水たまりの入り口

少年は傘をさして駅からの家路を歩いていた。雨はもう降っていなかったが、濡れた折り畳み傘をぶら下げるのも、鞄の中に突っ込むのも御免だ。くるくると傘を回して、雨水をはね散らかす。紺青の空にくっきりと淡い灰色の雲がたなびいていて、尾を引いたその輪郭は薄く滲んでいた。そう遅くはない時間だというのに、とうに月が昇っていた。月をはらんだ雲が、丸く虹を作って雲の濃淡を彩っている。おぼろ月というには隠れすぎていた。小さな月が群れを成して寄り添っている上から雲がかぶっているようだった。

ライトを煌々と点けた車が少年を追い抜いていく。タイヤが水たまりをこするたびに、小さな飛沫が少年のふくらはぎを刺していった。遠くに見える交差点の信号は点滅している。走って行けばきっと間に合うだろうが、気の早い夜空が気だるさを運んで少年は白線ギリギリを歩いていく。右側に下げた鞄が民家の壁を擦っていた。勢いをつけて傘を回した時、傘の骨も壁に当たって大きな音を立てる。少年は首を竦めてまつ毛に跳んだ雨粒を払った。足を止めて傘を見上げ、とうとう羽根を閉じる。閉じて括った傘をぶら下げ、今度はそれを手元で振り回しながら歩く。もう一台の車が少年を追い抜いた。

交差点にたどり着き、一瞬前に赤に変わった信号を見上げる。斜めに見える横向きの信号が青に変わって、目の前で止まっていた車の群れがのっそりと動き始めた。足が止まると急に手持無沙汰になって、とりあえず手近なガードポールに手を突いて体重を乗せる。もとは白く真っ直ぐだったものだが、錆びたり歪んだり、少年と同じように手を突く人が多いため、てっぺんが磨かれて光っている。体が斜めになり、目にちらりと光が映った。

二歩先にある水たまりが傍のぼんぼり型の街灯を映しているのだった。交差点のはたのアスファルトにできたくぼみは水を湛えて黒々と光っている。少年はまじまじと水たまりに映ったぼんぼりを見つめた。驚くほどほどくっきりと地面にあった。明かりが映るから水たまりが黒々とするのか、それとも水たまりが黒いから明かりがくっきり映るのか。いずれにしてもその水たまりの黒は見事だった。しっとりと艶を帯びて、だというのに硬質な光を湛えた黒だった。明かりももちろん、水たまり自体が黒い光を含んでいるかのようだ。質量があるのに、どこまでも透明が続いていくかのような。少年はぱっと空を見上げた。雲を透かしてくっきりとした月が見える。雲は薄くなったようだ。相変わらず虹に囲まれた月は明るく星さえ見えない。空は幾重にも暗幕を引いたようだ。何枚も向こうに朝の光を透かしている。

もう一度、二歩先の水たまりに目を落とす。どこまでも深くまで続くような気分になる色だ。深淵を覗き込む。入り口にはぼんぼりが咲いていた。ずっと続く水たまりの世界の中の、唯一の足場みたいだ、と少年は思った。地面にあるそれは、実際のものよりずっときらめいていた。少年は水たまりに近づいて足場に乗ってみようと思ったが、近寄ってみると明かりが水たまりに映らない。しかたがないので、少年はガードポールのところまで戻り、精一杯片足を伸ばして水たまりの縁を爪先で叩いた。艶やかな足場は散りに砕け、ひんやりとした雨水が靴底を冷やした。水たまりの世界は揺らいでも果てがあるようには思えなかった。少年は足を引っ込め、三度空を見上げる。雲はいつの間にか消え去り、紺青の空にはただ月だけがくっきりと輪郭を描いていた。

見上げた少年の目の端で赤信号が青に変わる。隣で動き始めた車の群れに追い越されぬように、少年は白線だけを踏んで横断歩道を渡った。濡れた爪先に、閉じた傘から雫が落ちた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?