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短篇小説:『運のいい男』後篇


 もうおわかりかもしれませんが、私がさきほどプライベートという言葉をつかったのは、こういう理由からです。ひとつだけ断っておくと、私にはこの現場の記憶はありませんでした。とはいえ、私が許されるとは夢にも思いません。

 スクリーンはその後、ゆっくりと立ち上がる私を映していました。
 色がない白黒映像のせいでしょうか。私の瞳は、濁っていて虚ろでした。
 その私は一本の太い縄を持ってきて、天井の梁にくくりつけました。その真下に椅子を置き、登って、その縄の結び目に頭を通し、椅子を倒しました。部屋の照明によって誇張された私の影が、壁に大きな弧を描いて揺れていました。
「なるほど」
 少年が短く言います。
「最後の最後で、面白くなったね」
 私はなにも答えられませんでした。全身が震え、暑くもないのに汗が止まりません。それでも少年に向けてなにか言おうと、懸命に次の言葉を探しました。
「そうか……私はついに過ちを犯してしまったわけですね」
 私はなんとか、少年にそう告げました。
「過ち?」
「ええ……私は、自分のこの衝動を自覚していました。それもずっと以前から。正確にはいつからかわかりませんが、とにかく私は人体というものはなんと不思議なのだろう、という思いを抱きはじめたのです。体にはたくさんの血液や臓器が詰まっていて、針で刺せばたちまち弾けてしまう水風船のように思えてなりませんでした」
 こんな話をするのは初めてのことです。家族にも友人にも、話したことはありません。私はこの暗い気持ちをずっと抱えながら生きていくのだ、と絶望したこともあります。
「どうしてもそういう衝動が抑えられなかったときは、スプラッター映画などを観て、誤魔化しました。他の人間がどうだかは知りませんが、私にとっては、作り物でもそれなりに価値がありました。演技とわかっていても、登場人物たちの恐怖に歪んだ表情を見ると、心のうずきが楽になりました」
「異常だね」
「……そうですね」
 少年の瞳は瞬きもせずに、私のことをとらえていました。
 その視線が、私の中にある罪の意識を肥大化させていったことは、言うまでもありません。彼の言葉には、糾弾のようなものも同情の色も、なにも感じられませんでした。あるいはそれは私の思い込みだったのでしょうか。

 しかし私の中に芽生えた怒りについては、誰もが共感してくれるものと思います。
「確かに私は異常かもしれない。しかしなぜそんなことを、わざわざこうして目の前で言われなければならないのです? 私は長年いだいてきた妄想を現実のものにしてしまった。つまり、とうとう人を手にかけてしまったのです。それでも許されないことをしたのだ、という自覚をもっている。罪の意識をもっているのです! わざわざこんな回りくどいことをしなくても! その証拠に、観たでしょう。私が首を吊ったのを。それだけの葛藤があったからです。世の中には人を殺しても、反省の色など一切みせず、のうのうと生きている者たちもいます。それに比べれば私はいくらかマシな存在でしょう。それにこの映像のタイトル『運のいい男』とは、どういう皮肉でしょうか?」
 次第に、体の芯の部分が熱を帯びてくるのを感じました。
 しかしそんな私とは対照的に、少年の様子に変化はありません。
「皮肉じゃないよ。『あのお方』はそんなことはしない。『あのお方』のつけるタイトルにはいつだって意味があるんだ。それはこれからわかるよ」
 少年の口調はとても穏やかなものでした。
 ただその『あのお方』という単語には、彼の口からは珍しく、ある種の厳粛さが垣間見えました。
「ほら」
 私は言われて、再びスクリーンに視線を戻しました。


 画面に現れた女性には、見覚えがありました。それもそのはずです。忘れるわけがありません。その女性は、私が殺した人物でした。その顔を見ると、私の手のひらに彼女の皮膚を貫いたときの感触が戻ってくるようでした。
「ここからは『あのお方』が創造した、架空の未来だ。もし君が女を殺さなかったらどうなっていたのか、っていうね。『あのお方』はそういう力があるんだよ。さっき、ちょっとした暗転があっただろう? 実はあれが『あのお方』の演出の特徴で――」
 ええと。
 そのあと少年が何を言っていたかは、正確には覚えていません。なぜなら私はもうそのとき、スクリーンに惹き込まれていたからです。

 彼女は鼻の高さが特徴的な、美しい人でした。髪は長く、艶がある黒で、垢抜けた雰囲気があります。つばの大きい麦わら帽から差し込むこまかい陽光が、彼女の横顔に光の粒を落としていました。
 場所は私の知らない、公園のようなところです。
 彼女はバスケットとともに、芝生の上に腰を下ろしていました。
 休日のためでしょうか。周りにはたくさんの人がいて、子供が走り回っていました。そのうちのひとりの可愛らしい男の子が、彼女の前に立ちました。何事か、大きな口を開けて話しかけます。彼女が少し笑うと、白い整った歯がのぞきました。
 男の子は彼女から、バスケットを受け取りました。彼は嬉しそうに飛び跳ね、家族のもとへ駆けていきます。それをみて彼女は立ち上がり、男の子と反対方向に歩き始めました。
 次の瞬間。彼女の背後で、爆発が起こりました。
 彼女は麦わら帽を手で抑え、衝撃をやり過ごしました。
 その後、一度も振り返ることなく、混乱する人々を避け、その場を去っていきました。顔にはとても柔らかな表情を浮かべて。
 ひゅう、と隣の少年が口笛を鳴らす音が聞こえました。

 カメラは彼女がいなくなった後も、その空間を撮りつづけていました。舞い上がる噴煙、転がった片方だけの誰かの靴、爆風に巻き込まれて倒れたままの老人。そういうものを。
「これは――」
 私は二の句がつげませんでした。 
「テロだね」
 少年の声が言いました。その声にはどこか嬉々とした響きがありました。待っていたものがようやく目の前に現れた、そんなふうな響きが。

 映像が切り替わりました。次は街中を走るバスの車内でした。車窓の外には、ビルや駅といった風景が流れていきます。
 彼女は最後方の席に座っていました。今度は麦わら帽の代わりに、黒いシルクのスカーフを頭に巻いていました。腕にはあのバスケットを提げて。
「君が殺した女は、とんでもない人間だったんだね」
 少年が心底、愉快そうに言いました。
 その数分後、バスは吹き飛びました。

 その後もいくつかそのような映像が続きます。美術館、研究所、スーパーマーケット。そういったところが次々に黒い煙に飲まれ、人々は我先にと逃げていきます。
 彼女には見境も分別も、慈悲もありませんでした。
 なんの主張も、なんの志もなく、ただただそうして殺戮を繰り返していくのみでした。
 ただ一つ共通しているのは、バスケットと、それが炸裂した後の柔らかな表情です。まるで無人の図書館で読書でもしているかのような。
 やがて、スクリーンが暗転し、映像が終わりました。スタッフロールはなし。いえ、正確に言えば『あのお方』という名前だけが、流れてきたのみです。なぜ私と彼女の名前がないのかは疑問でした。もしかしたら、『あのお方』にとってそれは、あまり重要ではないのかもしれません。
「いやあ、傑作だった!」
 少年は私の感想など待つことなく、そう言いました。
「あの女の顔みた? あれは罪悪感なんか一欠片も持っちゃいない。巻き込まれる人数が多ければ多いほどいい。って顔だよ。子供だろうが老人だろうが、女だろうが男だろうが、ボン! きみとは大違い! でもこれで、なんで君の人生のタイトルが『運のいい男』なのかわかっただろう?」
 彼のそんな興奮が、伝わってきたせいでしょうか?
 さっきまで私の中にあった怒りは、とうに鳴りを潜めていました。


 そのときの私の心情は複雑でした。混沌、と言ってもいいかもしれない。
胸のうちには、いままで考えたことがないような物事が押し寄せた。それらは次の、他の物事に押し出されるように、消え失せていきました。まるでベルトコンベアーです。
 そして最後に残ったもの。それは意外にも、感謝でした。
 『運のいい男』。
 私は『あのお方』と呼ばれる超越的な何者かに、そう呼ばせるだけの存在だったわけです。
「わかりました。受け入れましょう。これは自分の運命なのだ、と。私は確かに、殺人衝動を持ち合わせていましたが、彼女と出会うことができた。自分よりも巨大ななにかに。宇宙全体でみれば、私など塵のような存在であるのと同じように。その巨大を肌で感じています。私が何をしようが、どんなことを考えようが、宇宙は揺るぎない。私はいまとても満ち足りた気分です」
「え? ああ、うん……そう。なんか、ちょっと違う気がするんだけど。これは君があの女を殺したことで、結局人がたくさん救われましたよ。運がよかったね。っていうオチであって……。いや、よそう。作品の解釈はひとそれぞれだしね」
 少年は口ごもりながら、結局ひとりで納得してしまったようでした。
「きみはもう部屋から出られるはずだよ。ご苦労さん。じゃあね」
 彼はそう言うと、紙を取り出して、なにやら熱心に書きつけていました。天使の世界にも、報告書のようなものがあるのかもしれません。
「さようなら」
 私は席から立ち上がりました。
 そのほかにも少々言いたいことはありましたが、彼はもう取りあってくれない気がしました。
 それにもう、疑念はささやかなものになっていました。あんな映像をみせられただけで、私の心は驚くほど晴れてしまった。それだけは疑いようはありません。

 部屋を出ると、そこは細い通路になっていて、進んでいくと、小さなホールに出ました。
 そのホールでは、なにやら蝶の大群が、騒々しく飛び交っていました。それは異様な光景には違いありません。
 しかしこのときの私にとってそれは、祝福のように感じとれたのです。色とりどりの花吹雪のように。新しい世界の扉。蝶たちはそれを彩るシンボルにも思えました。
 その中の白色の一羽がこちらに向かって近づき、話しかけてきました。
「ご鑑賞、おつかれさま」
 私は驚いて言いました。
「奇妙な天使の次は、しゃべる蝶ですか」
「あら、ここで天使と言えばワタシたちのことよ。あなたもしかして……」
 蝶は私の指のさきにとまると、言いました。
「『あのお方』に会ったのね! すごい! ワタシたちの中でも、ほんの一握りの者しかお目にかかったことないんだから! あなた、『運がいい』わね!」


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