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夢だった編集という仕事に殺されかけた20代のわたし

私の20代は修羅の道だった。

2000年代初頭、就職は超が付く氷河期。編集職を目指していた私は、まっっっったく内定が取れなかった。
とはいえ、何社も内定を取っている友人は何人もいた。変にプライドが高かった私は、選ばれやすい新卒ではなかったんだろう。

心配した実父が、「似たような業界だろう」とでも思って、知人が働く広告代理店を紹介してくれた。「でもそこでは雑誌を作れないし!」とあっさり蹴った。いま思うと、なんて失礼な学生だろう。

必死で内定をもぎ取った1社は、出版社。芸能人を起用したイケイケ(死語)風の雑誌を数誌出して、一見金回りは良さそうだったけれど、内情は火の車。私は編集ではない別の部署に配属され、会社は1年で事実上倒産した。

さあ困った。編集職は実務経験が求められることが多いのに、こちとらゼロスキル。
次の就職で編集職に食い込まなければ、おそらく今後なることは難しい。

23歳。失業保険で生きながらハローワークに細々と通い、恋人の部屋でワイドショーを見ながら、彼のメールばかり待っていたのを覚えている。
地方に住む親には「帰ってくれば」と言われたと思うけれど、「次こそ編集にならなければ」という強迫観念にかられた私の耳には入らなかった。事実、何か言われた記憶が残っていない。

地方出身の私にとって「東京で編集職に就く」ことがなにより重要だったのだ。実家に引っ込むなんて欠片も考えていなかった。

失業保険が尽きる直前、初心者可の編集プロダクションに採用された。
ここには3年勤めることになる。おそろしく忙しく、プライベートが0になった。
何本もの仕事が同時進行しているので、とにかく時間に追われている。
取材撮影の隙間時間に、他の会社から受けた仕事をやるのは日常茶飯事。
「屋外撮影の予定だけれど、雨が降ったらこうする。そのための小物もリスト化しておく」「順番待ちのAスタジオがNGならBスタジオ。結果が分かる○日まで両方おさえて、決定出しだい企画書をfixしてスタッフ決。撮影日がずれたら、その日にCの取材をアポ取りする」
プランA→Zまで可能性がある限り考え、穴をつぶす仕事の仕方は、この時に徹底的に叩き込まれた。見落としはないか、穴はないか、落ち度はないか、頭は24時間フル回転。いつも呼吸が浅い。山手線のホームで「ああ、今飛びこんだら、あの原稿もあのコンテも作らずにすむ」と思ったことは、一度や二度じゃない。

最初は失敗続きだったけれど、1年、2年と続けるうちに、少しずつ仕事を認めてもらえるようになってきた。
1社目で手ごたえを得られなかった「仕事」を通して「認めてもらった」―
いま思えば「仕事」が好きなわけではなく、仕事で「イイネ」と言ってもらえる自分を褒めてあげたかっただけ。自分を「働きマン」と思いこみ「東京で好きな仕事に生きる私」を生きようとしていた。

この編プロは3年が一区切り、というのが皆の共通認識。身の振りを考えていた頃、たまに仕事をくれていた出版社の女性が、ある雑誌の編集長になるという。私の1社目の経験が使えるその雑誌。「来ないか」と誘われ、渡りに船と転職した。編プロの社長には「下請けの人間を引き抜くなんてルール違反だ」と罵倒されたが、どうでも良かった。数年後にこの編プロも倒産した。

その出版社は、新卒採用の時に不採用になった会社だった。巡り巡って入社できた。オフィスは都心。23区の端っこのマンションの一室で身を粉にして働く娘を心配していた両親にも、ようやく良い報告ができる。夢だった版元編集。下請けじゃない。経験も活かせる。回り道は無駄じゃなかった。26歳だった。

しかし現実はそんなに甘くはなかった。

入社すると、編集長になった彼女は明らかに疲弊していた。その雑誌の経験が長く業界にも顔が利く副編集長と合わず、編集長なのに意見を出せずにいた。みるみる憔悴していき、ついには会社に来られなくなった。

いわば戦前逃亡した戦犯が連れてきた、版元経験がない26歳の小娘(=私)。
人が足りないので大型企画もどんどん任されるが、副編集長の思い描くものには程遠く、まるで評価されない。形にならない。
夜型の副編集長に合わせるためまったく帰れなくなり、この部署にのみ許されていたタクシーチケットを使って朝方帰宅していた。首都高から見る東京タワーがとてもきれいだった。「こんな事したかったんだっけ」と自らに問い直す気力はなかった。極度の緊張で覚醒した頭を2~3時間なんとか休めて、ぼんやりする頭と怠い身体を引きずって出社した。

数カ月後、編集長は退社した。副編集長が後任に引っぱってきたのは、女性誌出身の男性だった。彼が編集長になり、2人の蜜月が始まった。
彼は一見女性らしい柔和な雰囲気をまとっていたが、人の目がない場所では大声を出してキレて男になる。土曜深夜の会議室で、企画だったか取材経過だったかに腹を立て、ゴミ箱を蹴り上げたこともある。

役に立てない、認めてもらえない、自分には何の価値もない。疲れすぎて辛いと口に出すこともできなかった。前後して、7年付き合った恋人にふられた。27歳、人生で一番つらかった1年と断言できる。

ある日人事部長に呼び出された。目がうつろ、タイムカードに打刻された時間が異常だ―休職を提案された。走っている企画もある、なによりも休職なんて「負け」だ。抗ったけれど、心身ともに限界だったのをようく分かっていた。受け入れて周囲の人に謝罪し、会社をあとにした。途中の企画も全部放り投げて。後日書店で手に取ったその号の奥付に、私の名前はなかった。2人の怒りを感じた。

私の後任の人も同じような状況になり、仕事中にオフィスで泡を吹いて倒れたと後日誰かに聞いた。その雑誌も1年後廃刊になった。広告費に対して、撮影などでお金を湯水のように使っていたことが要因だった。

2カ月ほど休職し、初めて精神科へ通った。実母と海外へ旅行してリフレッシュし、心機一転、別の編集部へ異動した。細心の注意がはらわれた人事で、人にも恵まれ、そこそこ結果を出せて、今の会社への道筋もできた。私は28歳になっていた。

ここまで仔細に振り返ったことは今までない。すべての事は断片的だったので、順を追って振り返ることはときどき手が止まるほど辛かった。

20代の私は「自分ができないからだ」「頑張れないのは弱いからだ」「もっとできる人はいる」「今頑張らねば『もっとできる人』にはなれないぞ」―脳内に鳴り響くおそろしい声に従い、今すぐ横たわりたい身体を縦にし、よろよろと立った。栄養状態は劣悪で、生理は止まっていた。円形脱毛症もできた。「乗りたくないが、降りるのも怖い」ブレーキが壊れた車に目をつぶって乗り続けるような5年間だった。良いこともあったけれど、悪いことの方が多く傷は深かった。

なぜこんな事になったのか。

就職活動とは「社会での居場所」を与えてもらうための活動だ。
就職氷河期に就職しなければならなかった私は、居場所を獲得する難しさを痛いほど知っていた。自らの手で息も絶え絶えたぐり寄せた居場所を捨てることが、本当に怖かった。
しかも地方出身の私は、社会から金銭をもらって部屋を借り、生活拠点を作らねばならない。無職になったら死ぬか、何もない実家に帰るしかないのだ(と思っていた)。

今よりずっと若くて肌ツヤも良かっただろう20代、遊ぶ暇がなかった数年間の写真はほとんどない。私はどんな顔をして、どんな髪型でどんな服を着ていたんだろう。
過去には戻れないし、文字通り命を懸けて仕事をしていたからこそ、今の自分がある。どの経験も次の仕事に繋がっていったから、私はまだ運が良かった。

けれど、未来の自分の子どもたちに同じ経験は絶対にしてほしくない。あの頃の私はかわいそうだ。

やりがいを搾取される、人を育てず淘汰する環境に身を置かないで。自分を真に慈しんであげられるのは恋人や家族じゃない、自分だけ。頭がぼんやりして心が動かなくなって、それでも身体だけが反射で動くのは「若いから」じゃない。心が動いているか、常に対話を。大切な人に会えないほどの仕事量は異常だと。今ならわかる。

時代は変わり、今の若者は昔ほど仕事に執着しないと言われているけれど、精神的マッチョを強要する職場はいくらでもあるだろう。

子どもたちには「自分を慈しむこと。仕事がどうであろうと、どんな環境でもあなたは尊いこと。搾取されたり、淘汰されるべき存在ではないこと」を繰り返し伝えたい。
これらはいま流行りの「自己肯定感」につながるだろうけど、仕事の前ではないがしろにされがちだ。

20年後、なんらかの仕事をするだろう息子と娘が同じ苦しみを抱えないことをただ祈る。

あの頃の私を抱きしめ、頭をなでてあげたい。そんなに頑張らなくても、あなたの価値は変わらない、と説きながら。きっとあの頃の私は、それに耳を貸すことなく、泥のように重い体を引きずって通勤電車に乗るだろうけど。

あのとき命を絶たなくて、今ここにいられて本当に良かった。

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