頭の中の揚げ出し豆腐

 それは突然のことだった。頭の中で豆腐が踊りだす。ただの豆腐ではない、揚げ出し豆腐だ。しかも、小躍りかと思うとそういうわけでもない。なかなかにキレのあるヒップホップだった。顔もなく、ただ直接手足のみを生やして踊るさまが非常にシュールで、我が脳内のことながらあきれ果てる。そんな私の目の前で、豆腐が軽快なステップを踏み続ける。

 頭を思い切りはたいた。脳内の豆腐がべしゃりと音を立てて崩れ去る。手足も消え、崩れ残された残骸だけが心なしか寂しげに震える。ああ、私はきっと疲れているのだろう、だからこんな意味の分からない想像が浮かぶ。馬鹿げた白昼夢より、私はもっと考えねばならないことがあるのだ。忘れなくては。

 そう思った矢先、崩れたはずの豆腐が再び形を成す。元通りにすっくと立ち上がって、手を突き出す。踊りはじめる。さっきよりもずっとキレのある動きだ。動くたびに、汗のつもりなのか、澄んだ出汁がきらきらと飛び散る。小癪なことだ。たかだか豆腐の分際で。そのとき、ちらりと頭の隅に橙色が流れた。人参かな、と思った途端、本当に人参が現れた。やはり小生意気なことに手足付きで。グラッセにされた柔らかそうな人参がいくつか、豆腐の周りを取り囲んで踊りだす。豆腐よりもずっと身軽な感じがする。だがしかし、キレは豆腐に遠く及ばない。跳ねる人参の中で、豆腐のキレのある動きは強調された。――限界だ。これ以上考えていられない。頭がおかしくなる。

 激しく頭を振って、くだらない虚構を振り払う。こんなこと、頭の中にあるだけで、必要な事柄すべてを忘れてしまいそうだ。インパクトが強すぎる。どんなに重要なこともすべて抹消する破壊力があった。これではどうしようもない。もう本当に忘れなくてはならない。顔を上げて、自分と同じようにベンチに座り込んでいる周りの人々を、何とはなしに眺めた。一人でいる人は大抵、私自身もそうであるように、何か思い悩むような顔で弁当を口に運んでいた。その中の何人かは、やはり自分と同じように、時々頭を振ったり自分の頬をはたいたりしている。どれもくだらない考えを振り払うしぐさに他ならない。もしかしたらあの中に、常識にとらわれない、いい考えがあるかもしれない。見過ごしたまま、かなぐり捨ててしまうなんてもったいない。一見、大したことがないように思えて、実はそれこそが最善の思いつきであることなど、いくらでもあるのに。……と、そこまで考えて、私は阿呆のように開けたままの口をつぐんだ。

 疼くように震えていた豆腐が形を取り戻す。その過程で、なぜか豆腐は二つに増えた。手を取り合って協力して踊り進めるうち、ふとした瞬間に豆腐は増えた。ある時は合体し、ある時ははじけて消え、それでもだんだんと容積を増やしていく。頭の中に存在していたはずの空白は全て豆腐で埋まった。人参すらも姿を消し、いつしか空白でない部分すらも脅かす圧で豆腐が詰まっていた。次第に数は減っていくが、容積はむしろ増えていく。

 妙な高揚感があった。ただの揚げ出し豆腐に、強い希望さえも感じた。何が出来るのだろう、豆腐はどこまで育つだろう、どんな形になるだろう、私に何を見せてくれるんだろう――。

いきなり崩れた。崩れて飛び散った。頭の中の空白は元の容積を取り戻し、豆腐は跡形もなくなった。私は呆然とした。衝撃より、驚きより、混乱が先にやってきた。何が起こったのか、そもそも何かが起こったのかすら把握できなかった。じわじわと焦りが頭の中を侵食していき、脳内が白く染められていく。解を求めてフル回転する脳みそとは反比例して、視線は膝の上のお弁当箱から動くことができない。目に映ったものが、長い時間をかけて頭の中に沁み込んできた。お弁当箱の隅に入れた、昨日の残りの揚げ出し豆腐が、一度風に揺れた気がした。

真っ白な脳内に、ちらりと何かがよぎる。消えた豆腐が舞い戻ったのか。私の期待に応えるように、くすりと忍び笑う声が響く。甘やかでささやかな波紋のように、その声が頭いっぱいに広がる。

「――……なーんちゃって。残念、お豆腐じゃありませんでした。」

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