見出し画像

《全文無料》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「1」巧打好守の好選手の歴史】

割引あり

(写真 左から現在は1番16代・藤原恭大、引退後俳優となった2代・橋本力、捕手として唯一1番の9代・高橋博士、投手として初の1番10代・愛甲猛 写真は球団ファンブック、ベースボールマガジン社刊「スポーツ昭和史シリーズ」)


(1)「1」巧打好守の好選手の歴史

 現在、藤原恭大が背負う1番は、初代の伊藤庄七から始まったが、その伊藤をはじめ、大毎時代の八田正、東京球場時代の広瀬宰、川崎時代の愛甲猛、マリーンズとなってからは小坂誠、清田育宏と、金田正一監督時代に助っ人と捕手、投手として愛甲と大嶺祐太の例外はあるものの、概ね巧打好守の選手が背負っている。まさしく、藤原のイメージにつながる背番号の系譜であると感じている。

----- 現在の背番号「1」 -----

 ★《16代》2022(R4)年~現在・24年は3年目 藤原 恭大(ふじわら きょうた)  外野手(在籍6年目)

  2000年5月6日生(入団時18歳)(入団時32歳)、左投左打
  大阪桐蔭高‐千葉ロッテ(19~)

 【藤原 恭大 背番号変遷】2(3) ⇒ 1(2)
 → 藤原恭大 背番号2へ
 2018(H30)年ドラフトで3球団から1位指名を受けた大阪桐蔭高校春夏連覇の主軸だった藤原恭大外野手が16代となる背番号1を背負っている。
 入団時は2だったが、21年(R3)年限りで引退した清田育宏に代わり22(R4)年から1に変更した。高卒新人として開幕戦に名前を連ねたが、2年間はじっくり実力を積み、3年目は終盤に打撃力の高さの片鱗を見せた。1に代わった22年は体調不良もあり一、二軍を往復したが、23年は自身最多の103試合に出場し.238を記録。24年シーズンは主軸としてのレギュラー定着が期待されている。

 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<262試合、打率.277、775打数176安打、12本塁打、60打点、25盗塁>
 ◇初出場、初先発、初安打<2019(R1)年3月29日/開幕戦・楽天1回戦/H(ZOZOマリン)/1番中堅/4打1安>
 ◇初打点<2019(R1)年4月6日・ソフトバンク2回戦/R(ヤフオク!D)/1番中堅/適時打>
 ◇初本塁打<2020(R2)年10月14日・楽天20回戦/H(ZOZOマリン)/1番左翼/涌井秀章から>
 ◇オールスター出場/1回(22)

 ※所属時に選出された表彰
  ◆月間MVP(野手/2021年7・8月)
 ※所属時に達成した記録
  ◆高卒新人開幕戦1番打者としてプロ初先発出場(2019年、史上2人目)
  ◆高卒新人開幕戦に先発プロ初安打(2019年、史上6人目)
  ◆プロ1、2号が初回先頭打者本塁打(2020年、史上3人目)

----- オリオンズ&マリーンズ「1」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年途中・4年 伊藤 庄七(いとう しょうしち) 外野手(在籍4年)

  1918(T7)年3月20日生(入団時32歳)、右投右打
  愛知・中京商業‐明治大‐大連満鉄倶楽部‐愛知産業‐毎日(50~53)‐東急(53~54)‐中日(55)

 【伊藤 庄七 背番号変遷】1(3+途中)
 入団創設時の背番号1は社会人・愛知産業から入団した巧打の伊藤庄七外野手が着けた。2年目の51(S26)年にはレギュラーに定着し、初開催されたオールスターゲームに出場し、規定打席に到達。打率も.303を記録してリーグ6位に入った。翌52(S27)年には4番にも座ったが山内和弘の台頭もあり控えに回ることも増え、53(S28)年のシーズン途中に東急(現日本ハム)に移籍した。
 ◆打撃成績<284試合、911打数257安打.282、19本塁打、125打点、36盗塁>
 ◇初出場、初スタメン<1950(S25)年3月15日・南海1回戦/H(大須)/2番左翼/3打0安>
 ◇初安打<1950(S25)年4月2日・近鉄5回戦/H(後楽園)/2番左翼/4打1安>
 ◇初打点<1950(S25)年4月15日・東急5回戦/R(後楽園)/2番左翼/適時打>
 ◇初本塁打<1950(S25)年8月17日・大映18回戦/R(後楽園)/途中右翼/小川善治から>
 ◇オールスター出場/1回(51)


 ★《2代》1954(S29)年~1956(S31)年・3年 橋本 力(はしもと ちから) 外野手(在籍6年)

  1933年(S8)10月20日生(入団時19歳)、右投右打
  北海道・函館西高‐毎日(53~59)

 【橋本 力 背番号変遷】48(1) ⇒ 1(3) ⇒ 21(3)
 伊藤の移籍を受け、1953(S28)年に函館西高校から入団し背番号48だった2年目の橋本力外野手が54(S29)年から1を引き継いだ。
 前年1年目の53(S28)年は12試合の出場に留まっていた。背番号変更をした3年目の54(S29)年は17試合、54(S29)年は3試合と、ケガもあり出場試合数も少なかった。
 しかし4年目の56(S31)年にはシーズン中盤からレギュラーに定着し73試合に出場し打率.223、4本塁打15打点を記録した。オフには背番号を21に変更した。
 58(S33)年には二軍で調整中に親会社大映の映画『一刀斎は背番号6』に選手役で出演したが撮影中に鎖骨骨折し現役を引退。そのまま大映所属の俳優となった(詳細は「21」で紹介)。

 → 橋本力 背番号21へ(有料エリア)

 ◆打撃成績<299試合、541打数121安打.224、12本塁打、125打点、45盗塁>
 ◇初出場<1953(S28)年4月18日・西鉄4回戦/H(後楽園)/途中左翼>
 ◇初安打<1953(S28)年4月29日第2・近鉄2回戦/R(藤井寺)/代打/1打1安>
 ◇初本塁打、初打点<1954(S29)年10月16日第1・近鉄18回戦/R(甲府緑が丘)/1番中堅/関根潤三から>
 ◇オールスター出場/なし


 ★《3代》1957(S32)年~1959(S34)年・3年 平井 嘉明(ひらい よしあき) 内野手(在籍3年)

  1934(S9)年5月6日生(入団時22歳)、右投左打
  京都・立命館高‐関西大学‐毎日(57~59)‐国鉄(60~64)

 【平井 嘉明 背番号変遷】1(3)
 1957(S32)年に関西大学から入団した平井嘉明が背番号1を引き継いだ。
 1年目から遊撃手として抜擢され、3月30日の開幕戦・西鉄1回戦(平和台)に途中出場。翌日の2回戦(平和台)に1番遊撃で初スタメン出場し、初安打を記録する。以降、シーズン通じて一軍に帯同し、規定打席には到達しなかったものの83試合に出場した。しかし、打率は.191と低迷した。
 2年目の58(S33)年にチームは大映と合併したが、大映から加わった八田正が遊撃の中心となり、60試合で打率は.222、3年目の59(S34)年からは八田がレギュラーに定着し、70試合に出場、打率は.148と打撃がウィークポイントだった。59(S34)年オフに国鉄(現ヤクルト)へ移籍した。

 ◆打撃成績<197試合、306打数58安打.190、0本塁打、18打点、41盗塁>
 ◇初出場<1957年3月30日開幕戦・西鉄1回戦/R(平和台)/途中遊撃>
 ◇初スタメン、初安打<1957年3月31日第1・西鉄2回戦/R(平和台)/1番遊撃/3打1安>
 ◇初打点<1957年4月11日・東映3回戦/H(後楽園)/1番遊撃/4打0安>
 ◇オールスター出場/なし


 ★《4代》1960(S35)年~1961(S36)年・2年 山田 潔(やまだ きよし) コーチ

  現役/イーグルス(38~42)‐巨人(46)‐国民野球・大塚(47)‐金星・大映(48~57)
  コーチ/大毎(58~62)‐大洋(68~72)‐広島(73)

 【山田 潔 背番号変遷】1(2) ⇒ 51(1)
 戦前・戦中・戦後と黒鷲軍や大映で内野手として活躍し、引退後は二軍のコーチだった山田潔が60(S35)年に一軍コーチと配置転換されるのに伴い、63から空番だった1に変更された。なぜコーチが1を着けたのか確たる証言はないが「現役復帰を模索したのではないか」とも言われている。
 コーチが背番号1を着けたのは、球団史上山田潔だけである(その他1ケタは兼任は除き、監督としてバレンタインの2、井口資仁の6があるだけ)。


 ★《5代》1962(S37)年途中~1968(S43)年・6年 八田 正(はった ただし) 内野手(在籍11年)

  1936(S11)年10月5日生(移籍時21歳)、右投左打
  徳島・鳴門高‐大映‐大毎(58~68)‐阪急(69~71)

 【八田 正 背番号変遷】34(4) ⇒ 1(7)
 → 八田正 背番号34 へ(有料エリア)
 ミサイル打線の一角で、すでに遊撃のレギュラーだった八田正が、移籍5年目の1962(S37)年に背番号を34から1に変更して引き継いだ。
 堅実な守備の評価は高く、前年61(S36)年は遊撃から二塁に回りレギュラーを務め、121試合に出場していた。背番号を変更した62(S37)年は127試合に出場し、59(S34)年以来3年ぶりに規定打席に到達し、打率.273でリーグ20位に入った。しかし、翌62(S37)年はケガもあり一時離脱もあったため、93試合の出場に留まったが、打率.295と数字を残した。63(S38)年は119試合に出場したものの、打撃の状態が上がらず打率は.221と低迷。2年連続して規定打席に届かなかったが、本塁打は自己最多となる9本塁打を放った。
 65(S40)年は開幕スタメンは外れたものの、好調な打撃を見せ、二塁のポジションをキープ。最終的に128試合に出場し、3年ぶりに規定打席に到達し、打率.275ながら自身初のベストテン入りとなるリーグ10位に名前を連ねた。本塁打も自身初の二桁となる10本塁打35打点を記録した。翌66(S41)年は開幕スタメンに復帰し、115試合に出場したものの打率.251(リーグ20位)と今一つ。5本塁打26打点だった。
 67(S42)年以降は山崎裕之の入団、前田益穂ら若手の成長もあり、出場試合数を減らす。67(S42)年は102試合の出場で打率.283、68(S43)年は82試合の出場に留まり打率.280に終わる。オフにはA級10年選手の資格を再取得したが、球団側は残留のためのボーナス支給を拒否し自由契約となり、阪急に移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<1157試合、.265、3643打数966安打、51本塁打、289打点、253盗塁>
 ◇大毎初出場<1958(S33)年4月20日・南海2回戦/H(川崎)/代打/1打0安>
 ◇大毎初安打<1958(S33)年5月4日第2・西鉄4回戦/R(平和台)/代打/2打1安>
 ◇大毎初打点<1958(S33)年7月22日第2・阪急17回戦/R(西宮)/代打/適時打>
 ◇大毎初本塁打<1959(S34)年5月10日第1・阪急4回戦/H(日立会瀬)/1番遊撃/安藤治久から>
 ◇オールスター出場/なし

 ※所属時に達成した主な記録
  ◇1000試合出場(1965年7月8日、史上97人目)※自身通算154
9試合


 ★《6代》1969(S44)年~1972(S47)年・4年 広瀬 宰(ひろせ おさむ) 内野手(在籍4年)

  1947(S22)年2月20日生(入団時22歳)、右投右打
  大分・佐伯豊南高‐東京農業大‐ロッテ(69~72)‐中日(73~75)‐太平洋(76~81)

 【広瀬 宰 背番号変遷】1(4)
 1968年のドラフト2位で東京農業大から入団した広瀬が、背番号1を引き継いだ。
 前年まで遊撃は山崎裕之が主に守っていたが、山崎が二塁に固定され、広瀬が遊撃のレギュラーとして期待される。ルーキーイヤーの69(S44)年は4月12日の開幕南海戦(東京)に7番遊撃でスタメンに抜擢され、初安打を記録する。以降もレギュラーとして起用され、1年目は113試合に出場したが、打率は.177と低迷した。2年目はケガで離脱もあり58試合、3年目は復活して114試合の遊撃を守ったが、打率は2年目が.192、3年目は.246と打撃力がウイークポイントだった。
 4年目の72(S45)年は70年に巨人から移籍した千田啓介に定位置を奪われ80試合の出場に留まり、72年オフに江島巧とのトレードで中日へ移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<365試合、.218、881打数192安打、13本塁打、75打点、21盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初安打<1969(S44)年4月12日開幕戦・南海1回戦/H(東京)/7番遊撃/5打1安>
 ◇初打点<1969(S44)年4月19日・近鉄1回戦/R(日生)/7番遊撃/適時打/3打1安>
 ◇初本塁打<1969(S44)年9月16日・阪急20回戦/H(東京)/9番遊撃/宮本幸信から>
 ◇オールスター出場/なし


 ★《7代》1973(S48)年~1975(S50)年途中・3年 ジム・ラフィーバー 内野手(在籍4年)

  1943(S18)年1月7日生(入団時30歳)、右投右打
  米・モーニングサイド高‐ドジャース(65~72)‐ロッテ(73~75, 76)

 【ラフィーバー 背番号変遷】1(2+途中)、5(1)
 金田正一監督が就任した1973(S48)年、助っ人として入団したジム・ラフィーバーが、外国人選手として初めて1を引き継いだ。メジャーでは新人王を獲得し、当時では珍しかったスイッチヒッターだった。
 1年目の73(S48)年は、4月14日の開幕戦・太平洋前期1回戦(平和台)に2番一塁でスタメン出場し、タイムリーを含め2安打を放ち、初安打、初打点を記録する。以降、一塁手として活躍し、73年は111試合に出場し、打率.265(リーグ20位)、29本塁打63打点を記録し、チームの躍進を支える。
 翌74(S49)年には前年から出場試合数を減らし82試合の出場ながら、打率.283、14本塁打52打点を記録して日本一に貢献。日本シリーズではウィニングボールを捕球した。
 75(S50)年にはコーチ兼任となり、5月30日の太平洋前期10回戦(川崎)ではパ・リーグ初の1試合左右両打席本塁打を記録するなど、チームトップとなる本塁打を放ち好調だったが、翌日の6月1日の2回戦で起用を巡って金田監督と対立して現役を引退し、シーズン途中にコーチ専任となった。翌76年に新助っ人が不振で現役に復帰したが、背番号は5を着けた。派手さはなかったが堅実な野球が魅力だった。

 → ラフィーバー 背番号5 へ

 ◆打撃成績<330試合、.263、1098打数289安打、60本塁打、176打点、2盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初安打、初打点<1973(S48)年4月14日開幕戦・太平洋前期1回戦/R(平和台)/2番一塁/5打2安>
 ◇初本塁打<1973(S48)年4月20日・阪急前期1回戦/H(後楽園)/2番一塁/足立光宏から>
 ◇オールスター出場/なし


 ★《8代》1975(S50)年途中 ラファエル・バチスタ 内野手(在籍6ヶ月)

  1947(S22)年10月20日生(入団時28歳)、左投左打
  サンペドロ・デ・マコリス高‐アストロズ(73、75)‐ロッテ(75)‐米マイナー(76~84)

 【バチスタ 背番号変遷】1(途中)
 ラフィーバー引退と新助っ人が不振で解雇されたため、1975年の後期に間に合わせるため5月29日に入団した。6月3日の南海戦(大阪)で球団史上2人目となる初打席本塁打を放ちデビューを飾ったが、以降は肉離れで離脱するなど精彩を欠き、シーズン終盤は二軍で調整したが、1年限りで退団した。

 ◆打撃成績<48試合、137打数28安打.204、3本塁打、13打点、1盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席・初安打・初本塁打・初打点<1975(S50)年6月3日南海前期8回戦/R(大阪)/3番一塁/4打1安>※初打席初本塁打は史上10人目
 ◇オールスター出場/なし


※1976年(S51)空番


 ★《9代》1977(S52)年~1980(S55)年・4年 高橋 博士(たかはし ひろし) 捕手(在籍6年)

  1946(S21)年3月10日生(移籍時31歳)、右投右打
  宮崎・宮崎商業高‐南海(64~71)‐東映(72~76)‐ロッテ(77~82)

 【高橋 博士 背番号変遷】1(4) ⇒ 15(2)
 1977(S52)年から背番号1を背負ったのは、日本ハムから移籍したベテランの高橋博士捕手。日本ハム時代には1試合で全ポジションを守った球界唯一の記録を持つ器用さを持っていたが、ロッテでは捕手としてチームを支えた。
 移籍1年目の77(S52)年は、4月2日の開幕戦・近鉄前期1回戦(宮城)に代打として登場するなど、開幕投手は代打、DHで起用される。正捕手・村上公康の足の状態の悪化もあり、高橋がマスクを被る機会が増え、シーズン中盤からはスタメンマスクも増える。移籍1年目は99試合(捕手64、一塁34、DH7、外野1)に出場し、打率.294、3本塁打24打点を記録した。
 翌78(S53)年は村上が退団したが、代わりに南海時代の監督兼正捕手で南海時代に全く相手にならなかった野村克也が移籍入団し、正捕手を争った。ただ、全盛期を過ぎた名捕手に経験を積み重ねた高橋は84試合でマスクを被り、打率.263、5本塁打30打点と正捕手の座を守った。
 79(S54)年はオープン戦で肉離れを起こして出遅れる。その間に山内一弘新監督は若手で2年目の袴田英利を正捕手に据える。しかし、袴田は経験不足を露呈して、高橋が復帰後は高橋と打撃好調の土肥健二を併用起用する。最終的にシーズン最後まで足の状態に悩まされ、66試合にマスクを被ったものの、打撃が不安定で打率.161に終わる。
 翌80(S55)年は開幕マスクこそ土肥に譲ったものの、投手陣の信頼も厚い高橋が正捕手に座り投手陣を引っ張る。チームも好調で前期の優勝街道を走り、見事に前期優勝を成し遂げる。後期の優勝は逃したものの、フルシーズン正捕手として引っ張り、110試合に出場し打率.248、5本塁打20打点でチームを支えた。オフには愛甲猛が入団し、背番号1を譲り背番号を15に変更した。
 球団史上ただ一人の1番を着けた捕手だが、プロテクターを着けると防具に隠れて背番号が見えなくなった。

 → 高橋博士 背番号15 へ(有料エリア)

 ◆打撃成績<502試合、1130打数278安打.246、17本塁打、111打点、5盗塁>
 ◇ロッテ初出場<1977(S52)年4月2日開幕戦・近鉄前期1回戦(宮城)代打>
 ◇ロッテ初安打<1977(S52)年4月5日・クラウン前期1回戦(平和台)代打>
 ◇ロッテ初打点<1977(S52)年4月21日・南海前期6回戦(後楽園)8番捕手>
 ◇ロッテ初本塁打<1977(S52)年8月14日・クラウン後期7回戦(平和台)6番一塁>
 ◇在籍時オールスター出場/なし(自身1回(71))

 ※所属時に達成した主な記録
 ◇1000試合出場(1979年6月2日、史上208人目)


 ★《10代》1981(S56)年~1995(H7)年・16年 愛甲 猛(あいこう たけし) 投手⇒内野手(在籍16年)

  1962(S37)年8月15日生(入団時18歳)、左投左打
  横浜高‐ロッテ(81~95)‐中日(96~00)

 【愛甲 猛 背番号変遷】1(16)
 前年甲子園を沸かせた優勝投手・愛甲が入団し、高橋博士から譲り受け、背番号1を引き継いだ。球団史上初めて1番を背負った投手が誕生した。
 1年目からワンポイントとして一軍のマウンドに上がる。4月6日の西武前期3回戦(川崎)3番手として初登板。1年目は左打者に対して13試合のマウンドに上がる。しかし、2年目の82(S57)年は二軍で先発マウンドに上がり、一軍では5試合の登板に留まる。
 3年目の83(S58)年は開幕一軍入り。左のワンポイントとして登板を重ねる。しかし、左の強打者に2試合満塁弾を浴びるなどして力不足を露呈。結局48試合に登板したものの防御率4.38に終わり、未勝利のまま、オフには打者転向を決意する。
 入団当初から打撃力への評価は高く、4年目の84(S59)年から打者に転向した。転向1年目はシーズン最終盤に一軍登録され、打者として一軍デビューを果たす。翌打者2年目の85(S60)年は後半から一軍に定着。40試合に出場し、打率.300、2本塁打20打点と期待を抱かせる数字を残す。
 そして、86(S61)年は6番右翼で開幕スタメン出場を果たす。以降、一塁と外野兼務で一軍に定着。108試合に出場し打率.265、7本塁打26打点の数字を残す。翌87(S62)年は開幕から一塁に定着。シーズン通じてコンスタントな打撃を見せ、105試合に出場し打率.260、8本塁打31打点だった。
 88(S63)年には一塁のレギュラーとして全試合フルイニング出場し、.286で初の規定打席に到達、初の2桁となる17本塁打63打点と自身最高の数字を残す。以降、5年間フルイニング出場を続ける。
 89(H1)年は自己初の3割をマーク。打率.303でリーグ8位と初めてベストテンに顔を出し13本塁打65打点を記録する。しかし、翌90(H2)年はより長打を目指し打撃改造に取り組む。しかし、本塁打は自己最多となる21本塁打を放ったものの、打率は.243でリーグ30位に落ち込んだ。川崎球場最終年となった91(H3)年は自身本来の打撃を取り戻し、本塁打は8本塁打と減らしたものの、打率は.271でリーグ20位だった。
 千葉移転後も背番号1は変わらず、マリーンズ初代1番を背負った。92(H4)年は開幕から好調でチームのスタートダッシュを引っ張る。しかし、徐々に打撃の状態は加工し、打率は2割5分前後に落ち込む。7月11日の日本ハム15回戦(千葉マリン)では、日本タイ記録となる5打席5三振に加え、守備でもミスを犯し、翌日の16回戦ではスタメンを外れ、連続フルイニング出場の記録は535試合でストップ(リーグ記録)する。それでも、代打で登場して連即試合出場は継続する。最終的にフルイニング出場は途絶えたものの、このシーズンも全試合出場を果たし、打率.274、8本塁打53打点の数字を残し、オフにはパ・リーグ会長特別表彰を受けた。
 翌93(H5)年は開幕から不振に陥り、打率も2割前後で推移する。スタメンを外れる試合も出て来る。そして、6月8日の近鉄9回戦(宮城)でスタメンを外れると、試合最後まで出番なく終わり、連続試合出場記録が694試合でストップする(当時パ・リーグ歴代5位)。このシーズンは125試合に出場し、打率.251(リーグ22位)8本塁打33打点で終わった。
 94(H6)年はさらに出場試合数を減らし111試合に出場し、打率は.291を記録したものの6年続いていた規定打席に届かなかった。95(H7)年はバレンタインが監督就任したが、打撃が開幕から低調でシーズン中盤からは構想から外れ、46試合に出場し打率.181に終わり、オフには金銭トレードで中日に移籍した。
 背番号1を16年にわたって背負った1番最長選手となった。

 ◆投手成績<61試合、0勝2敗、防6.70、0S、2先発、0完封、23奪三振>
 ◇初登板<1981(S56)年4月6日・西武前期3回戦/H(川崎)/3番手>
 ◇初先発<1981(S56)年6月25日・西武前期13回戦/H(川崎)/1.1回6失>
 ◆打撃成績<1253試合、3958打数1068安打.270、99本塁打、458打点、52盗塁>
 ◇初打席<1984(S59)年9月25日・日本ハム26回戦/H(川崎)/代走/3打0安>
 ◇初安打<1985(S60)年5月26日・阪急7回戦/R(西宮)/7番左翼/4打1安>
 ◇初打点<1985(S60)年9月30日・日本ハム18回戦/R(後楽園)/7番左翼/適時打/3打2安>
 ◇初本塁打<1985年(S60)10月3日・日本ハム21回戦/R(後楽園)/途中左翼/柴田保光から>
 ◇オールスター出場/2回(89,91)

 ※所属時に受賞した主な表彰
 ◆ゴールデングラブ賞(一塁手/1989年)
 ※所属時に達成した主な記録
 ◆535試合連続全イニング出場、球団記録
 ◆694試合連続試合出場、球団記録
 ◇1000試合出場(1993年5月19日、史上309人目)
 ◇1000安打(1994年6月18日、史上177人目)


 ◆《11代》1996年(H8)・1年 仁村 徹(にむら とおる) 内野手(在籍2年)

  1961(S36)年12月26日生(移籍時34歳)、右投右打
  埼玉・上尾高‐東洋大‐中日(84~95)‐千葉ロッテ(96~97)

 【仁村 徹 背番号変遷】1(1) ⇒ 51(1)
 1995年オフに中日から移籍した仁村徹が背番号1を引き継いだ。中日では主に二塁と三塁を守っていたが、ロッテでは一塁にコンバートされた。
 移籍1年目は、5番一塁で開幕戦スタメン起用され、タイムリーを含め2安打を放ち初安打、初打点を記録する。以降も好調な打撃を見せ、一塁のレギュラーとなる。最終的に105試合に出場し、打率.251を記録した。オフに背番号を51に変更し1は1年限りとなった。

 ◆打撃成績<177試合、427打数109安打.255、5本塁打、43打点、1盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初スタメン、初安打、初打点<1996(H8)年3月30日開幕戦・ダイエー1回戦/H(千葉マリン)/5番一塁/4打2安>
 ◇ロッテ初本塁打<1996(H8)年6月28日・日本ハム15回戦/R(東京D)/6番一塁/今関勝から>
 ◇オールスター出場/なし

 ★《12代》1997(H9)年・1年 南渕 時高(みなみぶち ときたか) 内野手(在籍8年)

  1965(S40)年10月29日生(入団時24歳)、右投右打
  奈良・天理高‐青山学院大‐東芝‐ロッテ(90~97)‐中日(98~99)‐オリックス(00)

 【南渕 時高 背番号変遷】31(1+途中) ⇒ 7(途中+5) ⇒ 1(1)
 → 南渕時高 背番号31 へ(有料エリア)
 1989年ドラフト4位で社会人・東芝から入団し、6シーズン7を着け、二塁のレギュラーとして活躍していた南渕時高が、1997年に背番号を1へ変更した。
 しかし、このシーズン入団した小坂誠と堀幸一の定着で35試合と出場試合数を減らし、97年オフに中日へ移籍した。
 → 南渕時高 背番号7へ(有料エリア)

 ◆打撃成績<734試合、打率.246、1947打数511安打、22本塁打、187打点、21盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初安打<1990(H2)年6月16日・日本ハム10回戦(川崎)9番遊撃>
 ◇初打点<1990(H2)年6月28日・近鉄9回戦(日生)9番三塁>
 ◇初本塁打<1991(H3)年5月28日・日本ハム9回戦(川崎)9番遊撃>
 ◇オールスター出場/なし

 ※所属時に受賞した表彰
 ◆月間MVP(野手/1996年4月)
 ※所属時に達成した主な記録
 ◆14打席連続出塁(1993年、当時のNPB記録)

 ★《13代》1998(H10)年~2005(H17)年・8年 小坂 誠(こさか まこと) 内野手(在籍9年)

  1973(S48)年7月2日生(入団時23歳)、右投右打
  宮城・柴田高‐JR東日本東北‐千葉ロッテ(97~05)‐巨人(06~08)‐楽天(09~10)

 【小坂 誠 背番号変遷】00(1) ⇒ 1(8)
 → 小坂誠 背番号00へ
 前年1997(H9)年に入団し、全135試合に出場し、新人NPB記録となる52盗塁を記録。新人王に輝いた小坂が00番から変更し1番を引き継いだ。
 当時の山本功児監督から「ウチには投手の後ろに忍者がいる」と言われるほど状況を瞬時に判断して動く守備力の評価は高かった。背番号を変更した98(H10)年も開幕から遊撃のレギュラーとしてチームに貢献する。前年は逃した盗塁王のタイトルだったが、このシーズンは43盗塁を記録して自身初タイトルとなる盗塁王を獲得する。ただ、打率は.233でリーグ35位と伸びなかった。
 翌99(H11)年は打撃も好調で6月まで3割前後の打率で推移する。夏場に状態を落としたものの、打率.280でリーグ10位とベストテン入り。初のゴールデングラブ賞を受賞する。
 翌2000(H12)年はルーキーイヤー以来の全試合出場を果たしたものの、打撃の状態を落として打率は.238(リーグ25位)と落とした。それでも、33盗塁で2度目となる盗塁王を獲得。2年連続でゴールデングラブ賞を受賞する。01(H13)年も全試合に出場。打率も終始2割5分以上をキープし、最終的に打率.262(リーグ25位)、3年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。
 02(H14)年は開幕3戦目の4月1日のダイエー1回戦(福岡D)で守備の際、骨折して離脱する。復帰は6月8日となった。この離脱が響き、このシーズンは93試合に出場したが、初めて規定打席に届かず、新人から連続30盗塁と連続100安打の記録が5年で止まり、打率.246に終わった。翌03(H15)年は開幕から遊撃をガッチリと守る。フル出場は出来なかったものの134試合に出場し、打率.258で2年ぶりに規定打席に到達しリーグ28位に入った。
 04(H16)年は西岡剛が台頭する。加えて腰痛に悩まされ苦しいシーズンとなる。また、視力が落ちメガネを使用する。最終的に93試合の出場に留まり、打率も.252に終わる。
 05(H17)年は西岡が二塁と遊撃に入り、堀幸一と3人で二遊間で併用起用される。小坂本来の打撃の状態を取り戻し、リーグ2位に躍進したチームを支えた。最終的に134試合に出場し、打率.283で4年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。しかし、プレーオフでは第1Sは2戦でスタメン出場し三塁打を放ち先制のホームを踏んだものの、5回に右太ももを痛めた。チームには帯同したものの、第2S、日本シリーズと出番は叶わなかった。オフには金銭トレードで巨人に移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<7098試合、打率.257.、3836打数986安打、18本塁打、280打点、265盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初安打、初打点<1997(H9)年4月5日開幕戦・日本ハム1回戦(東京D)2番遊撃>
 ◇初盗塁<1997(H9)年4月8日・近鉄1回戦(大阪D)2番遊撃>
 ◇初本塁打<1997(H9)年8月22日・近鉄20回戦(大阪D)2番遊撃>
 ◇オールスター出場/5回(97,99,00,01,03)

 ※所属時に獲得したタイトル
 ◆盗塁王/2度(1998年、2000年)
 ※所属時に受賞した表彰
 ◆新人王(1997年)
 ◆ゴールデングラブ賞/4度(1999年、2000年、01年、05年/遊撃手)
 ◆月間MVP(1997年5月/野手)
 ※所属時に達成した主な記録
 ◆新人シーズン56盗塁数(1997年、NPB最多記録)
 ◆40盗塁・40犠打(1998年、NPB史上初)
 ◆新人から5年連続30盗塁(1997年~2001年、史上2人目)
 ◆シーズン守備率.994(2002年、パ・リーグ遊撃手記録)
 ※所属時に達成した主な記録
 ◇200盗塁(2002年7月22日、史上63人目)
 ◇1000試合出場(2005年4月22日、史上401人目)


※2006(H18)年 空番


 ◆《14代》2007(H19)年~2009(H21)年・3年 大嶺 祐太(おおみね ゆうた) 投手(在籍15年)

  1988年6月16日生(入団時18歳)、右投左打
  沖縄・八重山商工高‐千葉ロッテ(07~21)‐中日(22)

 【大嶺 祐太 背番号変遷】1(3) ⇒ 11(7) ⇒ 30(3) ⇒ 126(途中) ⇒ 64(途中+1)
 沖縄県の離島から甲子園連続出場を果たし、八重山商工快進撃の原動力となった大嶺祐太が、2006(H18)年の高校生ドラフト1位で入団。愛甲以来、投手として1を引き継いだ。
 150キロを超える球速が注目されたが、球団はじっくり育成する方針で1年目の07(H19)年は4月30日の西武8回戦(グッドウィルD)に初登板初先発を果たすも、この1試合の登板に留まる。
 2年目の08(20)年は7月24日の日本ハム17回戦(札幌D)で初勝利を挙げたが、7試合(5先発)に登板し2勝2敗、防御率は5.23だった。3年目の09年から一軍登板機会を増やし、5月13日のソフトバンク8回戦(北九州)でプロ初完封を記録するなど、16試合に登板し、防御率5.78ながら5勝をマークした。2010年からは背番号を11に変更した。
 → 大嶺祐太 背番号11
 → 大嶺祐太 背番号30

 ◆在籍時投手成績<129試合、29勝35敗、防4.72、0S1H、85先発、4完封、320奪三振>
 ◇初登板、初先発<2007(H19)年4月30日・西武8回戦/R(グッドウィルD)/先発/4回5失>
 ◇初勝利<2008(H20)年7月24日・日本ハム17回戦(札幌D)/先発/6回2失>
 ◇初完投勝利、初完封勝利<2009(H21)年5月13日・ソフトバンク8回戦(北九州)/9回0失>
 ◇オールスター出場/なし

 ※イースタン タイトル・表彰(最高勝率(14)、FA(07))


 ★《15代》2010(H22)年~2021(R3)年・12年 清田 育宏(きよた いくひろ) 外野手(在籍12年)

  1986年2月11日生(入団時24歳)、右投右打
  千葉・市立柏高‐東洋大学‐NTT東日本‐千葉ロッテ(10~21)

 【清田 育宏 背番号変遷】1(12)
 2009年ドラフト4位でNTT東日本から入団した清田育宏が、背番号1を引き継いだ。
 ルーキーイヤーの10(H22)年は、出遅れたものの5月下旬に一軍合流。24日の阪神1回戦(甲子園)に代走で初出場、26日の広島1回戦(MAZDA Zoom-Zoom)では代打で初安打を放つ。以降、一軍に定着し、スタメン出場も果たす。最終的に64試合に出場し、打率.290、2本塁打18打点を記録する。ポストシーズンではプレーオフで複数本塁打を放ち、日本シリーズでは好守を連発。バットでも30打数10安打1本塁打6打点の活躍を見せ、下剋上日本一に貢献し優秀選手賞に選出された。日本シリーズでは新人の通算打点、通算本塁打記録を更新した。
 翌11(H23)年はレギュラーを期待され、初の開幕スタメンに名前を連ねる。しかし、前年のような状態に上がらない。加えて6月には死球で離脱。後半は角中勝也と併用起用される。最終的に72試合に出場、打率.244、3本塁打25打点に終わる。12(H24)年は2年連続開幕スタメンも打率2割台の前半で推移し低迷する。8月には二軍で再調整し、再登録後は清田らしさを見せ4番にも座り、87試合に出場し、打率.281、3本塁打29打点と終盤に数字を上げた。
 13(H25)年も3年連続開幕スタメン。しかし、2割台前半で状態が上がらない。最終的に68試合の出場に留まり、打率.255、3本塁打18打点に終わる。しかし、CSでは勝負強さを発揮。チームはファイナルステージ敗退したものの、7試合で打率.313と活躍した。14(H26)年も4年連続開幕スタメン出場を果たし、4月4日の日本ハム1回戦(QVCマリン)と6日の3回戦の2試合で代走とスタメン出場して3打席連続本塁打を記録する。しかし、以降はヒットが出ず打率も2割を割り込む。結局、一軍と二軍を往復するシーズンとなり、最終的に自己最少となる24試合に出場し、打率.170、4本塁打10打点に終わった。
 15(H27)年は開幕スタメンを外れ、控えとしてスタートする。好調な打撃も見せて4月は打率.289を記録すると、5月には球団新記録となる4試合連続猛打賞を記録するなど、1番右翼としてスタメンに定着する。その5月は、2010年9月に西岡剛の記録に次ぐ、球団2位タイとなる月間40安打を記録する。オールスターゲームに選手間投票で初選出され、第1戦で敢闘選手賞を受賞した。後半は3番右翼として出場。8月には顔面に死球を受けるも翌日にはベンチ入り。9月にはスライディングで背中を痛め、10月には守備の際に右肩関節捻挫とケガに見舞われるも、最終的に130試合(125先発)に出場して、自身初めての規定打席到達。リーグ4位となる打率.317、15本塁打67打点と自己最高を記録した。CSの第1S第1戦ではタイムリーと本塁打、ファイナルでもタイムリーを放つもチームは敗れた。オフにはベストナイン、ゴールデングラブ賞を初受賞した。
 しかし、翌16(H28)年は開幕スタメン復帰も再び状態を落とす。打順も開幕3番から下位打線に回る。7月には二軍で再調整となる。8月に再登録されるも9月に頭部死球を受け抹消。復帰後も再び頭部死球を受け1ヶ月の間に2度頭部死球を受ける不運に見舞われる。最終的に106試合出場し、打率.225、6本塁打38打点と前年から大きく数字を落とした。CS第1Sでは第1戦、2戦と初回先頭打者本塁打を放ち、プレーオフ、日本シリーズ含め、ポストシーズン初の2試合連続初回先頭打者本塁打を記録した。チームは第1Sで敗れて敗退した。17(H29)年は開幕スタメンから外れる。5月には2日連続お立ち台もにも立つが、調子が上がらない。特に好不調の波が激しく一二軍往復となり、最終的に79試合に出場し、打率.203、3本塁打21打点だった。
 18(H30)年は、肉離れで出遅れも開幕4戦目に間に合わせる。5月には月間サヨナラ賞を初受賞する。しかし、トレードで岡大海が加入、平沢大河が外野に転向したこともあり、後半は出場機会が減少した。最終的に96試合で打率.226、2本塁打、27打点の成績を残した。翌19(R1)年は開幕一軍入り。シーズン序盤は代打での起用が多かったが結果を出し、スタメン出場を増やしていく。5月からは7番右翼が定位置となる。4試合連続本塁打を記録するなどして3番にも起用される。しかし、6月以降は調子を落とす。8月には自身2度目の月間サヨナラ賞を受賞したが、最終的に117試合に出場し、打率.253、10本塁打57打点を記録した。
 20(R2)年は新型コロナ禍で6月開幕120試合制に。70試合に出場し、打率.278、7本塁打23打点だったが、代打では高数字を残した。オフには新型コロナ感染防止で部外者との面会禁止の中、外出していたことが発覚したが、虚偽報告をしていた理由で球団から無期限謹慎処分を受け、21(R3)年はキャンプも不参加に。以降は不倫デートも週刊誌で発覚して5月には契約解除に至り、自由契約となった。

 ◆打撃成績<919試合、打率.258、2770打数716安打、58本塁打、333打点、36盗塁>
 ◇初出場(2010(R22)年5月24日・阪神1回戦/R(甲子園)/代走)
 ◇初安打(2010(R22)年5月26日・広島1回戦/R(MAZDA Zoom-Zoom)/代打/1打1安)
 ◇初スタメン(2010(R22)年5月27日・広島2回戦(MAZDA Zoom-Zoom)/7番中堅)
 ◇初打点(2010(R22)年6月7日・ヤクルト4回戦(神宮)/代打/適時二塁打)
 ◇初本塁打(2010(R22)年8月4日・楽天12回戦(Kスタ宮城)/9番中堅/長谷部康平から)
 ◇オールスター出場/1回(15)

 ※所属時に選出された表彰
 ◆ベストナイン(外野手/2015年)
 ◆ゴールデングラブ賞(外野手/2015年)
 ◆日本シリーズ優秀選手賞(2010年)
 ※所属時の主な記録
 ◆日本シリーズ新人初戦本塁打(2010年、史上2人目)
 ◆日本シリーズ新人選手通算最多打点6(2010年、歴代2位)
 ◆ポストシーズン新人選手通算本塁打3(2010年 史上初)
 ◆4試合連続猛打賞(2015年、リーグ7人目)
 ◆ポストシーズン2試合連続先頭打者本塁打(2016年、史上初)
 ◆全打順本塁打(2020年、史上13人目)


 ★《16代》2022(R4)年~現在・24年(R6)は3年目 藤原 恭大 外野手


※背番号年数は、着用年数のみ。年数1年未満の場合は月数で表示しています。
※在籍年数は現役としての年数。シーズン途中移籍や入団も1年として算出。監督・コーチは含みません。
※通算成績は背番号時に関係なく在籍時の通算成績です。
※記録内の◆はタイトル、表彰、主な記録。◇は節目の記録。
※初出場等の記録のHホーム、Rロードの試合です。
※タイトル、表彰、記録は在籍時に表彰を受けたものを対象としています。
※イースタン表彰のFAはフレッシュ(ジュニア)オールスタの略


(次回)⇒《有料・冒頭試読》(2)「2」3人の高卒新人開幕スタメン


--- オリオンズ&マリーンズ 背番号の系譜 INDEX ---

(1)《全文無料》「1」巧打好守の好選手の歴史
(2)《有料・冒頭試読》「2」3人の高卒新人開幕スタメン
(3)《有料・冒頭試読》「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜
(4)《有料・冒頭試読》「4」職人肌野手と助っ人の系譜
(5)《有料・冒頭試読》「5」歴代最少11人、打撃職人の系譜
(6)《有料・冒頭試読》「6」落合が生んだ打線主軸の系譜
(7)《有料・冒頭試読》「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜
(8)《有料・冒頭試読》「8」看板打者の系譜
(9)《全文無料》「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也
(10)《全文無料》「0」新しい系譜は快足とリリーフエースの系譜に
(11)《全文無料》「00」最も新しい系譜は助っ人、俊足の系譜
(12)《有料・冒頭試読》「10」投手と野手混在の系譜、3000本安打張本勲も背負う
(13)《有料・冒頭試読》「11」左腕の系譜もマリーンズではリリーフの系譜へ
(14)《有料・冒頭試読》「12」球団初戦先発投手から続く投手 時々 打者の系譜
(15)《有料・冒頭試読》「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ
(16)《有料・冒頭試読》「14」球団創設から続く主力投手の系譜
(17)《有料・冒頭試読》「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
(18)《有料・冒頭試読》「16」トレード移籍投手の系譜】
(19)《有料・冒頭試読》「17」佐々木朗希につながるエースの系譜
(20)《有料・冒頭試読》「18」植村義信で生まれたエースの称号
(21)《有料・冒頭試読》「19」投手系譜の背番号も名捕手から始まった
(22)《有料・冒頭試読》「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
(23)《有料・冒頭試読》「21」投手と野手が混在の系譜は、監督の顔に
(24)《有料・冒頭試読》「22」捕手の系譜から助っ人の新しい歴史へ
(25)《有料・冒頭試読》「23」主軸野手が紡いだ背番号23
(26)《有料・冒頭試読》「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ
(27)《有料・冒頭試読》「25」正統・打撃職人の系譜
(28)《有料・冒頭試読》「26」TEAM26、マリーンズファンの背番号を振り返る
(29)《有料・冒頭試読》「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
(30)《有料・冒頭試読》「28」助っ人、野手から投手の系譜へ
(31)《有料・冒頭試読》「29」サンデー兆治が育て、サンデー晋吾が継いだエースの称号
(32)《有料・冒頭試読》「30」監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ
(33)《有料・冒頭試読》「31」野手の出世番号から投手の背番号へ
(34)《有料・冒頭試読》「32」主力選手から職人野手の背番号、そして捕手の新しい歴史へ
(35)《有料・冒頭試読》「33」2人の殿堂入り胴上げ監督の背番号
(36)《有料・冒頭試読》「34」400勝投手監督から投手の背番号に
(37)《有料・冒頭試読》「35」初代監督から、外野手の出世番号へ
(38)《有料・冒頭試読》「36」36からの飛躍した三井、サブロー
(39)《有料・冒頭試読》「37」投手、野手、助っ人、25代の系譜
(40)《有料・冒頭試読》「38」強心臓投手と大砲候補の系譜
(41)《有料・冒頭試読》「39」投手・野手から捕手の系譜へ
(42)《有料・冒頭試読》「40」多士済々のメンバーが連なる系譜

※参考文献、参考WEBは『プロローグ』から

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 0〜
期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?