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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜】

割引あり

(写真 左から、20代・新たな系譜を刻む藤岡裕大、上)4代・ミサイル打線の名脇役矢頭高雄、下)俊足強打の代表西岡剛、外国人の系譜を継いだ5代・ジョージ アルトマン、9代・レオン リー、16代・フランク ボーリック)


(7)「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜

 背番号7は長らく俊足、強打、堅守「走攻守」の選手の系譜だった。しかし、東京球場の時代にアルトマンが外国人として背負い、以降、レオン、フランコ、ボーリックと助っ人強打者が引き継ぎ新しい系譜となった。その一方、元々の系譜である走攻守の系譜も水上善雄、南渕時高、西岡剛、鈴木大地と引き継がれ、2024(R6)年からは藤岡裕大が新たな系譜を継いでいく。

----- 現在の背番号「7」 -----

 ★《19代》2024(R6)年は1年目 藤岡 裕大 内野手(在籍7年目)

  1993(H5)年年8月8日生(入団時24歳)、右投左打
  岡山理科大学附属高‐亜細亜大学‐トヨタ自動車‐千葉ロッテ(18~)

 【藤岡 裕大 背番号変遷】4(6) ⇒ 7(1)
 → 藤岡裕大 背番号 4 へ(有料エリア)
 今シーズン2024(R6)年から背番号7は、4から変更する藤岡裕大が引き継ぐ。
 2017(H29)年のドラフト2位でトヨタ自動車から入団。ルーキーイヤーの18(H30)年には、開幕から遊撃のポジションをつかみフルシーズン出場を果たし、打率.230、5本塁打、42打点、14盗塁をマークした。翌19(R1)はケガに泣かされたが、20(R2)年は再びレギュラーを取り戻した。
 しかし、22(R4)年は28試合と最低の出場に留まった。23(R5)年は93試合の出場ながらキャリアハイとなる.277を記録。背番号を変更してレギュラー奪取を狙う。

 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<588試合、打率.246、2213打数469安打、15本塁打、156打点、42盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<2018(H30)年3月30日開幕戦・楽天1回戦(ZOZOマリン)/2番遊撃/6打3安>
 ◇初打点<2018(H30)年4月1日・楽天3回戦/H(ZOZOマリン)/2番遊撃/適時打/3打2安>
 ◇初本塁打<2018(H30)年4月15日・ソフトバンク1回戦/R(鹿児島鴨池)中田賢一から>

----- オリオンズ&マリーンズ「7」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・2年 奥田 元(おくだ げん) 内野手(在籍2年)

  1920年12月2日生(入団時29歳)、右投右打
  (出身・栃木)台湾・嘉義農林学校‐立教大‐山藤商店‐古沢建設‐毎日(50~51)‐近鉄(52~53)

 【奥田 元 背番号変遷】7(2)
  球団創設時に社会人・古沢建設から入団した奥田元が初代背番号7を背負った。
 開幕スタメンは外れたものの、開幕直後に初出場。当初は代走、守備固めが中心だったが、4月10日の阪急4回戦(栃木)に初スタメン出場すると、初安打、初打点を記録。加えて、この試合の6回裏に二盗、三盗、本盗を決め、1イニング3盗塁を2リーグ制後初めて記録した(NPB史上5人目)。以降、遊撃で河内卓也、今久留主功らと併用起用され、最終的に45試合に出場し打率.280をマーク、チームの初年度の快進撃を支えた。日本シリーズでも3安打し、打率.333を記録した。
 2年目の51(S26)年は留守軍の一員として開幕スタメンを果たす。64試合に出場したが、打率は.200と低迷、オフに近鉄に移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<107試合、打率.230、243打数56安打、2本塁打、28打点、20盗塁>
 ◇初出場<1950(S25)年3月20日・西鉄2回戦/H(後楽園)/代走>
 ◇初スタメン、初打席<1950(S25)年3月21日・東急1回戦/H(保土ヶ谷)/8番遊撃/1打0安>
 ◇初安打、初打点<1950(S25)年4月10日・阪急4回戦/H(栃木)/8番遊撃/適時打/3打2安>
 ◇初本塁打<1950(S25)年9月9日・西鉄16回戦/R(福岡春日原)/8番遊撃/川崎徳次から>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆1イニング3盗塁(1950年4月10日・阪急4回戦(栃木)6回裏)日本タイ記録(現在17人が記録)


 ★《2代》1952(S27)年~1956(S31)年・5年 島田 恒幸(しまだ つねゆき) 内野手(在籍5年)

  1934(S9)年2月8日生(入団時18歳)、右投右打
  佐賀・佐賀商業高‐毎日(52~56)

 【島田 恒幸 背番号変遷】7(5)
 1952(S27)年に佐賀商業高校から入団した島田恒幸が、背番号7を引き継いだ。
 1年目の52(S27)年は、高卒ルーキーながら、開幕3戦目に8番遊撃でスタメンに抜擢される。以降、スタメンで数試合に起用されるも、力の差は大きく一軍から外れる。7月に再登録され猛打賞も記録するが、最終的に1年目は10試合に出場し、打率.278に終わる。
 2年目の53(S28)年は開幕戦にスタメン抜擢されるなど、二塁、三塁、遊撃と81試合に出場した。しかし、打撃は終始低調で打率は.182と課題を残した。
 3年目の54(S29)年は二塁に定着する、しかし、打撃は状態が上がらず2割を割り込む。最終的に123試合に出場するも打率は.186と低迷した。55(S30)年も二塁のレギュラーとして定着する。最終的に132試合に出場して規定打席に到達。打率も.228でリーグ43位だったが、選球眼が良く出塁率は.274だった。
 5年目の56(S31)年はルーキーイヤー以来4年ぶりに開幕戦スタメン出場を果たす。しかし、打撃力で上回るルーキー須藤豊が好調な打撃を見せ、レギュラーを奪われる。最終的に64試合の出場に留まり、打率も.220に終わり、このシーズン限りで引退した。

 ◆打撃成績<410試合、打率.208、883打数184安打、5本塁打、69打点、19盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席<1952(S27)年3月23日第2・阪急3回戦/R(西宮)/8番遊撃/2打0安>
 ◇初安打<1952(S27)年3月27日・東急3回戦/R(後楽園)/8番遊撃/2打1安>
 ◇初打点<1952(S27)年7月24日・大映8回戦/R(静岡草薙)/8番遊撃/適時打/4打3安>
 ◇初本塁打<1954(S29)年5月20日・西鉄7回戦/H(後楽園)/8番二塁/川崎徳次から>


 ★《3代》1957(S32)年・1年 中野 健一(なかの けんいち) 内野手(在籍1年)

  1934年3月21日生(入団時23歳)、右投右打
  法政大学第一高‐法政大‐日本石油‐毎日(57)

 【中野 健一 背番号変遷】7(1)

 法政大学から社会人・日本石油で活躍していた中野健一が1957(S32)年に入団し、背番号7を引き継いだ。
 社会人では1番打者として活躍しており、チームも1番打者として期待し、開幕戦では1番遊撃として抜擢。4月は2割台後半の打率をキープしていたが徐々に数字を落とし、5月19日から6月15日まで42打席連続無安打と当時の新記録を記録し、打率は2割を切る。結局、打率は.161に終わり1年で退団した。退団後は社会人・熊谷組で野球を続けた。

 ◆打撃成績<91試合、打率.161、223打数36安打、1本塁打、14打点、19盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席<1957(S32)年3月30日開幕戦・西鉄1回戦/R(平和台)/1番遊撃/1打0安>
 ◇初安打、初安打<1957(S32)年4月9日・東映1回戦/H(後楽園)/1番遊撃/適時打/4打2安>
 ◇初本塁打<1957(S32)年8月4日・近鉄15回戦/R(大阪)/9番遊撃/山下登から>

 ※在籍中に達成した主な記録
  ◆42打席連続無安打(1957年5月19日~6月15日)当時のNPB記録


 ★《4代》1958(S33)年~1967(S42)年・10年 矢頭 高雄(やとう たかお) 外野手・内野手(在籍10年)

  1934年6月25日生(移籍時23歳)、右投右打
  山梨・都留高‐立教大‐大映(57)‐大毎(58~67)

 【矢頭 高雄 背番号変遷】7(10)
 前年、立教大学から大映に入団し.248(リーグ21位)を記録した矢頭高雄が大映との合併で入団し背番号7を引き継いだ。
 1958(S33)年は開幕から外野の一角をキープ。5番・中堅として3割超えで打線を支え、終盤に数字を落としたものの、最終的に.285を記録しリーグ8位に入った。しかし、翌59(S34)年は右翼に回り128試合に出場したが.240(リーグ22位)と落とす。それでも、安定した守備力はチームに欠かせなかった。60(S35)年には.227(リーグ27位)ながら128試合に出場し、ミサイル打線の脇き役として10年ぶりのリーグ優勝に貢献する。
 62(S37)年には宇野光雄監督の発案で打撃に伸び悩み守備の良い矢頭と守備に難のある三塁・葛城隆雄を入れ替え、矢頭は三塁を守る。葛城は前年35失策だったが、矢頭は119試合の出場で10失策と守備面では効果を見せる。しかし、矢頭の打率は.220と低迷から脱せず、翌63(S38)年のシーズン途中に外野へ戻り、.253をマークして3年ぶりに規定打席に到達した(リーグ21位)。
 その後も安定した守備を武器に外野の一角を占めるも、石黒和弘、西田孝之、池辺巌、井石礼司ら若手が台頭。徐々に出場試合数を減らし、67(S42)年限りで引退した。

 ◆打撃成績<1118試合、打率.248、3074打数761安打、52本塁打、267打点、67盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打、初打点<1958(S33)年4月5日開幕戦・近鉄1回戦/R(奈良鴻ノ池)/4打3安/初打点適時打>
 ◇初本塁打<1958(S33)年6月14日・東映8回戦/R(駒沢)/5番中堅/土橋正幸から>
 ◇オールスター出場/1回(58)

 ※在籍中に達成した主な記録
  ◇1000試合出場(1964年8月8日・近鉄22回戦(東京) 史上88人目)


 ★《5代》1968(S43)年~1974(S49)年・7年 ジョージ アルトマン(在籍7年)

  1933(S8)年3月20日生(入団時35歳)、右投左打
  米・テネシー大‐米・マイナー(56,58)‐‐シカゴ・カブス(59~62)‐セントルイス・カージナルス(63)‐ニューヨーク・メッツ(64)‐シカゴ・カブス(65~67)‐東京(68~74)‐阪神(75)

 【アルトマン 背番号変遷】7(7)

 米メジャーで実績のあるジョージ・アルトマンが入団し、背番号7を外国人として初めて引き継いだ。
 開幕前から、実績に対する敬意はあったが、その人柄と真摯に野球に取り組む姿勢、細かくメモを取り学ぶ姿にチームメイトはから一目置かれる存在となっていた。若手にも聞かれると積極的に応え、開幕前にチームに影響を与えていた。

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