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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(17)「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ】

割引あり

(写真 左から、20代・今季もローテの主軸に期待美馬学、2代・1年目からフル回転宮崎一夫、11代・前期V決めるサヨナラ打を放つ高橋博士、12代・台湾からの助っ投チーム助けた荘勝男)


(17)「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ

 背番号15は投手の系譜であるが、あまり強い印象の選手がいなかった。改めて系譜を辿ると、やはり毎日オリオンズの時代から準レギュラーの選手が多く、短命で終わり1年ごとに選手が変わる時期もあった。岩崎忠義や高橋博士も継いだが、野手であったし、15以外の印象があるためかもしれない。
 そんな系譜がオリオンズの晩年から覆されていった。それは荘勝男であり、美馬学である。

----- 現在の背番号「15」 -----

 ★《20代》2020(R2)年~2024(R6)年・5年目 美馬 学(みま まなぶ) 投手(在籍5年目)

  1986(S61)年9月19日(移籍時33歳)、右投左打
  茨城・藤代高−中央大−東京ガス−楽天(11〜19)−千葉ロッテ(20〜)

 【美馬 学 背番号変遷】15(5)
 楽天に9年在籍し、ローテーションの一角を担っていた美馬学がFAで移籍し入団。楽天時代と同じ背番号15を引き継いだ。
 20(R2)年は自身2度目となる開幕投手に内定していたが、新型コロナで開幕が延期され、自身もコンディション不良で回避した。それでも開幕3戦目となる6月21日のソフトバンク戦(福岡PayPayD)で移籍後初先発し、5回1失点で移籍後初勝利を挙げる。以降もローテーションを守り、自身3年ぶりの二桁勝利となるチームトップの10勝(4敗)、防御率も3.95でリーグ6位に入った。翌21(R3)年は一転して不調に陥り、中盤には抹消される。後半に再登録も不安定な内容が続き、最終的に6勝7敗、防御率4.92で終える。ファイナルステージでは第2戦に先発し好投も打球を右ヒザに受けて降板した。
 22(R4)年は開幕から4連敗を喫するスタートとなった。しかし、防御率は3.33と安定しており、打線の援護が無い試合が続いていた。しかしシーズン初勝利を挙げると、以降はその安定さを増す。最終的にはシーズンを通して20試合に先発し、チーム最多の10勝(6敗)、規定投球回には届かなかったものの、防御率2.91と自身初めて2点台に収めた。
 23(R5)年は再び調子を落とす。開幕から3連敗を喫して離脱。7月に復帰しローテーションを守るも18試合に先発し、3勝9敗、防御率4.76だった。

 (23年シーズン終了時)
 ◆在籍時投手成績<78試合、29勝26敗、防4.10、0S、0H、78先発、2完封、333奪三振>
 ◇ロッテ初登板、初先発、初勝利<2020(R2)年6月21日・ソフトバンク3回戦/R(PaypayD)/先発/5回1失>
 ◇ロッテ初完投<2020(R2)年10月4日・西武20回戦/R(ZOZOマリン)/先発/9回1失>
 ◇ロッテ初完封<2022(R4)年8月16日・オリックス19回戦/R(ほっともっと)/先発/7.1回0失(降雨コールド)>

----- オリオンズ&マリーンズ「15」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・2年 祖父江 東一郎(そふえ とういちろう) 投手・外野手(在籍2年)

  1922(T11)年11月20日生(移籍時27歳)、右投右打
  愛知・旧制一宮中−明治大−大洋軍/西鉄軍(42〜43)−愛知産業−毎日(50〜51)

 【祖父江 東一郎 背番号変遷】15(2)
 戦中に大洋軍/西鉄軍に在籍。戦後は社会人・愛知産業でプレーしていた祖父江東一郎が球団創設に入団。初代背番号15を背負った。
 戦中は打者だったが、社会人では投手も務めており、毎日では投手としてマウンドに上がった。毎日での初マウンドは先発だった。3月30日東急戦(後楽園)に先発したが5回途中7失点KOで黒星。以降、50(S25)年は3試合に先発、計5試合に登板し0勝1敗、防御率は6.92だった。翌51(S26)年はリリーフで2試合登板しただけに留まり、オフには引退した。

 ◆在籍時投手成績<7試合、0勝1敗、防5.68、3先発、0完封、14奪三振>
 ◇毎日初登板、初先発<1950(S25)年3月30日・東急2回戦/R(後楽園)/4.2回7失●>
 ◆在籍時打撃成績<7試合、打率.200、5打数1安打、0本塁打、0打点、0盗塁>

 ★《2代》1952(S27)年~1955(S30)年・4年 宮崎 一夫 投手(在籍4年)

 【宮崎 一夫 背番号変遷】15(4)
 1952(S27)年に社会人・コロンビアから入団した宮崎一夫が背番号15を継いだ。
 1年目から一軍でフル回転する。初登板は4月6日の東急戦(沼津)。以降リリーフとして登板し7月12日の近鉄戦(藤井寺)でリリーフで初勝利を挙げる。以降、先発6試合、リリーフでは抑え役として19試合に登板。5勝2敗、防御率は2.30とシーズン通して安定したピッチングを見せた。翌53(S28)年も抑え役を中心に、32試合(5先発)に登板し7勝4敗、防御率2.78と安定していた。
 54(S29)年に別当薫が監督に就任すると先発に回ることが多くなり、12試合に先発し12試合でリリーフ登板し5勝4敗、防御率は3.31と3点台に落ち込んだ。この裏には、起用法を巡って別当監督と対立したことが影響した。翌55(S30)年は30試合(10先発)に登板し4勝1敗、防御率2.19と結果を残しながら、戦力外を言い渡され退団。新球団・高橋に移籍した
 投手<111試合、21勝11敗、防2.66、33先発、1完封、166奪三振>
 打撃<114試合、打率095.、105打数10安打、0本塁打、6打点、0盗塁>

 ★《3代》1956(S31)年途中・不明 伊藤 則旦(いとう のりただ) 投手(在籍4年)

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