カラスの罪と手配書

 闇夜にまぎれて、男はレンガ敷きの道に高い靴音を響かせていた。深くかぶった帽子も長い外套もこの街で特に珍しい服装ではなかったが、それがこの男にとっては好都合だった。木枯らしが吹く乾いた道を黙々と歩く。

幾分か疲れた。人を殺すのに人を生むほどの疲れは伴わずとも、作業は多い。苦痛はもはや伴わないが、人を殺す快感と人を生む喜びは等価に近いと男は思っていた。女が産むことに喜びを感じるのなら、男が殺すことに喜びを感じてもおかしくない。そして、喜ぶことは疲れる。激しい感情の波立ちにはエネルギーが必要だ。それで男は今日も足音を引きずって夜道を歩いている。帰る家も今晩の宿の当てもない。建前では男は金と引き換えに仕方なく殺しに手を染めているのでなければならない。金を踏み倒されてしまえば罪科と疲労が積み重なっていくだけだ。苛立ちも憤りも湧いてこない。というより、感情を動かすのも億劫だった。ただ重苦しい疲れが足を満たしていて、水を引きずるように重い。そもそも今回の依頼主は貧困の小男で、借金取りをどうにかしてほしいというものだった。依頼を終わらせても金が入ってこない可能性はもちろん頭の隅にあった。しかし目先の欲に眩んで引き受けてしまったが運の尽き、その可能性をあえて無視した。その結果が今の彼だったから、誰に八つ当たりもできない。八つ当たりができるような相手も持ち合わせていなかった。無為に足を進めて、ふと右の小路の奥に人影がよぎった。男がそっと横目で盗み見ると、そこにあったのはくすんだ鏡だった。鏡に映った自分の手配書が風に震えている。鏡の前には電柱があって、寄り添うように立った街灯が電柱の根元に強い影を刻んでいた。下の方は泥で塗り固まってしまっている。鏡に映っているのは他でもない彼だった。鏡を通して見る彼の姿は彼にとっても意外なほどに普通の男にまぎれていて、とても外套の内側に血塗れのナイフを隠し持っているようには見えない。なんとなく悦に入る気分で鏡の方に歩みを進めていくと、足元に黒い影がわだかまっている。目を凝らすと、それが幾羽かのカラスだということが分かった。とんとん、と彼の足許を跳ねて見せる。小さく舌打ちをして爪先で追い払っていると、小さく声がした。

「その子たち、私の友達なの。ひどいことしないで」

静かな声だった。声の出所を探ってチラチラと辺りに目を配ると、答えるように電柱の向こうからチラチラと手が振られた。奥の鏡に目を凝らすと、電柱の足許に座り込んだ小さな横顔が見えた。

「夜道は怖いものだらけだってのに、こんなところで一人遊びだなんてお前なかなかいい趣味してるじゃないか」

薄く笑いながら声をかけるが返答はない。小さく笑った声が返ってきただけだった。歩み寄るとカラスが何羽かついてくる。横目で軽く睨みながら、電柱越しに鏡に映る少女の白い顔に下りた陰を見た。街灯が赤いせいで、陰も熟れたような甘さを伴って少女の目元を隠している。

「早く帰らなきゃママが心配するぜ?」

笑い含みに男が声をかけると、少女は初めて俯けていた首を上へと仰向けた。長い前髪が白い頬を滑って耳まで届く。

「そうかしら」

「ああ、そうともさ」

夜道は怖いものだらけなんだから、と続けて外套の下でひっそり握ったナイフは、しかし動くことなく離された。少女がくすくすと笑いだしたからだった。

「ママが心配してくれるようないい子は、こんな時間にお外に出してもらえない」

皮肉も陰も揶揄もない、素直な口調だった。男は自由になった両手を振りつつちょっと足を緩める。

「お前はいい子じゃないのか?」

少女は笑うのをやめて、ちょっと口を閉じた。

「どうかしら。……でも、一度もいい子だってほめられたことがないから、きっといい子じゃないんだわ」

男は曖昧に相槌を打つ。年端もいかないように見えて、娼婦のような憂いのある少女だった。そんな憂いを持っていて、なお波立ちのない静かな姿が、彼をなんとなく惹きつけた。男は少女の座り込んだ電柱の反対側に座り込む。肩越しに見る背後の鏡でしか少女の顔が見えない。しかし、男にとっては好都合だった。街灯が落とす濃い影と電柱の陰で、男の姿はきっとこの少女に見えない。鏡の向こうで少女は息を吐く。白い息が電柱越しに見えた。

「あなたのおうちはないの?」

少女が聞いた。

「ホームかい、ハウスかい」

男が返す。鼻で笑うと、目元に白い息がかかった。どっちでも、とあくまで少女の声は素っ気ない。まるで男に興味がないかのようだったが、投げかけた質問には親しみがこもっていた。

「ハウスはないねえ。……ああ、オレが馬鹿だった。自分で聞いといてなんだが、どっちもオレにはねえや。嬢ちゃんは?」

肩を揺らして笑うと、少女のひそやかな笑い声が響く。

「どっちもあるわ。帰るのがつらいおうち」

無邪気な声にそうかい、と軽く笑って男は電柱に身を預ける。気だるい心地よさが腹のあたりを流れた。少女はカラスを手招きで呼び寄せて、その頬を指先で撫でた。白い指先が描く優美なラインを目で追う。首を反対側に捻じ曲げると、鏡の向こうでは少女が顔を背けて後ろ頭だけが電灯に照らされている。

「お前はカラスなんて不吉なものが好きなのかい」

男が聞くと少女は少し黙った。

「あなたもそう思う?カラスは不吉を運んでくるって」

少女の声にはどこまでも感情がない。言葉に含まれた感情がその声ですべて消されているようだった。

「さてねえ。でもカラスは不幸の象徴だろう」

男の声には常に笑みが含まれていた。それには皮肉やら揶揄やらが多分に含まれていて、少女のような者が聞けば底意地の悪い声に聞こえはしないだろうか。だか、少女は一向に気に留めた様子がなかった。

「そうね。不思議な力があるから、不幸も運んで来れるかもしれない」

言ってから小さく笑う。

「不幸が運べるなら、幸福だって運べるわ。どちらかだけを選んで運べるほど、カラスは器用じゃないもの」

くすくすと笑って、指先で男の目線を引き寄せる。流れるように影は地面を流れて指を追い、カラスの影に溶け入る。そのまま白い指がカラスの片足を持ち上げると、カラスは両羽根を広げてバランスを取った。うまくバランスがとりきれずによたよたと片足で跳んでいる。

「ほら、こんなに不器用」

男は口を噤んだまま、羽を広げたカラスを見た。男が黙ったままなのを気にしたのかしないのか、少女はゆっくりと立ち上がった。

「帰らないと。ママが心配しちゃうものね。そうでしょう?」

ちらりと少女がこちらを振り返って目が合う。男は帽子を顔の前まで引き下げながら手を振った。立ち去る音で少女が小路を出て行ったのを確認しながら、男は帽子をずらしてレンガ敷きの道に立つ薄い砂煙を見ていた。いつのまにか月光が小路の鏡に差し込んで、泥に沈んだ白を振りまいていた。


「あんた、奥さん毎日殴ってるのかい」

男が薄く笑う。対する相手は中年で、どこか神経質そうな眉をひそめた。大通りの街灯の下で男の顔は帽子の陰に隠れている。

「なんだってそんなこと」

中年は不快そうな声だった。男は喉の奥で笑った。

「お宅の奥さんとちょっとした知り合いでね。あんたのせいでずいぶん思い詰めちまっているようだぜ」

男は吹いてきた北風に隠れるように外套の襟を掻き合わせた。

「リズが思い詰めている?まさか」

中年は眉をはね上げて肩を竦めた。男は苦笑した。

「本当さ。解決策はあるんだが、ちょっと大きな声で言えなくてな」

声を低めつつ、男は中年を街灯の足許に手招く。疑いもせずに寄って行った中年の耳元に手を当てて囁いた。

「あんたがいなくなればいいのさ」

「――えっ」

中年が小さく声を漏らした時には男のナイフが腹に食い込んでいた。肩越しで血を吐く中年の声を聞きながらナイフを引き抜き、素早く首筋を切り裂く。返り血を素早く避けて、倒れ伏した骸の服でナイフの血糊を拭い取った。手付金代わりにポケットからコインを頂戴し、指先で弾く。

「夜道は危ないんだぜ?女子供じゃないからって、油断は禁物だ」

笑みをこぼしながら夜道を歩く。弾いたコインが落ちて来る度に、月の光を受けて刺すような光をはじく。ふらふらと夜道を周り、あるところでコインが別方向から来た光を受けて輝いた。ふと光の方向を追うと、昨日と同じ小路の奥で、同じように少女が座り込んでいた。電柱越しに肩が覗いていて、鏡の向こうの少女の顔には相変わらず暗い赤の影に沈んでいる。よく見ると顔にもいくつか擦り傷や切り傷を作っていた。昨日よりカラスが多い。街の狭さを思いながら点々と跳ね回るカラスを避けて街灯の下へ歩み寄る。

「――よう」

声をかけると、少女はカラスと遊ぶ手を止めずに小さく笑った。

「やっぱりカラスは嫌い?」

昨日と同じ位置に腰を下ろしながら、男はにっと笑った。

「どうだろうなあ。お前にはそう見えるかい」

少女は答えない。鏡に隠れるように少女の真横へと寄ったカラスの頭をつつきながら、代わりに質問を投げた。

「なら、カラスが好きな私は嫌い?」

男はちょっと笑った。

「どうだろうねえ」

電柱に身を預けて、小さく息を吐く。

「お前にはどう見える?」

少女はちょっと間を置いて、それから溜息のようにつぶやいた。

「教えない」

「おっと、そうきたか」

二人して暗がりに忍びやかな笑い声を塗り付ける。外套越しにナイフを握ったり撫でたりを繰り返す。鏡にその手先が動くのが映っていて、男の顔は帽子の影にある。それを見ながら男は聞いた。

「お前、名前はなんていうんだ?」

「あなたの名前は?」

すかさず少女は問い返す。男は喉の奥で笑い声を立てた。

「オレが教えなきゃ教えないつもりかい。楽しい遊び心だな」

少女もくすくすと笑う。

「名前なんて大した意味もないわ。ここには私とあなたと、あとは名前なんて必要ないカラスしかいないんだから」

「正論だ」

再び笑いさざめいて、男はふと今日も人を殺したことを思い出した。浮き立つような気分がなかったから、なんとなく今日は人の命を奪っていないような気がしていた。男は帽子を前にずらして目元まで引きずり下げる。

「昨日も言ったが、夜道は危ないんだぜ。早く帰った方がいい」

低く笑って男が言うと、少女も笑い返す。

「誰もいないおうちも危ないわ。そうかといって、ママとパパがいたら夜道よりも怪我しやすい。ここにはカラスもいるし大丈夫よ。カラスには不思議な力があるんだから」

男は帽子越しに街灯の赤い光を見上げた。適当に打った相槌に返る声はない。行き場を失くした自分の声を思い返して、男はだるく息を吐いた。

「近ごろこの街に殺人鬼が徘徊してるらしい。危なくはないかい」

男が低く言うと、少女はああ、と声を上げた。

「新聞に載ってた。最近は無差別になってきてるとかって」

「そう、殺人鬼は血の味を占めちまったのさ。誰の恨みも買ってなくたって殺されちゃうぜ。死にたくなかったらさっさと帰れ」

鏡を見ると少女は俯いている。いつもの通り目元に下りた陰で、表情が読めなかった。男は答えよりも少女が顔を仰向けることを期待したが、少女はむしろカラスの方を向いてしまった。

「死にたくないわけじゃない」

小さな声に、外套の上から握ったナイフの感触が急にはっきりしてきた。

「じゃあ、死にたいのかい」

男が強いて笑うと、少女も小さく笑う。

「そういうわけじゃないわ。生きていたくないだけ」

「死にたいのと違うのか」

少女はカラスを撫でた。優しい指先が影を描く。

「死はそれしかないけど、生きるのにはたくさん道がある。私はこの道を進んでいくのが嫌なだけよ。死にたいわけでも、死にたくないわけでもない」

男は顔に乗せた帽子をてのひらで押し付けた。赤い光が消えて、瞼の裏に緑の残像が銀河のように広がる。

「よく分からねえな」

固い笑い声には不思議そうな声が返ってくる。

「私、そんなに難しいこと言ってる?」

「言ってるねえ。どこぞの高名な哲学者の方が分かりやすいこと言うぜ」

笑いを吐き出して身を起こす。立ち上がって深く帽子をかぶれば、街灯が影を作って男の顔を隠す。

「オレはもう帰ろう。お前もしばらくは夜道にふらふら引っ張られない方がいい」

少女が見上げてくる視線は感じていたが、男は帽子を深くかぶったまま背を向けた。男の素性に気付けば、少女はもう夜道に出てくることはない。少なくともあの小路に座り込むことはなくなる。気づかなければ、もう少し他愛のない話ができる。男にとってはどちらでもよかった。手配書に書かれた金額は日増しに高額になっていく。疲れはピークに達しようとしていた。


 次の手配書にはきっとものすごい額の金額が書かれるだろう。今日だけでも街行く人を幾人も殺した。三人目あたりから確信した。何人殺しても人を殺した喜びが湧いてこない。慣れすぎてしまったのか、男には肉体的な重い疲労だけが重なって行った。無感動に死体を眺めては次の被害者を探しに行くことを繰り返した。何人殺しても生きている気がしない。あの小路のくすんだ鏡に映った夜の色だけが瞼の裏に浮かんでばかりいる。幾分も疲れていた。

 引っ張られるようにして男は歩き出した。水を引きずるような足取りでレンガ敷きの道をこする。すでに覚えた道を抜けて、慣れた曲がり角を曲がってしばらく行くと見慣れた鏡の光が男の横顔を照らす。電柱の足許、街灯の下には直感した通りに少女が座り込んでカラスと遊んでいた。無言で歩み寄り、少女の背後に座り込む。少女が笑みを含んだ声で聞いた。

「ご機嫌ななめ?」

男はさっさと電柱に凭れながら、笑いを吐き出した。

「いいや。お疲れちゃんだ」

「お疲れ様」

くすくすと笑う少女の声に肩の力が抜ける。首から肩にかけてぬるいだるさが広がった。これが欲しくてここに来たのかと、今更ながらに男は思った。息を吐き出してなんとか疲れが抜けないかと試しながら男は笑った。

「夜道には出ない方がいいと言っただろう。相変わらずお前は『いい子』じゃないんだな」

少女の声には感情がない。鏡越しに見た横顔には笑顔が浮かんでいた。

「だって、どうして危ないのか分からないの」

男は帽子を外して中を覗き込む。

「無差別な殺人鬼がうろついてちゃ、危ないだろうぜ」

少女はカラスを呼び寄せて笑う。

「ここがあなたのホームなら、危なくなんかないわ」

「なんだい、それは」

少女は答えずにカラスを膝に乗せた。

「それに、私にはカラスがいるもの」

「不思議な力を持ってるから、大丈夫だってか?」

ええ、と少女は無邪気に笑う。男は疲れから妙な好奇心に駆られた。挑むような心持ちに胸が高鳴った。分かり切った未来なんて、とっくの昔に見慣れた。

「カラスには不思議な力があるかい、それもそうだな。殺人鬼を呼び込んでいるんだから」

肩を引きつらせて笑うと、鏡の向こうの少女の口元が不思議そうな余韻を持って彷徨った。男にもはっきりとは分からなかった。こんなことを言って、少女にどうしてほしいというのだろうか。男の存在を胸に刻んでほしかったのだろうか。それとも少女がこの電柱の下から離れることを望んででもいるのだろうか。どれも違う気がした。その口の中にねじ込むつもりで男は笑う。

「カラスは不幸が呼び込めるんだ。だからここ最近の殺人はみんなカラスのせい。つまりカラスを集めて遊んでるお前のせいさ」

少女の動きが止まった。かくんと仰向いた喉仏のラインが鈍い月光に映った。男は指でもなめるような手つきで外套の上からナイフを撫でる。鏡にそれが映っていた。もはや街灯の下での癖となった動きだった。男の頬が歪む。やがて少女は今までで一番感情のない声を出した。

「嘘よ」

新聞記事に書かれた文字と同じ色をした声だった。男はひきつれたような声で笑う。

「嘘じゃないさ」

「嘘よ」

温度のない声だった。冷たくはなかった。石の温度をしていた。それを聞いて、男は今まで聞いていた声が随分温かい声だったのだと悟った。少女の声はいつだって笑ったり静まったりしていた。

「嘘だと思うかい」

ええ、と少女の声が少し沈む。

「本当だったらよかったわ。自分の罪なら、自分の好きなように償えるもの」

男が口を閉ざす。外套から手が滑り降りる。唇を開く意味が見つけられずに鼻で息を吸っていると、少女が不意に呟いた。

「Dead or Alive…」

男が身じろぎした音が鏡に響いた。もはや意識の隅にすらなくなっていたナイフが胸元できしと音を立て、男にその存在を思い起こさせる。それは耳障りな音だった。

「そんな物騒な言葉、どうしたんだ」

引っかかった男の声が転がる。対する少女の声は相も変わらず素っ気なかった。

「目の前の手配書に書いてあるわ。あなたの顔写真も」

男は開きかけた口から何も声が出ないのを不思議に思った。やっと出た言葉は端がじわじわと焼き切れた地図に似ていた。

「こんなところにまで貼られるようじゃ、とうとうオレの運も尽きたかな」

空咳とともに笑いを投げる。少女の声にも笑顔が戻った。

「ずっと前から貼ってあったわ。懸賞金がまだ低い時のまま」

男の返答はまたも途切れる。心地よいはずの受け答えを自ら切ったり止めたりしていることに、男は少し苦い感じの笑顔を浮かべた。

「――オレは嘘は言ってないがな」

鏡から目を背ける。少女がカラスと遊ぶ指先だけが目の端に白く軌跡を描いていった。

「カラスが不幸を呼んでいるって?」

少女の笑い含みの声がする。

「そうさ。カラスがここに集まってなきゃ、オレはとうにこの街から出て行ってた」

鼻で笑う。口にしてから、本当にその通りだと心の中でひとりごちた。男が人殺しに生きる喜びを見出せなくなったのは間違いなくカラスのせいだった。やはり男はカラスを好きになれないようだ。

「なら、嘘も言ったわ」

少女の声で我に返る。風に流される声で、そういえば一度も正面から向き合って話をしたことがなかったことに気付いた。男は一度も少女に顔を見せたことがない。

「いつのことだい」

男が聞く。男はどんな曲解を生んでも嘘は言わない性分だった。

「昨日の夜。ちっとも危なくなんかなかった」

「まさか」

鼻で笑った声には、少女の揺らがぬ声が返ってくる。

「少なくとも、私にとってここが安全なホームなの」

男はちょっと力の抜けた笑いを歩かせた。

「そりゃあお寂しいことで」

馬鹿にしたような男の声に、少女はちょっとむくれたような答えを返す。

「電柱はハウスよ。あなたが毎晩帰ってくるここがホームだって言ったのよ」

男の笑みが続かなくなった。無意識にひたすら戻ろうとする頬を笑顔に繰り返す作業に疲れが伴わないことが不思議だった。

 少女が言った。

「名前を教えてちょうだい」

男は帽子を目元まで引き下げて笑った。

「手配書に書いてあるぜ」

「あなたの口から聞きたいのよ」

少女の声はまた感情を失くしていた。

「どうしても同じ人に見えないんだもの」

少女に吸い取られたかのように、男の声からも笑みが引いていく。

「そうかい?オレそのものの写真だろう」

少女の声は急にゆっくりとしたものになった。

「この写真じゃ、まるでお腹もすかなきゃ寒くもならなくて、人に好きも嫌いもない人みたいだわ」

「違うのかい」

男が聞き返す声にはため息が混じっていた。疲れがどっと戻ってきていた。少女の声はこの時急にはっきりした。

「違うわ」

男は帽子の中で目を見開いた。詰まった息が喉のあたりで鼓動を求めている。

「だからあなたの口から聞きたいのよ。この写真の人の名前を言ってほしいの」

男の喉もとで息が脈打ち始めた。苦しくも、心地よくもあった。人を殺しているのとは別の意味で、生きている心地がした。

「『認めて』くれるでしょう?」

少女の温かい声に、男は脈打つ息を深く吐き出した。男は電柱から身を起こすと、追ってくるカラスに苦笑しながら街灯の背後に回り込んだ。少女が顔を仰向ける。長い前髪が耳を伝い落ちて、初めて少女の顔が見えた。男はにっと笑う。

「お前の言うとおりだ。カラスには本当に不思議な力があるねえ。でも、だからこそカラスなんて嫌いだよ」

少女もくすくすと笑う。無邪気な笑い声だった。

「いいのかい。オレが名乗ったら、お前のホームはなくなっちまうぜ?」

いいのよ、と少女の声はふいに涙を帯びた。笑顔に濡れたその声がなぜだか男の胸元できしむナイフの音を消した。

「私を生きさせてくれたんだもの。私のホームはずっとここよ」

そうかい、と笑って男は少女の前にしゃがみ込む。地面をこすった外套に、カラスが何羽か羽根を揺らして避けた。男が自分の名前を告げる口元が鏡に映って月の明かりをはじく。カラスが小首を傾げて立ち上がった男を見上げた。

男が去った鏡のある小路には、少女がひとりカラスと遊ぶ。風が男の手配書を叩く音だけが夜道にこだましていた。


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