光が強ければ影も濃い【幸せである責任】

私はあまりそう見られることはなくても、この人生においてわりと「地獄」を見てきた人間だという自覚がある。
地獄という言葉は人間の感じるつらさの一表現だが、もちろん何をつらさとするかは個人の認識にかかっており、他者から見ればとても大変そうでも本人はそうは感じてないということもあるだろう。
だからあくまで本人の感触としてのつらさ、地獄という表現ではあるのだが、誰の人生もまずは「本人の感じ方・認識」以外に判定するすべ、描写するすべがあるだろうか?

私がまだ精神世界やスピリチュアルといった思想に縁のなかった頃、はじめてその概念にふれるきっかけとなったセラピーの場で、こう言われた、
「光が強ければ影も濃いんだよ」
と。

自分の体験している様々な地獄の表現を肯定し、なおかつ、それを無効にするような強い光があるのだろうか?
そのように当時言語化して考えたわけではなかったけれど、私の心の中に今その表現が去来する。

二極性にだいぶ囚われなくなったと感じる今の私であっても、自分が経験してきた地獄を「経験する必要のなかった人、見る必要のない人生」があることを知ると、果たして私はどうしてこんな経験をあえてたくさんしてきたのかな……と、心が遠いところに離れてしまう感覚になることがある。

きっと、そんなときの私は「遠い目」をしていて、自分の人生のそのような謎、「この私」がそういう人生体験をつくったということへの「何とも描写できない思い」を抱えて、しばし心がさまよってしまう。
――私にはその必要があったのか?
あるとしたらなぜ?
もし、ただ無垢で優しい状態だけを保つことがこの世での正解、最も貢献できる姿勢なのだとしたら、なぜ、その実行をかえって難しくさせる深い闇の表現をわざわざ「身をもって知る」必要があったのか?

……このような問いは、問いのようであって実は違う。
私は答えを知っているからだ。

でも、ときどき、地獄のような体験を思い出すとき、心がさまよう。
もはや無効になっていたはずの自分の記憶が、データとして参照できることに悲しい目つきになってしまうことがある。
そのリアリティーに意識が注がれ、しばらく、その影絵がリアルになる……そんなとき、
「光が強ければ影も濃い」
これを思い出して、深い深い海をさらうことは、果てしない青天井の上空に向かうことと一緒なんだと思い出す。

そして、そのような地獄を心の内で経験した者として自分が誓うことは、
「幸せであることの責任」
だ。

地獄の体験がたった今リアルである仲間たちとの意識のネットワーク、その周波数にアクセスしている誰かひとりでも「幸せであること」を今、実現していれば、その道筋を同じように誰もが使いやすくなる。幸せの周波数へのアクセスがたやすくなる。
それは暗闇の中で光の道筋がはっきりしていくようなものだ。

だから、私はぼけているわけにはいかない。幻想にはまって、幸せから遠ざかっている場合じゃない。
自分自身が幸せであること。
それは、たった今そうであることはもちろん、内で芽吹いている小さな願いやヴィジョン、様々な「これから形になるかもしれない幸せ」の成長も潰さないことだ。
少なくとも、自分がそれを妨害していく姿勢を作らないこと!

ひとりの幸せは存在しない。
私が幸せであるとき、同じ地獄を見る経験をしたたくさんの人も、その幸せの可能性を共有することができるのだから、
そう、あなたも。
「幸せであることの責任」。

あなたひとりの価値を見くびらないで。
たった今も、これからも。
あなた自身の幸せをむげにせず、そのまま許可して。

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