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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(24)「22」捕手の系譜から助っ人の新しい歴史へ】

割引あり

(写真 左から、15代・マリーンズ初の本塁打王ポランコ、2代・外野の一角を務めた荒川博、3代・ミサイル打線の核を担った田宮謙次郎、4代・助っ人として初めて22を背負ったパリス、上)6代・捕手として初めて22を背負った榊親一、下)13代・WBCでベストナインに選ばれた里崎智也)


(24)「22」捕手の系譜から助っ人の新しい歴史へ

 背番号22は捕手のイメージが強い。オールドファンならば榊親一、マリーンズファンならば里崎智也、田村龍弘が継いでいるからだ。しかし、実際に継いだ15選手のうち、捕手が背負ったのは5選手だけ。それほど、3選手が長く活躍したからだろう。
 ただ、改めて歴史を振り返ると、もう一つ外国人選手の系譜という顔も見えてくる。東京時代のパリスがから始まり、ロペスも初年度は22だった。その後も1年で退団した3選手が継いだ時期もあった。そして、2023年に背番号22に新しい歴史が加わった。ポランコがマリーンズとなって初めて本塁打王のタイトルを獲得したからだ。2024年から、さらなる展開に期待したい。

----- 現在の背番号「22」 -----

 ★《15代》2023(R5)年~現在・24年は2年目 グレゴリー ポランコ 外野手(在籍2年目)

 【ポランコ 背番号変遷】22(2)
 2023(R5)年、背番号22の系譜に新しい歴史が加わった。21(R3)年は巨人に在籍し自由契約となったポランコが23(R5)年に入団し背番号22を継いだが、そのシーズンにマリーンズ初、球団史上では1986(S61)年の落合博満以来となる本塁打王が誕生した。
 移籍1年目となった23(R5)年の開幕戦は5番DHで4打席1四球2三振のデビュー。2戦目も4打席2三振で3戦目はスタメンを外れた。ホーム開幕戦となった4月4日の日本ハム戦(千葉マリン)で初安打が2ランとなり初打点も記録する。以降は状態が上がらず4月は打率.132、1本塁打と低迷した。状態が上がって来たのは5月から。5月は5本塁打を放ち、6月はミートに徹し本塁打は2本だったものの月間打率は.348を記録する。最終的に打率は.242だったものの、本塁打は26本塁打を放ち、浅村栄斗(楽天)、近藤健介(ソフトバンク)と同数ながら本塁打王に輝く。オフにはベストナインにも選出された。
 (23年シーズン終了時)
 <125試合、打率.242、447打数108安打、226本塁打、75打点、0盗塁>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆本塁打王(2023年)
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン(2023年/DH)

----- オリオンズ&マリーンズ「22」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1952(S27)年・3年 野村 輝夫(のむら てるお) 内野手(在籍3年)

 【野村 輝夫 背番号変遷】22(3)
 明治大学から球団創設時に入団した野村輝夫が初代背番号22を背負った。
 1年目の1950(S25)年は開幕一軍は外れたものの、5月12日の西鉄戦(後楽園)に8番・サードで初出場初スタメン、初安打を記録する。以降も三塁の控えを務めつつ、スタメン起用もされる。1年目は16試合に出場、打率.303で終える。51(S26)年は三塁に加え二塁にも入るも、26試合の出場で打率.192に終わる。52(S27)年は再び試合数を減らし、15試合の出場に終わりオフに退団した。
 <57試合、打率.218、110打数24安打、2本塁打、11打点、5盗塁>

※野村輝夫は1952(S27)年オフに一度退団後、翌53(S28)年に復帰して一度再登録されている。しかし、開幕前に再び退団し、1953(S28)年は荒川博が登録されているため、野村輝夫は1952(S27)年限り、1953(S28)年から荒川博とした。


 ★《2代》1953(S28)年~1959(S34)年・7年 荒川 博(あらかわ ひろし 外野手(在籍9年)

  ※1955年~56年の登録名は博久(ひろひさ)。

  1930(S5)年8月6日生、左投左打
  早稲田実業高‐早稲田大‐毎日(53~61)

 【荒川 博 背番号変遷】22(7) ⇒ 7(2)
 1952(S27)年に早稲田大学から入団した荒川博が、背番号22を引き継いだ。
、53(S28)年のルーキーイヤーから外野の一角を占めた。開幕2戦目でスタメンに抜擢され、当初は代打起用も2番打者として定着。3割をキープしてオールスター戦にも出場する。最終的に規定打席には到達しなかったものの、打率.315の結果を残した。2年目の54(S29)年は116試合で規定打席に到達してリーグ18位の.270、55(S30)年も116試合でリーグ25位の.265と2年連続規定打席に到達した。
 しかし、56(S31)年には左翼・山内和弘以外の中堅、右翼の争いが三宅宅三や鈴木正らの頭角で激しさを増し、代打に回る機会が多くなる。最終的に自己最多の122試合に出場したものの、打席数は減り規定打席に到達出来ず、打率.210、0本塁打35打点に終わる。57(S32)年は、橋本力や新人の衆樹資宏にも後れを取る。このシーズンは95試合の出場に留まり打率.249、2本塁打7打点に終わる。
 58(S33)年には大映から合併で入団した矢頭高雄が右翼に定着、59(S34)年には阪神の強打者・田宮謙次郎が入団と出場機会はさらに減らす。58(S33)年は97試合で打率.237、4本塁打33打点、59(S34)年は75試合の出場も守備についたのは24試合とさらに出番を減らし、打率.218、0本塁打12打点に終わる。オフには、背番号9を着けていた田宮謙次郎が阪神時代に着けていた背番号22を希望し、荒川が7年間着けていた22を開幕前に譲り荒川は7に変更した。
 → 荒川博 背番号 7 へ(有料エリア)

 ◆打撃成績<603試合、打率.251、2005打数503安打、16本塁打、172打点、20盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席<1953(S28)年3月22日・大映1回戦/H(後楽園)/2番右翼/2打0安>
 ◇初安打<1953(S28)年3月31日・阪急1回戦/H(後楽園)/代打/1打1安>
 ◇初打点<1953(S28)年4月25日・大映5回戦/R(福島信夫ヶ丘)/1番左翼/適時打/4打2安>
 ◇初本塁打<1953(S28)年8月5日・南海13回戦/R(大阪)/途中右翼/中原宏から>
 ◇オールスター出場/1回(53)


 ★《3代》1960(S35)年~1963(S38)年・3年 田宮 謙次郎(たみや けんじろう)外野手(在籍5年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(2002年)

  1928(S3)年2月11日生(移籍時、左投左打
  茨城・下館商業‐日本大学(中退)‐大阪(49~58)‐大毎(59~63)

 【田宮 謙次郎 背番号変遷】9(1) ⇒ 22(4)
 → 田宮謙次郎 背番号9へ(無料公開)
 前年、10年選手制度で移籍した田宮謙次郎が、1960(S35)年に背番号を9から22に変更した。阪神時代に背負っていた背番号を荒川から譲り受けた。移籍1年目からセ・リーグ首位打者の実力を発揮。田宮の加入でミサイル打線が完成した。

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