問題とされない。
わざわざ言うまでもなく、さんざ語り尽くされてきた当たり前の原理、仕組みと構図、作用と結果がそこにある。

世の中は変わらない。
いや、悪化はするだろう。だが決して良くはならない。
世の中が良くなったとされるならばそれは仮想の人間に強い犠牲と、中間層の人間に弱い犠牲を敷いた上で、偽りを持って伝えられる虚報であろう。

生まれと育ち。遺伝子、家柄、家族、交友関係
恩師、出会う作品、思想、それらをひっくるめて環境。
そのくじ運がいいものだけが得をしその既得権益を守るために決して譲歩はせず不必要に貯め込み下層や中間層から搾取しその屈辱を娯楽する。
なればこそ結局皆様他人事。
自分達の気持ちのよいことのために他人がどれだけ苦痛に塗れようと関係ないし、困らない。

それに対する下層ができるリベンジは無敵の人と化して事件を起こすくらいが関の山。
それにしたって実被害を受けていないものたちはやっぱり他人事。
いや、自分達の立場を脅かされるのは困るから第二第三の芽を摘む為に厳しく追求する世論形成に躍起になるかもしれないな。
それにしたって結局自分の立場を守る為だ。

まあ。
わたしがもし異なる生まれで仮に恵まれていたのであればその気持ちはわかるしそうすることを悪いともなんとも思わないであろう。
増して得にもならない下層へ手を差し伸べるなどという酔狂なことは一笑にふす悪い冗談とするかもしれない。

しかしてわたしは実際にはそうでなく、こちら側として敵愾心と反抗心、対抗意識、敵意、憎悪、嫌悪、厭悪を抱いている、かもしれない。

決してわかりあえない、分かりあうことが起き得ない、物理的な断絶がそこにはあって、相手陣営の見方をするには一回死んで相手陣営側に転生しないといけないが、現実にそんなことはできるはずもないフィクションなので、絶対にわかりあうことはない断絶なのだ。

わたしもいよいよもって進退極まれば無敵とならざるを得ないだろうし、それは中間層とておなじこと。
上層の人たちは努努そうならないようにうまいこと制御してほしいものだ。
自分の力で勝利をもぎ取った有能を自負するのであればそれぐらいの制御はできて当たり前のはずであり、それができないのであればやはりそれは欺瞞であり、結局は環境に恵まれただけの無能であるということの証左となる。
これ以上悲惨な事件が起きない為にも持てるものはただ頭ごなしの排除排斥に躍起になるのではなく、うまくコントロールするように立ち回ってくれたまえ。
法律や監視網の強化で雁字搦めにするなどという小学生が考えましたみたいな解決策はやめてくれよ?恐らく悪化しかしない。
いい方法はあるはずだ、よりよく下層と中間層を騙し、欺瞞を欺瞞と気付けないように工作せよ。
人々が自認する不幸の質と量を減らせ、実際の幸福総量に限度がありそれを独占したいのならばその偽装工作にもっと力を割け。
中途半端だったりやり方が間違っているから不満が生まれる、なんてね。

なぁに、ここまで書いた全て冗談であり本心じゃありませんさ、ははっ、ははっ。

日本人は不親切で他所他所しく内弁慶で排他的。

などというのもただのフレーバーテキストでありなんの意味もありません。

よくもまあこんな長ったらしい文字列をお読みになって…相当暇なのかしら?
こうして毒者を敵に回すことによってわたしはわたしにくるいいねを減らしたいのだった。

なんてね、ここまで書いたことは全て冗談でさぁ、へっへ、へっへ。

全てに意味はない。
なぜなら全てはちゃんと泡沫に帰すのだから。
どんな幸福な思い出も体験も過去となりその電子情報を死によって揮発する。
寿命克服や万病を治療法を確立することなどによる不死や不老、機械への意識のムーブが実現したとしても物理的な破壊には抗えず、例えばガンマ線バーストに巻き込まれれば我々人類は一瞬で意味を喪失する。
数kmサイズの隕石が落ちてきただけで大概の人類は滅びシェルター内の人類も漫画や映画のように生きながらえることはできずに人類数百万年の歩みもそこで途絶えるだろう。

そのような天文イベントが起きずとも基本的は誰しもが平等にいつか死ぬ。
あなたも。
わたしも。

どんな感動にも思惑にも利権にも主張にも感情にも策略にも集団にも意味がない。
信仰心があればせいぜいその恐怖を少しは紛らわせることもできようがそれもその場凌ぎの誤魔化しにすぎない。
死んだものはその時点で喪失し、たとえそうならないようにどんなに対策しても物理的破壊による喪失を克服することは不可能。
どうあっても人類は唯物的であり絶対的に助かる方法などはなくどんな美形も金持ちも成功者も、ブスや貧乏人や落伍者と同様にちゃんと死ぬ。

だから心配するな。
何も考える必要はない。
世界はありのままでいい。
自分の心を日々癒せればそれでいい。
ただそれだけのこと。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?