クソガキは世界平和の夢を見るか(終章)
おはよう、こんにちは、こんばんわ。
さて今回も、クソガキがうんちくを垂れ流していく。
さて今回は「クソガキは色々やっているが、結局何を目指しているんだ」と言われることが増えたので「私が見据えている未来」と「その未来に対する布石」をどう据え置いているかについて垂れ流していく最終回。
終章では、コンセプト期において具体的にどのようなアクションをしていくのか詳しく説明していく。
クソ面倒で、クソ冗長で、クソどうでも良く書いていくので読む人は覚悟するがいいだろう。
世界を変えるな、世界をつくれ。
前回のおさらいに関して(コンセプト期とは何か)
これまでのパラダイムの限界を「一神教的な指標」による支配にあると批判した上で、「多神教的な多次元指標」によって「すべての存在が存在し、物語られる」可能性を担保すること。一つの世界の中で争うのではなく、一人ひとりが無限に世界を創造する世界。それがコンセプト期であるという話をした。
つまるところ「世界を変える力」から「世界をつくる力」に力点が置かれていくわけだが、その意味における「クリエイティビティ」をどう民主化してくかが私は鍵になっていくと思っている。今回、その話をすることでこの「クソガキの世界平和論」を締めくくっていこうと思う。
イノベーション vs クリエイション
「世界を変える力」とはイノベーション的であるとも言える。イノベーションの日本語は「革新」すなわち、「古きものを改める」意味合いを含んでいる。それゆえ、マイナスの状態をゼロに変える意味合いが強い。マイナスな部分を無くしていく観点が非常に強いのである。
一方、「世界をつくる力」とはクリエーション的であるとも言える。クリエイションの日本語は「創造」すなわち、「新しいものを生み出す」意味合いを含んでいる。マイナスをゼロにするというよりも、ゼロからプラスを生み出していく観点が強いわけである。マイナスを無くしていくとゼロに収束してくが、プラスを増やしていくと世界はどんどん膨張、拡散していくことになる。
私の尊敬している数少ない人物であるわかしんさんも上記のテッドトークにおいて、「価値創造」について語っている。課題解決においては普遍性、一般性に向かっていくが。価値創造においては、指標が存在せず「あやしい」ものとなる。ここの価値をどう見出していくのか、そもそもどう価値創造を創造していくことが重要なのである。
イノベーションに従属するクリエイション
一方、世界において、特に日本においてクリエイションの立ち位置はどうなっているだろうか。「デザイン=課題解決」ということが普遍的に浸透がようやく完了した段階、すなわちクリエイティビティとはイノベーション、ひいてはアントレプレナーシップにおける補助的な役割という立ち位置となっている。クリエイティビティがダイレクトにビジネス化しているケースが表立ってることはほとんどない。かつ、ここでいう”補助としてのクリエイティブ”が広告産業となっており、クリエイティビティが全面に出る活動はアートという領域に分類され、尚且つ日本においてはこのジャンルに対する日の当たり方も悪い。
何が言いたいかというと、クリエイティビティは非常になおざりにされている。創造の力を先陣きって駆使していくはずのクリエイターでさえ、本来の意味での「クリエイティビティ」を奪われているこの状況を打破しない限り、「価値創造」の世界は訪れようもない。ゆえに、次の時代の鍵はクリエイティブ業界を変え、本来の意味での「クリエイティビティ」を発揮するクリエイティブ産業の勃興によっておこることになる。
クリエイティブ産業を勃興せよ
言いたいこと、引地氏がほぼ代弁してくれていたのでこの章は引用を中心に説明する。引地氏が語っているように、クリエイティブ産業の担い手が生まれる土壌は少しずつ形成されようとしている。その上で、土壌から発芽し、新たな時代が創造されるにおいて残された課題。
それは、
①クリエイティブベンチャーのロールモデルの輩出
②クリエイティブ産業の担い手の輩出
③クリエイティブ産業を取りまとめるメディアの構築
この3つである。クリエイティブベンチャーが生まれ、そのベンチャーに必要な人材が集まり、そこで生み出されたものが大衆に届き経済が循環していく。このことにより、クリエイティビティは本当の意味で「民主化」した状態へ導くことができる。そして、私が来るコンセプト期における打ち手は全てこの①〜③に付随するものなのである。
①クリエイティブベンチャーのロールモデルの輩出(ランニングホームラン)
弊社である。
弊社をクリエイティブベンチャーのロールモデルの会社にまで育て上げることが第一ステップであると考えている。ここで事業、組織共に理想系を形作ることであらゆる企業をクリエイティブベンチャー化する契機を作れればと考えている。
弊社においては個々人の「快」に基づき、個々人が表現し、経済を生み出していくことが推奨されているが、これはつまり本来の意味における「クリエイティビティ」をビジネス化することを実装することと同義なのである。この活動が本格化していくことで、クリエイティビティを経済化することの公式を導き出していきたい。
そして、ランニングホームラン自身がクリエイティブベンチャーとして台頭すると同時に、クリエイティブベンチャー化するための支援を提供していくことで、徐々にコンセプト型の企業を生み出すことも重要だと考えている。
そのための手法が、この自走ブランディングだ。いろんな側面で語れるブランディングメソッドであるが、この文脈で言うと企業の「クリエイティビティ」の快放を支援しているサービスと言える。
②クリエイティブ産業の担い手の輩出(クリエイティブ就活を問い直す会)
これまた引地氏の引用で恐縮なのだが、「マジでそれな」なので引用したい。ここで引地氏が述べているように、「個人の声」にフォーカスをあて、それを表現することが何よりも本来の「クリエイティビティ」を発揮するにあたっては非常に重要になっている。しかし、多くのクリエイターが「個人の声」を奪われた状態になっている。この状態になっている理由もこれまた引地氏が非常に明快な指摘をしているので引用したい。
「個人的なことは社会的なこと」
ソーシャル期における社会運動の活発化はこの標語に支えられた。しかしこの標語は個人的なものを社会に繋げる可能性を開くと同時に、個人的なことを社会的なことにする義務を生んでしまったと思っている。つまり、「社会的なこと」にならない「個人的なこと」は社会から本当に存在しないものとなってしまう状況になっているということである。個人的なことが社会的なことに開かれて無かった時代は、個人的なものは個人的であるままだったのであるが、この私的領域に社会的評価が加わることで全てが「他者軸」になったわけである。この流れはクリエイティブ業界にも当然影響を受けた。デザイン=課題解決となることにより、クリエイティブという神聖性は解体され、普遍的なKPIに晒されることとなる。その行き過ぎによる、クリエイティビティの崩壊を覆すには、「個人的なことを個人的なままに」内省し、表現する営みが重要となる。
この役割を担うのが「クリエイティブ就活を問い直す会」である。
個々人の「個人的なこと」を純粋抽出することで、本来の意味でのクリエイティビティを発揮できる人材を輩出していくエコシステムを形成していく。
③クリエイティブ産業を取りまとめるメディアの構築(I am CONCEPT.)
クリエイティブ産業を担う企業と個人が生じたとて、それらが界隈を形成し社会に打って出るための触媒がなければ世界に圧殺され消えてしまうことになる。この状況にならないためには、クリエイティビティから生み出されるプロダクトを世間に繋げるメディアが必要になる。
その役割を担うのが、この「I am CONCEPT.」である。コンセプト(≒個人的な想いから生じるクリエイティビティ)を中心にキュレーションし、「コンセプトで選ぶ」カルチャーを生じさせることで、クリエイティビティを所有する可能性を拓きたいと思う。
以上が、私がこれから為すことであり、その結果世界にもたらされるであろう事象である。3年ほどでこの構想を実現させていこうと思うので、読者諸君は刮目しておいてほしい。
今週の質問:「今では笑い話ですけどね」な自分にまつわる小話
中学生の頃、引きこもりだった私にとって唯一の救いが「ギャルゲー」であった。別名恋愛シュミレーションゲームであるが、別に恋愛をみたかったわけでは無かったと思う。どちらかというと音声、音楽、画像による圧倒的没入感で仮想体験をしたかったのだと思う。そのゲームをやっている瞬間は私は引きこもりではなく、ある時は勇者で、ある時は普通に学校に通っている学生であったわけだ。4畳一間の空間で、そんな世界をずっと夢見ていたのだ。
ただし、引きこもりである私は外に出ることは非常に億劫なわけである。ただゲームはやりたい。
どうしようもないので、登録されている父のカードでこっそりゲームを購入したことがあった。
ゲームをダウンロード完了し、仮想世界に入り込んでいるその時に事件は起こった。
「おい、この〇〇というタイトルのゲーム買ったのお前か?」
という父の声が、扉越しに聞こえたのであった。世界の全てが終わった気がその瞬間したのを覚えている。
まぁ、今では笑い話なのだが。
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