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万葉集の「雄大さ」は相対的なものに過ぎない件

▼よく『万葉集』の特徴は雄大さにあるといわれる。それは確かにそうなのだが、そうではない歌も多い。万葉集を少しでも読めばわかるのだが、読まずに論ずると、一部分が「全体化」してしまい、実像から離れてしまう。

▼斎藤正二氏は、国文学者の風巻景二郎の功績を要約しつつ、次のように『万葉集』の相対化を図る。適宜改行。本文傍点は【】

〈風巻所論の【思考的新しさ】は、万葉に冠せられる「雄大壮重」の評言が相対的なものに過ぎず、それは、古今との比較、現代の文学との対比によって関係的に決められているだけのことで、なんの実体も在るわけではない。

むしろ、中国文化【まる写し】の藤原京・平城京・東大寺の絢爛豪華な建造物にすぐ隣接して、粗悪貧寒きわまる草ぶきの家が存在していた客観的歴史事実をこそ直視し尊重すべきである、との重要視点の必要を喚起した点に在る。〉(『斎藤正二著作選集 3』105頁)

本書が書かれたのは1980年代である。次の箇所を読むと、1980年代の読者よりも、2010年代の読者のほうが、当該テーマについてよりよく理解できる力を持っているだろうことがわかる。

〈戦中(つまり、風巻論文が発表された当時をさす)や戦後間もない時期の読者(=研究者)よりも、1980年代(つまり、風巻歿後ということになる)の読者(=一般享受者)のほうが、はるかに理解力を付与されているようにおもう。

日本の大企業が東南アジアやアラブなど中進国(ないし、後発の有力なる発展途上国)に進出していき、巨大な生産工場や技術開発センターなどをつぎつぎに建設し、ときとして天を劈(つんざ)く高層建築物が幾つも林立している図を、こんにち、われわれは見て知るようになった。

そして、そのハイテクノロジーの拠点には、まさしく絢爛豪華たる構想建造物が竝(なら)び立っているというのに、それにすぐ隣接する地域には粗悪貧寒かつ非衛生なる現地住民の住まいが存在している、というのが客観的事実である。

そして、このような図をフィルムで知り得たおかげで、はじめて、わたくしたちは、三十数年前に書かれた風巻論文の正しさとリアリティとを理解するに至ったのである。〉(同)

▼もっとも、日本の国力が弱まるなかで、「貧すれば鈍す」といわれるように、上記のような国際感覚は、1980年代よりも、かえって2019年のほうが乏しいのかもしれない。

▼さらに、ここでいう「相対化」とは、それまでの先入見を全否定するものでもないことを詳細に論じていく。再読し、熟読した箇所だ。

当たり前といえばいえるが、ともすれば、われわれはこの当たり前の思考を採れずに、必ずなんらかの先入見の“lens”を借りて物事を覗き込む性癖を身に着けてしまっている。

万葉時代人と聞けば、誰もが華麗な都大路を闊歩しつつ恋愛のことばかり考えていた、と考え易い。

平安時代人と聞けば、誰もが雅やかな宮廷に出入りして帝王貴紳の美しさに触れて溜め息をついた、と考え易い。

中世時代人と聞けば、誰もが無常を思念し神秘深奥な美意識を探究して日々を過ごした、と考え易い。

戦国時代人と聞けば誰しもが戦術と武士道とで頭をいっぱいにし、元禄時代人と聞けば誰もかれもが豊穣泰平(ほうじょうたいへい)の世を謳歌し、文化文政時代人と聞けば誰彼の区別なしに耽美的(たんびてき)な日常生活に明け暮れていた、というふうに考え易い。

そして、そう考えてはいけないかと問うに、答えは必ずしも否ということにはならない。だいいち、そのように考えたならば事実を誤認したことになるかと問うに、それに対する答えさえ賛否いずれとも決めがたい。

やはり、先入見で拵(こしら)え上げられた定説=常識というものにも《半分(ア・ハーフ)》の正しさは存在し得るのである。

万葉人の「花の見かた」を検(たしか)めようとするのに、【ますらを】(律令官僚知識人)の気概や自負や憧憬をとおして眺めた植物観賞法に詳細分析の作業を加えることに、なんで誤りがあろう。

じっさいに、風巻と同時代の詩人や評論家のなかには、律令官僚知識人の“花の見かた”や“ものの考えかた”を以て「万葉の精神」と賞め讃える人たちがたくさんいた。現在でもそう思っている人はたくさんいる。それはそれで、部分的正しさは或る程度まで持ち得るから、これに対して全面的誤りを犯しているなどといった非難を浴びせるべきではない。

ただ、問題は、万葉時代社会は【ますらを】のみで成り立っているのではなく、【ますらを】に支配されて掣肘(せいちゅう)を受けどおしの状態に在る農民大衆が藤原京ないし平城京のすぐ近隣に住んでいたればこそ「み民われ生ける験(しるし)あり」なぞと暢気(のんき)なことを言い得た、という歴史的事実の《半分(ア・ハーフ)》を見失うべきではない、とする一点に絞(しぼ)られる。〉(105-106頁)

▼「み民われ行ける験(しるし)あり」とは、「令和」の出典になった『万葉集』巻第五の次、巻第六に収録されている歌の前半である。いま、手元にある小学館の『新編日本古典文学全集7』から、全編を引いておこう。

〈御民我(みたみわれ) 生(い)ける験(しるし)あり 天地(あめつち)の 栄(さか)ゆる時に あへらく思へば〉

これは734年、聖武天皇の命令によってつくられた一首である。

意味は、こうだ。

〈天皇の民であるわたしは 生きてきた甲斐がございます 天地の 栄える大御代(おおみよ)に 生れ合わせたことを思いますと〉

▼この2年前、西日本は飢饉に見舞われた。1年前には皇后の母が亡くなり、皇后自身も病気に苦しんでいた。つまり、〈当時、必ずしも天下泰平ではなかった〉のである(145頁)。たしかに、天皇の命令を受けて、のんきな歌をつくった、といえる。

斎藤氏の論考に戻ろう。

〈況して、日本全土の人口構成比率は、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を極める中央政府の収奪に苦しみ抜いた律令農民が90パーセント以上も占めていたのである。

これら《全体》を視界のうちに把(とら)える【見かた】を用意するのでなければ、万葉時代人の“ものの考えかた”を斯(こ)うだったとか“花の見かた”は斯うだったとか、軽々しい口をたたいてはならない。〉(107頁)

こうして斎藤氏は、『万葉集』の読み解きに〈国際性および民衆性の視角〉(107頁)を導入し、『万葉集』の価値を明らかにしていく(つづく)。

(2019年5月12日)

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