見出し画像

《全文無料》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(26)「26」TEAM26の系譜を振り返る】

(写真 左から、2005年「ファンの背番号」となった背番号26を掲げる渡辺俊介(左)と西岡剛(右)、6代・大映から合併で入団した坂本文次郎は1960年の日本シリーズで流れを失う谷本稔の犠打併殺で本塁憤死した、8代・「大沢親分」で親しまれた大沢啓二も現役最後はオリオンズの背番号26)


(26)「26」TEAM26の系譜を振り返る

 2005(H17)年から背番号26は「ファンの背番号」として扱われているが、1950(S25)年から系譜は引き継がれていた。今回は改めて、背番号26の系譜を振り返る。
 毎日時代の背番号26は野手の系譜として始まった。ただ、一軍レギュラークラスの選手は出ず、1~2年で入れ替わった。初めて背番号26を一軍に定着させたのは、大映との合併で大映から移籍した坂本文次郎だった。坂本は引退後もコーチとしてチームを支えた。ロッテ時代になると、背番号26は一転して投手の系譜となる。1年だけだがV9巨人を投手陣の一角として支えた渡辺秀武も背負った。一躍背番号26をマウンドに定着させたのは巨人から移籍した小俣進だった。中継ぎに先発にも前期優勝を支えた一人だった。マリーンズとなってからも小川博から和田孝志、酒井泰司と投手の系譜だった。

----- 現在の背番号「26」 -----

 ★2005(H17)年~ ファンの背番号「TEAM 26」

 「ファンはベンチ入り25人に次ぐ26番目の選手」として、2005(H17)年からファンの背番号として欠番となっている。背番号26のユニホームは試合中はベンチに飾られ、試合後は背番号26を掲げて声援に応える。マリーンズの選手とファンがともに戦っている象徴的なシーンとなっている。

----- オリオンズ&マリーンズ「26」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年・1年 小俣 秀夫(こまた ひでお) 外野手(在籍1年)

 【小俣 秀夫 背番号変遷】26(1)
 球団創設時に社会人・星野組から西本幸雄、荒巻淳らとともに入団した小俣秀夫が初代背番号26を背負った。小俣は46(S21)年に大阪に入団し所属していたが、1年限りで退団し、3年間星野組でプレーしていた。
 代打として7試合に出場し6打数で2安打を記録(.333)したが、1年限りで退団した。
 <7試合、打率.333、6打数2安打、0本塁打、0打点、0盗塁>

※1951(S26)年 空番

 ★《2代》1952(S27)年~1953(S28)年・2年 上林 繁次郎(かんばやし しげじろう) 捕手(在籍2年)

 【上林 繁次郎 背番号変遷】26(2)
 中日に2年、東急に3年在籍していた上林繁次郎が1952(S27)年に移籍し、空番だった背番号26を引き継いだ。
 移籍1年目の52(S27)年は、正捕手として土井垣武がいたため控え捕手として帯同し、25試合に出場し.360を記録した。しかし、翌53(S28)年は7試合の出場に留まり、53年限りで引退した。
 引退後は政界進出し、2期12年参院議員を務めた。
 <19試合、打率.375、32打数12安打、0本塁打、4打点、0盗塁>

 ★《3代》1954(S29)年・1年 兵頭 冽(ひょうどう ただし) 内野手(在籍1年)

 【兵頭 冽 背番号変遷】47(1) ⇒ 26(1)
 1953(S28)年に入団した兵頭冽が、1954(S29)年に背番号を47から26に変更した。前年1年目は高卒新人ながら4試合に出場したがノーヒットに終わった。
 2年目の54(S29)年は開幕から一軍に帯同し、主に代打要員として出場する。開幕4戦目3月30日の大映1回戦(西京極)で代打で登場し、シーズン初打席で自身初安打を放つもその後は沈黙。最終的に21試合に出場し、打率.097に終わった。オフにはトンボに移籍した。
 <25試合、打率.091、33打数3安打、0本塁打、34打点、0盗塁>

 ★《4代》1955(S30)年~1956(S31)年・2年 河井 学(かわい まなぶ) 内野手(在籍3年)

 【河井 学 背番号変遷】26(2) ⇒ 56(1)
 1955(S30)年に愛知・岡崎高校から入団した河井学が背番号26を引き継いだ。
 ルーキーイヤーの55(S30)年はシーズン終盤に一軍合流。代打で登場した後、シーズン最終戦となった10月13日の東映戦(駒沢)では1番二塁で初スタメン。2安打を放ち盗塁も決め、1年目は4試合で7打席ながら3安打(.429)と来シーズンへ期待を抱かせた・しかし、故障もあり2年目は一軍未出場に終わり、オフには背番号を56に変更した。
 <4試合、打率.429、7打数3安打、0本塁打、0打点、1盗塁>

※1956(S31)年に元西鉄・中静唯八の入団が背番号26で発表されたが入団に至らなかったため、一覧には含みません。

 ★《5代》1956(S31)年・1年 田切 勝之(たぎり・かつゆき) 内野手(在籍2年)

 【田切 勝之 背番号変遷】26(1) ⇒ 39(1)
 1956(S31)年に神奈川大学から入団した田切勝之が背番号26を引き継いだ。
 1年目の56(S31)年は8月に一軍合流。8月27日の南海18回戦(大阪)に代打として初出場。最終的に10試合に出場したもののノーヒットに終わる。
 オフには毎日と大映が合併。大映の主軸だった坂本文次郎が入団し、大映当時に着けていた背番号26を坂本に譲り、田切は背番号を39に変更した。
 <13試合、打率.125、8打数1安打、0本塁打、0打点、0盗塁>

 ★《6代》1958(S33)年~1961(S36)年・4年 坂本 文次郎(さかもと ぶんじろう) 内野手(在籍4年)

 【坂本 文次郎 背番号変遷】26(4)
 大映で三塁のレギュラーだった坂本文次郎が大映との合併で入団し、大映時代に背負っていた背番号26を譲り受けて引き継いだ。
 合併し大毎となった1958(S33)年初戦の開幕戦に2番三塁でスタメン出場。自身大毎初ヒットも記録する。しかし、大映時代はプロ入り以来6年連続規定打席に到達していた正三塁手だったが、大毎ではポジション争いも激しく、小森光夫、葛城隆雄らと併用起用される。1年目は三塁で86試合と最多だったものの(出場94試合)、規定打席には届かず、打率.246、4本塁打27打点に終わる。翌59(S34)年は葛城が三塁に入ったために出場機会をさらに減らし、打撃の状態も悪く、二塁と遊撃にも回ったものの65試合の出場に留まり、打率.172、自身初めて0本塁打に終わる。
 60(S35)年は開幕こそスタメンを外れたものの、二塁に入っていた柳田利夫が遊撃に回ったため、坂本が二塁に入る。すると、好調な打撃を武器に八田正、柳田と3人で二遊間を併用起用される。ミサイル打線の2番に座り下支え役となり、チームの快進撃に貢献する。最終的に二塁83、三塁28、遊撃10試合で守り、
規定打席には届かなかったものの120試合に出場し、打率.256、7本塁打38打点で10年ぶりのリーグ優勝に貢献した。
 61(S36)年は遊撃を中心に出場するも打撃の状態が上がらず、98試合に出場したもののスタメンから外れる試合も多く、打率.216、3本塁打17打点に終わり、このシーズン限りで引退した。
 <377試合、打率.238、915打数218安打、14本塁打、84打点、27盗塁>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇1000試合出場(1959年9月9日・近鉄23回戦(日生)、史上51人目)

 ★《7代》1962(S37)年~1964(S39)年・3年 小林 英幸(こばやし ひでゆき) 外野手(在籍4年)

 【小林 英幸 背番号変遷】45(1) ⇒ 26(3)
 前年1961(S36)年に中日から移籍し、一軍出場は6試合だったものの、二軍でイースタン本塁打王と打点王の2冠を獲得した小林英幸が背番号を45から26に変更した。
 1962(S37)年は開幕一軍入り。代打としてコンスタントにヒットを記録。5月まで3割をキープする。その後も代打として出場し、シーズン中盤には調子を落としたものの、最終的に打率.255、3本塁打22打点と勝負強さを発揮した。
 翌63(S38)年は5月に一軍登録。前年同様、代打として打率3割超えの数字を残す。しかし徐々に調子を崩し7月には2割台前半まで落ち込み二軍落ち。その後再登録も調子が上がらず、最終的に打率.195、0本塁打3打点に終わる。64(S39)年も状態が上がらず、さらに出場機会を減らし、25試合13打席で2安打(打率.167)に留まり、64年限りで引退した。
 <174試合、打率.239、218打数52安打、3本塁打、25打点、4盗塁>

 ★《8代》1965(S40)年・1年 大沢 啓二(おおさわ けいじ) 外野手(在籍1年)

 【大沢 啓二 背番号変遷】26(1)
 後の「大沢親分」こと、大沢啓二の現役最後はオリオンズの背番号26だった。南海に9年所属し、引退を申し渡されたが大沢が現役続行を希望し、永田雅一オーナーが将来の指導者含みで現役として迎えた。
 4月22日の西鉄1回戦(東京)に代打としてオリオンズ初出場。以降も代打として登場するもヒットが出ない。初ヒットは5月23日の近鉄8回戦(西京極)、1号は6月1日の阪急6回戦(東京)だった。以降も代打として出場も65試合(79打席)で打率.183、2本塁打10打点に終わり、在籍1シーズン限りで引退した。
 引退後は二軍コーチ、監督を経て、1971(S46)年シーズン途中に12代監督(背番号52)となった。
 <65試合、打率.183、71打数13安打、2本塁打、10打点、0盗塁>

 ★《9代》1966(S41)年~1972(S47)年・7年 大塚 弥寿男(おおつか やすお) 捕手(在籍7年)

 【大塚 弥寿男 背番号変遷】26(7)
 1965(S40)年から始まった第一次ドラフト1位で早稲田大学から入団した大塚弥寿男が背番号26を引き継いだ。いわゆる「初代ドラ1」となった。醍醐猛夫が正捕手に座り、谷本稔が移籍したため、65(S40)年は第2捕手が手薄となっていたチームにとって期待の大型捕手だった。
 1年目の66(S41)年から開幕一軍入り。しかし、醍醐がガッチリマスクを被り、開幕3戦目の4月12日の西鉄1回戦(北九州)の初出場は代打だった。その後、一度抹消され6月に再合流。6月5日の西鉄9回戦(東京)で代打で登場し初安打、10日の阪急9回戦(西宮)で途中交代で初マスクを被った。1年目は18試合(マスクは8試合)に出場し打率.235に終わった。
 67(S42)年は醍醐の打撃が低調で大塚が2番手捕手として出場機会を増やす。しかし、スタメンマスクを任される試合も出てきたが、大塚も打率が1割台と低迷する。7月30日の阪急15回戦(東京)では大塚がスタメン出場。第1打席で無死1、2塁のチャンスに放った二直が2塁走者封殺、1塁走者タッチと二塁手1人でトリプルプレーを完成させ、現在でも史上唯一となる珍プレーを記録してしまう(記録は無補殺三重殺)。この時の阪急の二塁手住友平は大塚の波商高校の同級生だった。後半に入ると醍醐が打撃の調子を取り戻し、出場機会を減らす。8月25日の近鉄戦(西京極)で初本塁打を放つも、このシーズンは54試合に出場(マスクは53試合)、打率.171、1本塁打7打点に終わった。
 68(S43)年はさらに出場を増やし、34試合のスタメンマスクを被る。最終的に71試合(マスクは69試合)に出場したものの、打率は.186と低迷。2本塁打3打点と打撃力の弱さが目立った。翌69(S44)年には榊親一が入団し、35試合と出場試合数を減らし、打率も.200に終わる。70(S45)年も24試合の出場に留まり、打率.069、日本シリーズでは1試合で途中マスクを被った。
 71(S46)年も24試合の出場に留まる。ただ、打率は自己最高となる.250だった。翌72(S47)年は西鉄から村上公康が移籍し、醍醐、榊、村上に若手の土肥健二も台頭し、3試合の出場に終わり、72年限りで引退した。
 <229試合、打率.178、320打数57安打、4本塁打、16打点、0盗塁>

 ★《10代》1973(S48)年・1年 若生 和也(わこう かずや) 投手(在籍1年)

 【若生 和也 背番号変遷】26(1)
 1972(S47)年オフに行われた選抜会議(70~72年に行われた出場機会の少ない選手のトレード会議)で中日に所属していた若生和也が入団し、背番号26を継いだ。
 移籍1年目の73(S48)年は開幕一軍入りを果たし、4月14日の開幕太平洋前期1回戦で2番手としてオリオンズ初登板、2回を1失点だった。24日の近鉄前期1回戦(川崎)では2番手で登板し1勝を挙げたものの、その後は失点を重ねて二軍落ち。最終的に11試合に登板し、防御率7.94に終わり、このシーズン限りで引退した。
 投手<11試合、1勝0敗、防7.94、1先発、0完封、9奪三振>
 打撃<12試合、打率.000、2打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>

 ★《11代》1974(S49)年~1975(S50)年・2年 土屋 紘(つちや ひろし) 投手(在籍3年)

 【土屋 紘 背番号変遷】40(1) ⇒ 26(2)
 前年1973(S48)年シーズン途中の6月28日に中日との複数トレードで移籍した土屋紘が、前年は背番号40だったが、74(S49)年に背番号を26に変更して継いだ。
 前年は一軍登板なく終わっていたが、74(S49)年は8月に一軍に合流する。3試合に登板したが、3試合目に2回2失点と踏ん張り切れずに抹消され、そのままシーズンを終える。最終的に3試合の登板で防御率4.50で終えた。翌75(S50)年は一軍未出場に終わり、75年限りで引退した。
 投手<3試合、0勝0敗、防4.50、0S、-H、0先発、0完封、1奪三振>
 打撃<0試合、打率.000、0打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>

 ★《12代》1976(S51)年~1977(S52)年・2年 松岡 諭吾(まつおか ゆうご、清治(きよはる) )投手(在籍2年)


  ※1976(S51)年までは清治、77(S52)年に諭吾に登録名変更

 【松岡 諭吾 背番号変遷】26(2)
 1976(S51)年に伊達泰司とのトレードでヤクルトから移籍した松岡諭吾が背番号26を引き継いだ。ヤクルトでは4年間で一軍では5試合に登板しただけだった。
 移籍1年目の76(S51)年は二軍スタートだったものの、5月中旬に一軍登録。16日の南海前期9回戦(川崎)で移籍後初登板すると3回1安打1失点と好投し、そのままリリーフとして一軍に帯同する。当初は敗戦処理的な登板だったが、徐々に接戦の場面でも登板する。6月27日の近鉄前期12回戦(日生)ではプロ初先発のマウンドに上がる。8回に捕まり逆転を許して敗戦投手となったものの、7.2回を3失点(自責2)と好投した。しかし、中盤に故障して離脱。終盤に再登録され、10月4日の近鉄後期13回戦(宮城)で2度目の先発も3回で2点を失い降板した。最終的に16試合に登板し、防御率4.06、0勝1敗だった。
 翌77(S52)年は故障の影響もあり、一軍未登板に終わり、77年限りで引退した。
 <16試合、0勝1敗、防4.06、0S、-H、2先発、0完封、20奪三振>

 ★《13代》1978(S53)年・1年 渡辺 秀武(わたなべ ひでたけ) 投手(在籍1年)

 【渡辺 秀武 背番号変遷】26(1)
 V9巨人を投手陣の一角として支えた渡辺秀武が、田中由郎との2対1トレード(渡辺+奥江英幸 ⇔ 田中)で入団し、背番号26を引き継いだ。
 37歳の渡辺には2つの話題があった。1つはこのシーズンに移籍した43歳の野村克也とのバッテリーは「合計80歳のバッテリー」と話題になった。もう1つは渡辺はかつて日本ハムにも所属しており、日本ハム以外の11球団から白星を挙げていた。当時達成者のいなかった「12球団からの白星」も話題となっていた。
 開幕から一軍入りし、4月1日の日本ハムとの開幕戦(川崎)に4番手として登板し、はやくも野村とバッテリーを組み3回を無失点と好投する。15日の南海前期2回戦(川崎)では2番手として同点の6回からマウンドに上がり、打線が勝ち越しに成功し、最後まで投げ切りオリオンズ初白星をマークする。以降もリリーフとして登板し、ローテーションの谷間の3試合に先発もこなし、9月8日の南海後期9回戦(川崎)では、無四球で完投勝利(4失点)も記録した。最終的に36試合に登板し、防御率4.16、5勝3敗2セーブと好投したが、注目の日本ハム戦は何度か勝利投手になるチャンスもあったが、打ち込まれるなどして達成はならなかった。オフには2対3トレード(渡辺+金田留広 ⇔ 望月卓也+平田英之+劔持節雄)で広島へ移籍した。
 <36試合、5勝3敗、防4.16、2S、-H、3先発、0完封、44奪三振>

 ★《14代》1979(S54)年・1年 古賀 正明(こが まさあき) 投手(在籍1年)

 【古賀 正明 背番号変遷】26(1)
 1979(S54)年に2対2トレード(古賀+倉持明 ⇔ 山崎裕之、成重春生)で太平洋(西武)から移籍した古賀正明が背番号26を引き継いだ。
 移籍1年目の79(S54)年は開幕は二軍スタートだったものの、6月に一軍に合流。10日の近鉄前期11回戦(日生)に3番手としてオリオンズ初登板。2回を無失点と好投すると、続く登板も5回無失点と好投。28日の阪急前期12回戦(西宮)では初先発マウンドに上がる。しかし、2回4失点でKOされる。以降はリリーフとして安定したピッチングを見せセーブも記録する。8月4日の日本ハム後期5回戦(川崎)の2度目の先発では、1失点完投でオリオンズ初勝利を挙げた。最終的に20試合(3先発)に登板し、4勝3敗2セーブ、防御率2.84と安定したピッチングを見せた。オフには2対3(古賀+小川清一 ⇔ 庄司智久、田村勲、小俣進)のトレードで巨人に移籍した。
 <20試合、4勝3敗、防2.84、2S、-H、3先発、0完封、33奪三振>

 ★《15代》1980(S55)年~1984(S59)年・5年 小俣 進(おまた すすむ) 投手(在籍5年)

 【小俣 進 背番号変遷】26(5)
 1980(S55)年に3対2の大型トレードで(小俣+庄司智久+田村勲 ⇔ 古賀+小川清一)で移籍して入団した小俣進が背番号26を引き継いだ。手薄な左腕投手陣の助っ投として期待された
 移籍犠初登板は4月19日の西武前期2回戦(西武)に3番手として登板。2回で2点を失うスタートだった。しかし、前期優勝を争う好調なチーム状況の中で出番が回って来ない。一時二軍で調整し、リリーフとして前期優勝を支えた。前期優勝が決まった消化試合の6月30日の近鉄前期11回戦(日生)に移籍後初先発。しかし、2回途中で6失点でKOされる。8月11日には南海後期7回戦(川崎)に2度目の先発。8回途中まで4失点ながら移籍後初勝利を挙げると、8月に3試合に先発して3連勝、28日の阪急7回戦(川崎)では自身プロ初の完封勝利をマークした。最終的に10先発を含む26試合に登板し、6勝4敗、防御率3.47だった。
 翌81(S56)年もチームは前期優勝に向けて好調の中、小俣は不安定なピッチングが多くなる。最終的に19試合(6先発)に登板し、防御率8.27だった。特に投球回48.2回で与四死球は40と制球に難があった。82(S57)年は開幕一軍入り。当初は安定感を欠いたものの、徐々に安定したピッチングを見せる。村田兆治が離脱し、後期にはローテーションに入り完投勝利も記録。最終的に12試合の先発を含む27試合に登板し、3勝5敗、防御率4.21だった。
 83(S58)年は不調に陥る。特に制球に苦しみ28.1回を投げて22与四死球だった。登板数も5試合に先発したが、防御率7.31だった。翌84(S59)年は一軍未登板に終わり、オフには金銭トレードで日本ハムに移籍した。
 <82試合、11勝16敗、防4.92、0S、-H、33先発、2完封、148奪三振>

 ★《16代》1985(S60)年~1992(H4)年・8年 小川 博(おがわ ひろし) 投手(在籍8年)

 【小川 博 背番号変遷】26(8)
 1984(S59)年のドラフト2位で青山学院大学から入団した小川博が背番号26を引き継いだ。
 キャンプ、オープン戦での好投が認められ、1年目の85(S60)年はチームの開幕3戦目、4月10日の阪急2回戦(西宮)に初登板初先発。5回4失点で初黒星を喫する。次の先発は3回持たずKOされ、以降、中継ぎとしてマウンドに上がる。初勝利は終盤の10月5日の西武23回戦(西武)、2回からロングリリーフで最後まで無失点で投げ切り初勝利を挙げた。1年目は2先発を含み21試合に登板、2勝3敗4セーブ、防御率は4.67だった。2年目の86(S61)年は故障もあり6試合の登板に留まり、防御率は7.11だった。
 87(S62)年はリリーフとして開幕一軍入り。開幕戦で4番手としてマウンドに上がる。以降もリリーフとして抑え役に回る試合も出て来る。後半は先発の谷間を埋め先発マウンドにも上がる。最終的に40試合(8先発)に登板し3勝5敗、防御率3.28と安定したピッチングを見せた。
 88(S63)年は開幕から先発ローテーション入り。村田兆治に次ぎ、開幕2戦目の先発を任される。4月は白星に恵まれなかったものの、4度目の先発となった5月4日の日本ハム5回戦(川崎)で5安打に封じ、シーズン初勝利を自身初完封で飾る。8月に一時離脱して復帰後はリリーフに回ったものの、9月にはローテーションに復帰し、最終的に25試合に先発(登板は31試合)し、自身初の二桁10勝9敗、規定投球回に到達し防御率3.40でリーグ11位に入った。投球回は203.2回でリーグ最多の204奪三振を記録して最多奪三振(当時は連盟表彰なし)のタイトルを獲得した。
 翌89(H1)年からは右肩痛に悩まされる。89年も開幕2戦目に先発。4月22日のダイエー1回戦(宮城)の3度目の先発で自身2度目の完封でシーズン初勝利。しかし、5月中旬に右肩痛で離脱。8月に復帰も復帰後は0勝5敗と調子が上がらずシーズンを終える。最終的に14試合に登板(13先発)し、3勝8敗、防御率5.50だった。90(H2)年も1年ぶりに勝利を挙げるなどしたが、20試合(8先発)の登板で3勝1敗1セーブ、防御率は4.83だった。川崎球場最終年となった91(H3)、千葉移転元年の92(H4)年と一軍マウンドに上がる事が出来ず、92年限りで引退した。
 <132試合、26勝21敗、防4.12、5S、-H、56先発、2完封、460奪三振>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆最多奪三振(1988年)当時連盟表彰なし

 ★《17代》1993(H5)年~2002(H14)年・10年 和田 孝志(わだ たかし)(在籍10年)

 【和田 孝志 背番号変遷】26(10)
 1992(H4)年のドラフト3位で東洋大学から入団した和田孝志が背番号26を引き継いだ。
 1年目の93(H5)年、2年目の94(H6)年と一軍登板なく、3年目の95(H7)年は米1Aに野球留学して経験を積んだ。
 4年目の96(H8)年にはシーズン終盤に初めて一軍登録され、9月7日のオリックス21回戦(神戸)に3番手として初登板、4試合に登板する。しかし、97(H9)年、98(H10)年と2シーズンは再び一軍での登板なく終える。
 99(H11)年は8月に一軍登録され、中継ぎとして6試合に登板し、9.0回を投げて無失点で切り抜ける。8年目の翌2000(H12)年は飛躍のシーズンとなる。5月に登録もリリーフで登板もすぐに抹消される。7月に再登録されると、8月6日の近鉄19回戦(大阪D)に自身初先発。6回2失点と好投も打線の援護なくプロ初黒星を喫する。29日ダイエー22回戦(千葉マリン)では2番手としてマウンドに上がり、3.2回を無失点に封じ、プロ初勝利を手にする。最終的に21試合(2先発)に登板して1勝1敗、防御率3.60と安定したピッチングを見せた。
 01(H13)年は自身初の開幕一軍入り。中継ぎとしてマウンドに上がる。このシーズンは安定感を欠き、防御率も5点前後と低迷する。しかし、ここ一番では踏ん張りも見せ一軍で過ごした。最終的に38試合(2先発)に登板し1勝2敗、防御率は4.63だった。02(H14)年は故障もあり3試合の出場に留まり、このシーズン限りで引退した。
 <72試合、2勝3敗、防3.67、0S、-H、4先発、0完封、91奪三振>

 ★《18代》2003(H15)年~2004(H16)年・2年 酒井 泰志(さかい やすし)(在籍2年)

 【酒井 泰志 背番号変遷】26(2)
 2002年のドラフト7巡目で社会人・いすゞ自動車から入団した酒井泰志が背番号26を引き継いだ。
 都市対抗野球大会で優勝に貢献し、若獅子賞を獲得した右腕に即戦力の期待が寄せられたが、一軍登板なく、2シーズン限りで04(H16)年オフに自由契約となった。翌05(H17)年から「ファンのための背番号」となったため、酒井が背番号26を継いだ最後の選手となった。
 <一軍未登板>

==========
※通算成績は背番号時に関係なく在籍時の通算成績です。
※在籍年数は現役としての年数。シーズン途中移籍や入団も1年として算出。監督・コーチは含みません。
※着用年数のみ、年数1年未満の場合は月数で表示しています。
※タイトル、表彰、記録は在籍時に表彰を受けたものを対象としています。
※記録内の◆はタイトル、表彰、主な記録。◇は節目の記録。
==========

(次回)⇒《有料・冒頭試読》(29)「27」主力打者から主力投手の系譜へ


--- オリオンズ&マリーンズ 背番号の系譜 INDEX ---

(1)《全文無料》「1」巧打好守の好選手の歴史
(2)《有料・冒頭試読》「2」3人の高卒新人開幕スタメン
(3)《有料・冒頭試読》「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜
(4)《有料・冒頭試読》「4」職人肌野手と助っ人の系譜
(5)《有料・冒頭試読》「5」歴代最少11人、打撃職人の系譜
(6)《有料・冒頭試読》「6」落合が生んだ打線主軸の系譜
(7)《有料・冒頭試読》「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜
(8)《有料・冒頭試読》「8」看板打者の系譜
(9)《全文無料》「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也
(10)《全文無料》「0」新しい系譜は快足とリリーフエースの系譜に
(11)《全文無料》「00」最も新しい系譜は助っ人、俊足の系譜
(12)《有料・冒頭試読》「10」投手と野手混在の系譜、3000本安打張本勲も背負う
(13)《有料・冒頭試読》「11」左腕の系譜もマリーンズではリリーフの系譜へ
(14)1/25《有料・冒頭試読》「12」球団初戦先発投手から続く投手 時々 打者の系譜
(15)《有料・冒頭試読》「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ
(16)《有料・冒頭試読》「14」球団創設から続く主力投手の系譜
(17)《有料・冒頭試読》「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
(18)《有料・冒頭試読》「16」トレード移籍投手の系譜】
(19)《有料・冒頭試読》「17」佐々木朗希につながるエースの系譜
(20)《有料・冒頭試読》「18」植村義信で生まれたエースの称号
(21)《有料・冒頭試読》「19」投手系譜の背番号も名捕手から始まった
(22)《有料・冒頭試読》「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
(23)《有料・冒頭試読》「21」投手と野手が混在の系譜は、監督の顔に
(24)《有料・冒頭試読》「22」捕手の系譜から助っ人の新しい歴史へ
(25)《有料・冒頭試読》「23」主軸野手が紡いだ背番号23
(26)《有料・冒頭試読》「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ
(27)《有料・冒頭試読》「25」正統・打撃職人の系譜
(28)《有料・冒頭試読》「26」TEAM26、マリーンズファンの背番号を振り返る
(29)《有料・冒頭試読》「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
(30)《有料・冒頭試読》「28」助っ人、野手から投手の系譜へ

※参考文献、参考WEBは『プロローグ』から

ここから先は

0字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?