亀裂
あの時、俺はどうすればよかったのだろうか。ふとそんなことを考え出しても答えの出るものではない。でも、間違えてしまったことは確かなのだ。あの時確かに生じた亀裂があった。その苦い思いは遠く過去のものになり、乗り越えたといってよいと思う。しかし、たまに思う。どうすればよかったのだろうか、と。あの時生じたままの亀裂を、俺は踏み越えられないでいる。
久々に会った幼馴染は、髪を首筋までで切りそろえていた。俺の知る彼女はずっと背中まで髪の毛を伸ばしていたから、一瞬誰だか見当がつかなかった。一拍遅れてそれが幼馴染だと気づいたとき、ずいぶん不思議な気がしたものだ。
「久しぶり。帰ってたんだ」
「実家にあいさつにね」
そう答える彼女の左手には指輪がはまっている。彼女の母親から結婚したとの話は聞いていた。だから別段驚くようなことじゃなかった。でも、少し驚いてしまった。薬指で控えめに光る指輪が、びっくりするくらい良く似合っていた。
「ほんと、久しぶり。十年ぶりくらい? あ、でも成人式で会ってるか」
成人式ではほとんど会話を交わしていない。それを覚えているのかいないのか、彼女の口ぶりはカラッとしていた。マフラーの中で寒そうに身を縮めながら、「ほんと久しぶりだ」と繰り返している。
「いま時間ある? どっか話しに行こうよ」
言うと、彼女が驚いたように俺を見上げた。
「え、いい、けど……そんな話すことあるかな」
「あるだろ、十年ぶりだぞ」
軽口をたたきながら車のドアを開ける。助手席に彼女が乗ってきた。小さく「おじゃましまーす」というのがなんだか笑えた。
車で十分くらいのところに、最近カフェができており、そこに行こうということになった。ここ何年かで、話をするときにカフェを口実にするということを覚えた。同世代では遅いほうだと思う。しかし、男兄弟ばかりの我が家では、そもそもカフェというものの話題が出てくることがなかった。地味に大きな進歩なのだ。
車の中では、無難に結婚相手の話や仕事の話をした。彼女の話好きは変わっていなかった。一つ話題を振ればしばらくそのことについてしゃべっていた。俺は頷いているだけで話題が進んだ。
カフェに入ると、彼女はカフェラテとケーキを注文した。俺はそれに合わせて、コーヒーとプリンを注文した。甘いもの食べられるようになったんだ、と彼女が笑った。今でも生クリームは苦手だ。しかし、そのことは言わないでおいた。彼女と会わないでいた期間に、デリカシーも少しは学んだ。黙ってうなずくと、彼女はうれしそうにしていた。
今日ここに来たのは、仲直りをするためだった。俺はたぶん、あの時に間違えてしまった。あの時にはどうにもできなかったけど、それでも間違いだったのだ。それで、十年も疎遠だった。縁が切れてしまったのだと思った。あきらめてもよかったが、今日たまたま、彼女に会えた。だから、謝ろうと思っていた。
高校三年のとき、幼馴染が妙にかわいくなっていくのを見て、ほかのやつにとられることを考えると腹が立って、告白して付き合った。今思えば、恋愛感情なんてものはまるで分っていなかった。市場にあふれた恋愛漫画やドラマに影響されて、幼馴染に別のコミュニティが増えていくのが淋しい気持ちを恋愛感情にすり替えて、得意げに恋していると思い込んでいた。
付き合ってしばらくして、順当にステップを踏んで、年頃らしく彼女に触れたいと思った。その機会もあった。だが、直前になって断られてしまった。そこから彼女は、俺を全く見なくなった。あからさまに避けられた時期もあった。成人式では、一緒に写真まで撮ったのに、さっさと友達のところへ行き、打ち上げでも二次会でも俺のそばには寄ってこなかった。俺は完全に間違えたのだ。
彼女に今でも恋愛感情があるとか、そういうことではない。そもそも、あの頃の気持ちだって恋愛感情だったか怪しい。それでも、俺がしてしまった間違いを謝って、普通の友達に、普通の幼馴染に戻れたら。今日はその絶好のチャンスなのだ、と俺は内心意気込んだ。
しかし、話を切り出せないまま、話題は何となく、終わりに向かいつつあるように感じた。焦る俺をよそに、彼女は今夜の夕飯について話している。これから帰ったら、の話題だ。そろそろ帰ろうかな、の気持ちがにじんでいる。
「夕飯の買い物もあるし、そろそろ帰ろっか」
とうとう、彼女が伝票をひっくり返した。俺は、何も言えなかった。黙って鞄を持ち上げようとしたとき、彼女が言った。
「今日は楽しかったよ。よかったらまたお茶しようね」
うん、と惰性でうなずきながら、俺はわけのわからない感情が湧き上がってくるのを感じた。俺の目論見通り、普通の友達、普通の幼馴染としての言葉だ。うれしくてもよいはずだった。でも、その時俺に沸き上がった感情は、その感情ではなかった。
彼女を車で送り届けた後も、俺はわけのわからない感情に体を乗っ取られてしまったように動けずにいた。自宅の駐車場でエンジンをかけたまま、じっと座って胸の痛みを感じていた。やがて、ふと気づいた。彼女は今日会ってから一度も、昔のような距離感では接してこなかった。目論見通り、幼馴染には戻れた。しかし、あの頃の関係はもう戻ってこないのだ。あの時できてしまった亀裂は、もう埋めることができない種類のものだったのだ。
俺は亀裂を胸に抱えたまま、それがあの時の古傷に触らぬように静かに息をした。涙は出なかった。古傷は深かったが、もう十年も前の傷だった。それを思うと、亀裂はますます深く感じられた。俺は彼女の幸せを祈ってみようとした。あまり意味はなかった。幼馴染の彼女は、俺とは関係のないところで、もう幸せだった。
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