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記事一覧

亀裂

あの時、俺はどうすればよかったのだろうか。ふとそんなことを考え出しても答えの出るものではない。でも、間違えてしまったことは確かなのだ。あの時確かに生じた亀裂があった。その苦い思いは遠く過去のものになり、乗り越えたといってよいと思う。しかし、たまに思う。どうすればよかったのだろうか、と。あの時生じたままの亀裂を、俺は踏み越えられないでいる。

 久々に会った幼馴染は、髪を首筋までで切りそろえていた。

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クラゲとヒトデとてんとう虫

 広い海を漂っていくのは、思いのほか簡単なことではない。海に生きる魚や、えびやその他多くのよくわからない生き物も、おおむねクラゲのことを楽して生きているものと思い込んでいるようだった。実際には、周りのものが考えるほど楽な暮らしはしていない。クラゲが楽そうに生きているように見えるのは、クラゲ自身がそのように語っているからだ。楽に暮らしていると語り、楽に暮らしているのだという顔さえ崩さなければ、だれも

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空想スケッチ

 音はしない。
いつも見る夢だ、と彼女は言う。
果てしない遠くのほうまで、水面が広がっている。見渡す限り、水面が続いている。ところどころ群生する木はさして背が高いわけではない。何かにしがみつくようにまとまって生えていて、それがまるで水田のなかにぽつんと残った祠を守っているような唐突さがあるのだという。
彼女はいつもそこに立って、ただ立って周りを見渡している。
木になったような気分になるというのだ。

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二つの朝

 二人の男が話している。

「今年もこれで終わりか」

「まだ夏だろ。もう年明け気分なの?」

「違うよ、花火。もうすぐ終わっちまうなと思って」

「いいじゃん、フィナーレ。豪華で」

「終わりが華々しくてもな。後が虚しいだろ」

 ロングのビール缶を足元に置く。

 二人の男が話している。

「お前最近、ちょっと世の中嫌いだよな」

「なんだそれ」

「厭世的っていうのかな。虚無主義的な」

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沈む空に

 夢は終わった。もう長いこと、ずっと見ている夢だった。揺られ漂って、少女は青い水の中で息を吐いた。真正面に向かって泡が膨らんでいく。なら、今は仰向けになっているのだろう。ずっと遠くに輪郭のない太陽が見える。水の中にその色は蒼あおい。しゃがれた波の中に少女の吐いた息が切り揉まれて太陽を崩していく。少女はゆっくりと瞬いた。衣服を絡めた手足がどこまでも沈んでいく。髪が広がっては纏まといついていく。太陽に

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昇り階段の青

 昇る階段の先に空がある。彼女は階段を昇るのが好きだった。拍を取る爪先。イヤホンのコードに映る空色。自分から顔いっぱいに風を受ける。上から吹き降ろす風に足を差し出して次の一歩を踏む。頭こうべを上げて首を伸ばす。昇り階段では、彼女は下を向かない。踊り場に向けて真っ直ぐ眼差しを向けていられる。手すりを掴んで踊り場を折り返し、次の十段へ。灰と白のミルフィーユの先にはまた空が彼女を見下ろす。空は青い。雲を

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にゃんこがおる

 にゃんこがおる。道路のなかの安全地帯ににゃんこが生えていた。本物じゃない。エネルギーの噴出物がにゃんこの形をとっている。そんな感じに思えた。ちょっと亡霊チックである。ニャーンと平坦な鳴き声が聞こえるような気がする。もちろん気のせいだ。だって頭の中にダブった道路の中に生えたにゃんこだから。普通、にゃんこは生えない。道路だろうが草むらだろうが、生えたりしない。これは想像上の、ちょっとおかしなにゃんこ

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水たまりの入り口

少年は傘をさして駅からの家路を歩いていた。雨はもう降っていなかったが、濡れた折り畳み傘をぶら下げるのも、鞄の中に突っ込むのも御免だ。くるくると傘を回して、雨水をはね散らかす。紺青の空にくっきりと淡い灰色の雲がたなびいていて、尾を引いたその輪郭は薄く滲んでいた。そう遅くはない時間だというのに、とうに月が昇っていた。月をはらんだ雲が、丸く虹を作って雲の濃淡を彩っている。おぼろ月というには隠れすぎていた

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カラスの罪と手配書

 闇夜にまぎれて、男はレンガ敷きの道に高い靴音を響かせていた。深くかぶった帽子も長い外套もこの街で特に珍しい服装ではなかったが、それがこの男にとっては好都合だった。木枯らしが吹く乾いた道を黙々と歩く。

幾分か疲れた。人を殺すのに人を生むほどの疲れは伴わずとも、作業は多い。苦痛はもはや伴わないが、人を殺す快感と人を生む喜びは等価に近いと男は思っていた。女が産むことに喜びを感じるのなら、男が殺すこと

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向日葵の音

 太陽は花を求めている。眼下に広がる無数の花にいつも焦がれていた。距離はわずかに一億五千万キロに満たない。年をとればとるほど熱を帯びるから、太陽には触れるのに造作ない距離だった。それでも、触れてはならないと心のどこかで思っていた。優しくて柔で繊細で、太陽が少しでも触れようものならみんな消えてしまうだろう。それほど弱いのに、花というものはいつまでも強く毅然と咲いていた。

 なかでも太陽が一番好きな

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座布団の神様

 家には座布団の神様がいる。黒髪交じりの白髪を結い上げて、腰は曲がっているのに背筋をぴしりと伸ばしている。のんびり茶をすするその背中は柔らかく優しかった。

「あれが神のイゲン……」

ホウと息を吐いていると、母にぺしっと頭をはたかれた。

「何言ってんだ、あんたは」

苦笑交じりの声には頭を触る。座敷奥の縁側で昼下がりの光に照らされている座布団の神様は、あまりその場から動こうとはしなかった。いつ

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日陰の男

 山を背にした森の中に蔵が一つ建っている。蔵の屋根に男が一人座っている。蔵の前の地面の上にも男が一人座っていた。蔵の上の男は下に向かって声をかけた。

「おぅい、そこの奴よ。日陰は寒くないかい。上がってきてはどうだろうね」

蔵の下の男は柔和に笑んだ。

「おう、そっちはあったかいだろうねぇ」

蔵の上の男はちょっと伸びをしてみせる。

「そうともさ、日当たりがいいんだ。それに見晴らしがいい」

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花灯りを追う

 四角い箱がある。内壁は白く何の模様もない。何の装飾もなければ、めぼしい家具もない。外壁がどうなっているかは知らない。外からこの箱を見たことはなかった。その中で、髪の長い少女はただ独り椅子に座っている。豪勢な造作の椅子だった。枠木は金、緋のビロードでふかりと膨らんでいる。ただ白いばかりの箱の中と対比して、非常な装飾が目の奥でキンと痛むような光をはじいた。王様が座る玉座に似ている。その中に、身を沈め

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頭の中の揚げ出し豆腐

 それは突然のことだった。頭の中で豆腐が踊りだす。ただの豆腐ではない、揚げ出し豆腐だ。しかも、小躍りかと思うとそういうわけでもない。なかなかにキレのあるヒップホップだった。顔もなく、ただ直接手足のみを生やして踊るさまが非常にシュールで、我が脳内のことながらあきれ果てる。そんな私の目の前で、豆腐が軽快なステップを踏み続ける。

 頭を思い切りはたいた。脳内の豆腐がべしゃりと音を立てて崩れ去る。手足も

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