クラゲとヒトデとてんとう虫

 広い海を漂っていくのは、思いのほか簡単なことではない。海に生きる魚や、えびやその他多くのよくわからない生き物も、おおむねクラゲのことを楽して生きているものと思い込んでいるようだった。実際には、周りのものが考えるほど楽な暮らしはしていない。クラゲが楽そうに生きているように見えるのは、クラゲ自身がそのように語っているからだ。楽に暮らしていると語り、楽に暮らしているのだという顔さえ崩さなければ、だれもクラゲが努力していることに気づいたりしない。その努力は誰にも知られなくていい。努力が知られているということは、それだけクラゲが生きるのに苦労していることを言いふらしているようなものだ。それだけの弱さを見せることはクラゲにはできなかった。クラゲは弱いのだ。楽に生きていると見せかけていなければ、たちまち海の暗さに溶け出して消えてしまうだろう。だから、泳げない手足を懸命に動かして、それがいかにも楽そうに見えるよう、なるべくゆったりとその場にとどまる。それが、クラゲの生き残り方だった。

 クラゲはそんな生き方をもとに、ほかの生き物を軽蔑するふりをしてみせた。そうしないと、クラゲはこの広くて暗くてどこまでも深い海を生き抜くことができないのだ。特に軽蔑してみせたのは、貝やひらめなど、海底に生きる生き物たちだ。彼らは皮膚を砂の色に変え、あるいは自らの体を半分砂に埋め、這いつくばってじっとしている。それは、クラゲの生き方とは真逆だった。体を銀色に光らせて波に紛れたり、とびきり早い逃げ足で生き抜くやり方とも違う。いかにも地味で、いかにもみじめだとクラゲは言い続けていた。実際に、彼らは目立たないように生きているのだ。それがみじめかどうかはクラゲにはわからない。しかし、相手を前にしてみじめだと言い続けていると、相手が本当にみじめなものに見えてくることがあった。さらに、相手が自身をみじめなものとしてとらえているから、隠れて過ごしているのかもしれないとさえ思った。クラゲは海底の住人たちをみじめだと言い続け、とうとう心からみじめなものに変えてしまったのだった。そう思いはじめると、ますますクラゲは楽して生きていることを実感できた。自分が楽して生きていると思うと、クラゲはさらに気持ちが楽になって、生きることも楽になった。

 あるとき、クラゲがいつものように漂っていると、海底に大きなヒトデの子を見つけた。話を聞いてみると、ヒトデの子は地上に出る方法を探しているらしかった。「夢なんだ」とヒトデの子は言った。驚いたことに、ヒトデの子は地上に出て、てんとう虫という虫になりたいのだという。てんとう虫のことは、干潟に遊びに行った生き物から聞いたのだ、とヒトデの子は言った。あんなに危ないところに遊びに行く生き物の気持ちはわからないが、乾燥した陽だまりから、太陽に向かって飛んでいくのが夢なのだ。その話を聞いて、クラゲは思わず笑ってしまいそうになった。このみじめなヒトデは、ロマンチックな自殺を夢見ているのだ。クラゲは地上に出る方法を知らなかったが、知っているふりをして、からかってやろうかとさえ思った。それほど、ヒトデの持つ夢は滑稽で、突飛で、無垢だった。クラゲは心の中でひとしきりヒトデの子の夢を馬鹿にしてから、自分は地上に行く方法も、地上を生き抜く方法も、てんとう虫のなり方も、何一つ知らないのだと告げた。ヒトデの子は、クラゲの告げたことに対して傷つかなかった。むしろ、探求心をくすぐられた様子さえ見せた。クラゲは、なんとなく不快な気分になった。

 愚かなヒトデの子に別れを告げ、しばらく海を漂った後も、クラゲは何となくすっきりしない気分を抱えたままだった。深い色の靄に囲まれたあたりを見渡していると、ますますその気分は強まっていった。クラゲは旧友のタコのことをふと思い出し、すみかを訪ねた。タコは、クラゲの数少ない交友関係のうちの一人である。クラゲも見切りをつけるほどのことをされたことはないし、タコのほうでも、それほど害がないから、話しかければ答えてくれるのだろうと予測がつくほどの仲だ。タコは博識で、海のことも、海の外のこともなぜか知っている。地上のてんとう虫になりたいヒトデの子の話をするのに、適した相手だとクラゲは思った。

 タコは岩の間で眠っていたところらしい。起こされたばかりのタコは、機嫌が悪いのでもなく、ただのっそりと岩場から這いずり出て、奇妙な目をくりくりと動かしていた。そもそも、いかなるときも、タコは感情らしい感情を見せない。それが変人だの悪魔だのと呼ばれて嫌われる理由なのだが、クラゲはそれを教えてやるつもりもないし、タコも嫌われて困っているようではなかった。寝起きのタコに、クラゲはしゃべりたいだけヒトデの子の話をした。タコは黙ってクラゲの話を聞いていた。クラゲが一方的に話を続け、言葉が途切れると、タコは奇妙な目をあちこちに動かし、水を吐き出した。

「天道虫てんとうむしを夢見る海星ヒトデの子、それが気に食わない海月クラゲ、ふうん……」

クラゲはひそかに、タコが答えをくれるのを期待した。何しろこのタコは博識なのだ。海のこと、海以外のこと、生き物のこと、何でも知っている。クラゲの心うちに現れた不快感について、きっと答えが与えられると思ったから、タコのもとを訪ねたのだ。しかし、タコの返答はそっけなかった。

「恋煩い、ってことでいいんじゃない」

 みじめな夢を持った醜いヒトデに対して、恋煩いなんかするはずがない。タコもその程度のことはわかっているだろう。わかっていて、はぐらかして答えたタコに対して、クラゲは腹を立てた。クラゲはその日出て行ったきり、二度とタコのすみかには行かなかった。

 それ以来、クラゲはなんとなく不快な気分を持て余したまま日々を過ごしている。楽そうなふりをして、ふわふわと海を漂いながら、てんとう虫とはどんな生き物なのか考えた。きっとみじめな生き物だろうとクラゲは考える。愚かなヒトデの子が夢見るくらいの生き物。薄暗く、汚いところに住んでいて、みんなの嫌われ者だと理想的。一生懸命泥をすすって生きていて、楽にふわふわ漂って生きているクラゲとは全然違う生き物であればなおよい。なんといってもクラゲは楽して生きているのだ。楽をして、苦労はせずに漂っていかなければならない。だから、てんとう虫はみじめに苦労して生きていなければならない。でも時々、こうも考えることがある。

 てんとう虫が、クラゲのような生き物であればいいのに、と。

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