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《全文無料》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜9/「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也】

(写真 左から、初代・小田野柏、6代・ミサイル打線最後のピース田宮謙次郎、13代・ロペス違いで入団したアルト・ロペス、14代・「長谷川一夫」の名前で入団在籍15年、19代・22年間9を背負った福浦和也)


(9)「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也

 残念ながら、背番号9の印象が強い選手はオリオンズ時代からいなかった。例えばロペスは数字を残したがアルトマン、有藤、山崎という打者に隠れてしまっていた。長谷川一夫は「大スターと同じ名前で縁がある」と永田雅一が入団させ、息の長い選手となったがバイプレーヤーで前面に出て来ることはなかった。「東映の暴れん坊」の一人だった白仁天も9を着けたが、印象としては高打率を残した2の印象が強かった。日本人特有の9に対するイメージがあり選手が避けたがったのも要因かも知れない。
 その背番号9に大きな歴史を刻んだのが福浦和也だった。球団史上3人目の2000本安打を達成。74年間の背番号9の歴史の中で、タイトルを獲得したのは福浦一人だ。

----- 現在の背番号「9」 空番 -----

 福浦和也引退後、2020(R2)~2024(R6)の4年間 空番になっている。

----- オリオンズ&マリーンズ「9」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年途中・8ヶ月 小田野 柏(おだの かしわ) 外野手(在籍1年)

  1917(T6)年1月14日生右投右打
  岩手・福岡中(旧制)‐青森営林局‐仙台鉄道局‐阪急軍(38~42)‐豊岡物産‐毎日(50)‐西鉄(50~52)‐近鉄(53)‐高橋(54)

 【小田野 柏 背番号変遷】9(1)
 戦前から戦中は阪急に所属し、戦後は社会人・豊岡物産で活躍していた小田野柏が毎日に入団してプロ復帰し、初代の9を着けた。小野田は豊岡物産時代の1947(S22)年、日本野球界最初の天覧試合となった都市対抗野球の試合で本塁打を放ち、天覧試合で本塁打を放った最初の選手だった。
 阪急時代は投手兼外野手だったが、毎日では外野手登録だった。主に代打と外野の守備固めとして試合に出場。7月20日、旭川で行われた大映11回戦では、主力が長距離遠征を休み、小田野が4番を務め、地元のヒーロー大映・スタルヒンから自身プロ初本塁打を放った。8月初旬の時点で.260、1本塁打を記録していたが、8月に今久留主淳とともにトレードが決まり、西鉄クリッパースへ移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<41試合、打率.260、77打数20安打、1本塁打、14打点、4盗塁>
 ◇初出場、初打席、初安打、初打点<1950(S25)年3月15日・南海1回戦/H(大阪)/途中左翼/2打1安/適時二塁打>
 ◇初スタメン<1950(S25)年3月29日・近鉄3回戦/H(後楽園)/2番左翼/4打1安>
 ◇初本塁打<1950(S25)年7月20日・大映11回戦/H(旭川)/4番左翼/スタルヒンから>


 ★《2代》1951(S26)年~1952(S27)年・1年5ヶ月 北川 桂太郎(きたがわ けいたろう) 投手(在籍2年)

  1925(T14)年5月14日生(移籍時24歳)、右投右打
  静岡・島田商業高‐セネタース(東急)(46~49)‐西鉄(50)‐毎日(50~52)‐大昭和製紙‐高橋(56)

【北川桂太郎 背番号変遷】9(2)
 小田野とのトレードで8月に西鉄から移籍した北川桂太郎が、小田野の着けていた9をそのまま引き継いだ。
 移籍年の51(S26)年は試合に出場することなく終わる。翌52(S27)年は二刀流全開。投手登録だったが、初出場は代打だった。4月12日の近鉄2回戦(大阪)では初登板初先発。マウンドは3回1失点と好投しながら3回で降板したが、打席では自身プロ初本塁打となる3ランを放つ。以降は一度一軍を離れるが、5月に再登録。中継ぎで登板しながら代打でも登場する。7月28日の東急14回戦(後楽園)では先発し毎日移籍後、初勝利初完投。打席でも4打数1安打とヒットを放ち、打率を.308と3割に乗せる。9月18日の近鉄15回戦(奈良橿原)では自身初完封を記録し、打席では4打数1安打とヒットを放つ。最終的に投手では11試合(6先発)に登板し、3勝2敗、防御率2.57、バットでは16試合23打席、打率.273、1本塁打4打点だった。
 しかし、翌53(S27)年はケガもあり一軍未出場に終わり、このシーズン限りで引退した。その後社会人・大昭和製紙で復活し、4年後の56(S31)年に高橋に入団した。

 ◆在籍時投手成績<11試合、3勝2敗、防2.57、6先発、1完封、17奪三振>
 ◇毎日初登板、初先発<1951(S26)年4月12日・近鉄2回戦/R(大阪)/先発/3回1失勝敗なし>
 ◇毎日初勝利、初完投<1951(S26)年7月28日・東急14回戦/H(後楽園)/先発/9回2失>
 ◇初完封<1951(S26)年9月18日・近鉄15回戦/R(奈良橿原)/先発/9回0失>
 ◆在籍時打撃成績<15試合、打率.273、22打数6安打、1本塁打、4打点、0盗塁>
 ◇毎日打者初出場、初打席<1951(S26)年4月5日開幕戦・東急1回戦/R(後楽園)/代打/1打0安>
 ◇毎日初本塁打、初打点<1951(S26)年4月12日・近鉄2回戦/R(大阪)/9番投手/五井孝蔵から>


※1953(S28)年 空番


 ★《3代》1954(S29)年・1年 栗木 孝幸(くりき たかゆき) 外野手(在籍3年)

  1929(S4)年10月3日生(入団時22歳)、右投右打
  岐阜・市立岐阜商業‐明治大‐毎日(52~54)‐トンボ(55~56)‐大映(57)‐羽幌炭鉱

【栗木 孝幸 背番号変遷】36(2) ⇒ 9(1)
 → 栗木孝幸 背番号 36 へ(試読エリア)
 1952(S27)年に明治大学から入団し、前年は背番号36を着けて90試合に出場し。打率.274をマークした栗木孝幸が、3年目の54(S29)年に背番号を9に変更して背番号9を引き継いだ。
 開幕一軍ベンチ入りし、主に守備固めとして出場する。特に、このシーズン38歳となる呉昌征のバックアップとして出場が増える。また、代走としても登場し29盗塁を記録した。しかし、スタメン出場の機会もあったものの打撃が低調。2割台前半で推移した。最終的に前年を上回る92試合に出場したものの、打率は.204と伸びなかった。オフにはトンボへ移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<1882試合、打率.249、406打数101安打、4本塁打、14打点、42盗塁>
 ◇初出場、初打席<1953(S28)年3月21日開幕戦・南海1回戦/H(後楽園)/1番左翼/4打0安>
 ◇初安打、初本塁打、初打点<1953(S28)年3月26日・大映2回戦/R(後楽園)/1番左翼/小川善治から/4打2安>

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆プロ1号から2本連続初回先頭打者本塁打(1953年) パ・リーグ記録


 ★《4代》1955(S30)年・1年 有町 昌昭(ありまち まさあき) 内野手(在籍2年)

  1935(S10)年11月13日生(入団時19歳)、右投右打
  福岡・小倉高‐毎日オリオンズ(54~55)

 【有町 昌昭 背番号変遷】39(1) ⇒ 9(1)
 → 有町昌昭 背番号 39 へ(有料エリア)
 前年54(S29)年に小倉高校から入団した有町昌昭がレギュラーを期待され、2年目の55(S30)年に背番号を39から9に変更した。
 1年目は三塁と遊撃を守ったが、2年目の有町昌昭は開幕戦で7番三塁でスタメン抜擢される。その後、葛城隆雄が三塁で好調だったため遊撃に回りレギュラーをつかむ。ところが8月23日、遊撃での守備中に打球が左ヒザを直撃して退場。復帰することなくそのまま引退した。

 ◆打撃成績<133試合、打率.213、282打数60安打、1本塁打、30打点、0盗塁>
 ◇初出場<1954(S29)年5月30日第1・大映4回戦/R(青森)/途中遊撃)
 ◇初打席<1954(S29)年5月30日第2・大映5回戦/R(青森)/途中遊撃/凡退)
 ◇初安打<1954(S29)年8月14日・東映15回戦/H(後楽園)/途中三塁/3打2安)
 ◇初打点<1954(S29)年8月28日・東映16回戦/H(駒沢)/8番三塁・適時打)
 ◇初本塁打<1955(S30)年5月10日・大映4回戦/H(後楽園)/7番遊撃/林義一から)


 ★《5代》1956(S31)年~1957(S32)年・2年 橋本 基(はしもと もとい) 内野手(在籍2年)

  1933(S8)年8月18日生右投右打
  大分・大分商業高‐日鉄二瀬炭鉱‐毎日(56~57)

 【橋本 基 背番号変遷】9(2)
 1956(S31)年に社会人・日鉄二瀬炭鉱から入団した橋本基が、背番号9を引き継いだ。
 強打の即戦力二塁手として期待されていたが、1年目の56(S31)年は4月に一軍登録され、スタメンに抜擢された24日の大映2回戦(後楽園)で2安打を記録する。しかしケガのために離脱する。7月に再合流も再び離脱。最終的に15打席で5安打を放ったが(.357)、8試合の出場に留まった。翌57(S32)年は一軍未出場に終わり、このシーズン限りで引退した。

 ◆打撃成績<8試合、打率.357、14打数5安打、0本塁打、2打点、0盗塁>
 ◇初出場<1956(S31)年4月21日・南海2回戦/R(大阪)/途中二塁>
 ◇初スタメン、初打席、初安打<1956(S31)年4月24日・大映2回戦/H(後楽園)/1番二塁/4打2安>
 ◇初打点<1956(S31)年7月8日・高橋13回戦/R(川崎)/8番二塁/適時打/4打1安>


※1958(S33)年 空番


 ★《6代》1959(S34)年・1年 田宮 謙次郎(たみや けんじろう)外野手(在籍5年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(2002年)

  1928(S3)年2月11日生(移籍時、左投左打
  茨城・下館商業‐日本大学(中退)‐大阪(49~58)‐大毎(59~63)

 【田宮 謙次郎 背番号変遷】9(1) ⇒ 22(4)
 58(S33)年、阪神で首位打者、最多出塁のタイトルを獲得し、3年連続ベストナインに選ばれ、A級10年選手制度(10年在籍選手は自由移籍できる権利)を行使して移籍を模索していた田宮謙次郎の入団が決まり、背番号9を着けた。ミサイル打線の「最後のピース」が埋まった。
 59(S34)年は阪神時代と同様に3、5番に入り、打率はリーグ11位の.286、9本塁打54打点と結果を残した。オフに阪神時代に7年着け、田宮の顔にもなっていた背番号22に変更した。
 → 田宮謙次郎 背番号 22 へ(有料エリア)

 ◆在籍時打撃成績<651試合、打率.305、2289打数699安打、50本塁打、275打点、45盗塁>
 ◇大毎初出場、初スタメン、初打席、初安打<1959(S34)年4月10日開幕戦/R・南海1回戦(大阪)/3番中堅/5打2安>
 ◇大毎初打点<1959(S34)年4月18日・南海4回戦/H(後楽園)/3番中堅/適時打>
 ◇大毎本塁打<1959(S34)年4月18日第2・南海6回戦/H(後楽園)/3番中堅/金彦任重から>
 ◇オールスター出場/3回(60,61,62、自身通算7回)

 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン/2度 (1960年、61年/ともに外野手)自身通算5度選出
  ◆日本シリーズ敢闘賞(1960年)
  ◆オールスターゲームMVP(1961年 第2戦)


 ★《7代》1960(S35)~1961(S36)年・2年 倉高 新始(くらたか しんじ) 外野手(在籍7年)

  1938(S13)年8月21日生(入団時21歳)、左投左打
  京都・平安高‐同志社大学(中退)‐辻和商店-大毎(60~66)

【倉高 新始 背番号変遷】9(2) ⇒ 35(1) ⇒ 52(1) ⇒ 21(2) ⇒ 32(1)
 同志社大学を中退し社会人・辻和商店でプレーを続けていた倉高新始が、1960(S35)年に入団して背番号9を引き継いだ。
 投手としての入団だった。背番号9だった1、2年目は一軍で出番がなく、2年目のオフに背番号を35に変更した。
 → 倉高新始 背番号 35 へ(有料エリア)
 → 倉高新始 背番号 52 へ
 → 倉高新始 背番号 21 へ(有料エリア)
 → 倉高新始 背番号 32 へ(有料エリア)

 ◆投手成績<3試合、0勝0敗、防7.20、0先発、0完封、2奪三振>
 ◇初登板<1962(S37)年4月8日第2・東映3回戦/R(神宮)/4番手/1回2失>
 ◆打者成績<132試合、打率.242、124打数30安打、0本塁打、9打点、1盗塁>
 ◇打者初出場、初打席、初安打<1963(S38)年7月21日第1・東映19回戦/R(神宮)/代打/1打1安>
 ◇初打点<1963(S38)年8月1日・東映23回戦/H(東京)/途中一塁/適時二塁打/2打1安>
 ◇初スタメン<1963(S38)年8月3日・近鉄18回戦/R(日生)/7番一塁/2打0安> 


 ★《8代》1962(S37)年~1963(S38)年・2年 上条 皇裕(かみじょう たかひろ) 投手⇒内野手・外野手(在籍6年)

  ※1964年に登録名を皇裕→高敬(たかひろ)に変更

  1940(S15)年9月26日生(入団時18歳)、右投右打
  東京・足立高‐大毎(59~64)
 
 【上条 皇裕 背番号変遷】36(3) ⇒ 9(2) ⇒ 13(1)
 → 上条皇裕 背番号 36 へ(有料エリア)
 1959(S34)年、投手としての入団し、打者に転向していた上条皇裕が4年目の62(S37)年に背番号を36から9に変更した。前年に二軍では打率.424をマークしてイースタン・リーグの初代首位打者に輝いた。
 野手2シーズン目となる62(S37)年は8番遊撃で開幕スタメンに抜擢される。しかし、ヒットが出ず打率は1割台と低迷し、5月に抹消される。その二軍では上条本来の打撃力で首位打者を獲得。9月に再登録され、初本塁打も記録する。最終的に72試合に出場し打率は.188と低かったものの、遊撃57試合の他、二塁1、三塁12試合と器用さを生かした。しかし、翌63(S38)年は14試合の出場に留まり.100と低迷。オフに背番号を9から13に変更した。
 → 上条皇裕 背番号 13 へ(有料エリア)

 ◆投手成績<11試合、1勝0敗、防2.63、0先発、0完封、13奪三振>
 ◇初登板<1959(S34)年5月31日・西鉄9回戦/R(平和台)/3番手/4回0失>
 ◇初勝利<1959(S34)年6月7日・近鉄9回戦/R(日生)/3番手/4回0失>
 ◇初打席(投手登録)<1959(S34)年5月31日・西鉄9回戦/R(平和台)/途中投手/1打1安>
 ◇初安打(投手登録)<1959(S34)年7月7日・近鉄13回戦/R(日生)/途中投手/1打1安>
 ◆打者成績<138試合、打率.170、194打数33安打、1本塁打、12打点、5盗塁>
 ◇初打席(打者登録)<1961(S36)年5月14日・南海9回戦/H(後楽園)/代打/1打0安>
 ◇初スタメン<1961(S36)年8月27日・西鉄19回戦/H(後楽園)/7番遊撃/4打0安>
 ◇初安打(打者登録)<1961(S36)年9月6日第1・阪急21回戦/R<西宮>/8番遊撃/3打1安>
 ◇初打点<1961(S36)年10月8日・阪急28回戦/H(駒沢)/8番遊撃/適時打/3打1安>
 ◇初本塁打<1962(S37)年9月20日・西鉄25回戦/H(東京)/7番遊撃/安部和春から>

 ※イースタン タイトル・表彰(首位打者(62))


 ★《9代》1964(S39)年・1年 小西 秀朗(こにし ひでろう) 外野手(在籍1年)

  1937年9月8日生(移籍時27歳)、左投左打
  秋田・秋田高‐立教大学‐国鉄(60~63)‐東京(64)

 【小西 秀朗 背番号変遷】9(1)
 1964(S39)年に国鉄から移籍した小西秀明が背番号9を引き継いだ。
 4年在籍した国鉄では外野の控えだったが打撃面が課題だった。東京では代打、守備要員として期待され、開幕直後の3月21日南海5回戦に初出場。しかし、状態が上がらず4試合の出場に留まり、4打席で1安打に終わり、1年限りで引退した。

 ◆在籍時打撃成績<4試合、打率.250、4打数1安打、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初打席<1964(S39)年3月21日・南海5回戦/H(東京)/代打/1打1安>
 ◇ロッテ初安打<1964(S39)年6月2日・南海17回戦/H(東京)/途中右翼/1打1安>


 ★《10代》1965(S40)年・1年 マイク ソロムコ 外野手(在籍2年)

  1936(11)年7月24日生(移籍時27歳)、右投右打
  米・ペンシルベニア高‐米・マイナー(54~55)(57)‐大阪‐(60~63)‐東京(64~65)

 【ソロムコ 背番号変遷】56(1) ⇒ 9(1)
 阪神に在籍していた助っ人が1964(S39)年に若生智男とのトレードで移籍。1年目は阪神時代と同じ背番号56だったが、65(S40)年に背番号を9に変更して引き継いだ。
 前年は119試合に出場したが.253、15本塁打と助っ人ととしては物足りない数字だったが、65(S40)年はさらに出場試合数を減らし50試合、打率.242、本塁打も6本と自身初めて二桁を割り込み、このシーズン限りで引退した。

 ◆在籍時打撃成績<169試合、打率..250、561打数140安打、21本塁打、62打点、16盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初打席、初安打、初本塁打、初打点<1964(S39)年3月14日開幕戦・南海1回戦/R(大阪)/6番中堅/初本塁打(初打点)三浦清弘から/4打2安>


 ★《11代》1966(S41)年・1年 西山 和良(にしやま かずよし) 外野手(在籍3年)

  1933(S8)年8月25日生(移籍時35歳)、右投右打
  和歌山・和歌山商業高‐関西大学‐大阪(56~63)‐東京(64~66)

 【西山 和良 背番号変遷】8(2) ⇒ 9(1)
 → 西山和良 背番号 8
 1964(S39)年に阪神から移籍し、代打として活躍していた西山和良が66(S41)年に背番号を8から9に変更した。
 移籍3年目だったが、外野に若手が台頭した66(S41)年は代打が中心となり、42試合に出場したが打率.154、0本塁打と結果が出ず、このシーズン限りで引退した。

 ◆在籍時打撃成績<177試合、打率.224、183打数41安打、2本塁打、23打点、1盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初スタメン、初打席<1964(S39)年3月14日開幕戦・南海1回戦/R(大阪)/8番右翼/3打0安>
 ◇ロッテ初安打<1964(S39)年3月15日第2・南海3回戦/R(大阪)/8番右翼/2打1安>
 ◇ロッテ初打点<1964(S39)年3月18日・阪急2回戦/R(西宮)/代打/内ゴロ>
 ◇ロッテ本塁打<1965(S40)年7月6日・東映12回戦/R(後楽園)/代打/田中調から>


 ★《12代》1967(S42)年~1968(S43)年・2年 並木 輝男(なみき てるお) 外野手(在籍2年)

  1938(S13)年11月15日生(移籍時28歳)、左投左打
  日本大学第三高‐大阪(57~66)‐東京(67~68)

 【並木 輝男 背番号変遷】9(2)
 阪神で主力として活躍し、ベストナインにも2度選出されていた並木輝男が移籍し、背番号9を引き継いだ。
 チーム若返り方針の影響で阪神を自由契約となり、ベテランとしての活躍が期待されたが、移籍1年目の67(S42)年のキャンプで右足アキレス腱を断裂。このシーズンは1試合だけの出場に留まり、翌68(S43)年も8試合の出場に終わり、シーズンオフに引退した。

 ◆在籍時打撃成績<9試合、打率.000、8打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇東京初出場<1967(S42)年9月5日・東映22回戦/R(後楽園)/代打/1打0安>


 ★《13代》1969(S44)年~1971(S46)年・3年 アルト・ロペス(在籍4年)

  1937(S12)年5月8日(入団時31歳)、左投左打
  米・マヤゲツ高‐米・マイナー(61~64,66)‐ニューヨーク・ヤンキース(65)‐東京(68~71)‐ヤクルト(72~73)

 【ロペス 背番号変遷】22(1) ⇒ 9(3)
 → ロペス 背番号 22
 前年1968(S43)年にアルトマンとともに入団。背番号22だったが、69(S44)年から9に変更した。
 前年1年目には.289(リーグ6位)23本塁打74打点を記録した。
 2年目の69(S44)年も3番に座り打線をけん引する。このシーズンは開幕から打撃好調で、打率は.301(リーグ6位)と3割をマーク。本塁打も前年と同じく23本を放ち、81打点と勝負強さを見せ、3番右翼・ロペス、4番左翼・アルトマンと東京球場のオリオンズ打線の中軸を担った
 翌70(S45)年には開幕からチームは首位争いを繰り広げ、6月には一気に飛び出す。ロペスもチームをけん引し、好調な打撃はシーズン通じて3割をキープする。最終的に打率.313と来日以来最高打率を記録。21本塁打69打点と打線をけん引し、チームを10年ぶりのリーグ優勝へと導いた。しかし、日本シリーズでは13打数1安打と沈黙し、巨人の前に屈した。
 翌71(S46)年も3年連続3割となる打率.301、24本塁打77打点を記録したが、オフにチーム事情からヤクルトにトレードで移籍した。オリオンズ4年間の通算打率は.300だった。

 ◆在籍時打撃成績<507試合、打率.300、1985打数596安打、91本塁打、301打点、25盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打、初打点<1969(S44)年開幕戦4月6日・東映1回戦/R(後楽園)/3番中堅/4打1安/適時三塁打>
 ◇初本塁打<1969(S44)年4月14日・西鉄3回戦/H(東京)/3番中堅/益田昭雄から>
 ◇オールスター出場/1回(68)

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆26試合連続安打(1968年6月12日~7月17日)※現在も球団記録
  ◆オールスターゲーム初回先頭打者初球本塁打(1968年/第1戦)※NPB初


 ★《14代》1972(S47)年~1976(S51)年・5年 長谷川 一夫(はせがわ かずお) 外野手(在籍15年)

  1945(S20)年1月3日生(入団時18歳)、左投左打
  埼玉・大宮工業高‐大毎(63~76)‐クラウン(77~81)

 【長谷川 一夫 背番号変遷】46(1) ⇒ 49(9) ⇒ 9(5)
 背番号を49から9に変更したのは11年目、野手転向10年目だった。その72(S47)年、開幕は控えだったものの、新外国人のジョンソンが不振で長谷川にスタメンのチャンスが巡って来る。当初は打率も2割を切ったが徐々に数字を上げ、8月には3割に乗せる。最終的に100試合に出場し、規定打席には届かなかったものの.307を記録。9本塁打33打点と全てで自己最高をマークした。
 翌73(S48)年からは左の代打、堅実な守備要員として外野と一塁を守る。左投手対左打者の対戦を嫌う金田正一監督の方針もありスタメン出場は減ったが、左の代打として重用される。日本一となった74(S49)年はケガもあり50試合だったが、75(S50)年は右の岩崎忠義、江島巧と併用起用され105試合で.291、76(S51)年は108試合で.258の数字を残す。
 しかしそのオフ、クラウンライターにトレードで移籍する。西武となった81(S56)年まで5年間在籍したが、現役最後の大毎戦士となった。

 ◆在籍時打撃成績<607試合、打率.269、1426打数384安打、13本塁打、137打点、25盗塁>
 ◇初出場、初打席<1963(S38)年10月12日・東映29回戦/R(東京)/代打/1打0安>
 ◇初安打<1965(S40)年5月8日・南海4回戦/R(大阪)/代打/1打1安>
 ◇初本塁打、初打点<1965(S40)年5月9日第1・南海5回戦/R(大阪)/代打/スタンカから>
 ◇初スタメン<1965(S40)年5月9日第2・南海6回戦/R(大阪)/7番左翼/2打0安>
 ◇オールスター出場/1回(73)


 ★《15代》1977(S52)年~1978(S53)年・2年 白 仁天 外野手(在籍4年)

  1943(S18)年11月27日生(移籍時33歳)、右投右打
  韓国・京東高‐韓国農業銀行‐東映(62~74)‐太平洋(75~76)‐ロッテ(77~80)‐近鉄(81)

 【白 仁天 背番号変遷】9(2) ⇒ 2(2)
 東映で強力打線の一角として活躍し、移籍した太平洋では首位打者を獲得した実績のある白仁天が、77(S52)年にトレードで移籍し背番号9を着けた。
 移籍1年目の1977(S52)年は白らしさを発揮。126試合に出場して.280でリーグ10位、16本塁打56打点を記録。このシーズン入団したリーとともに新クリーンアップの核となった。ところが、翌78(S53)年は一転して金田正一監督と衝突。出場試合数も大きく減らし58試合に終わる。シーズン後、白は引退を決意して球団に申し出たが、金田監督の退任に伴い、後任に決まった山内一弘監督から説得を受けて現役続行を決意。翌78(S53)年からは背番号を2に変更した。
白仁天 背番号 2 へ(有料エリア)

 ◆在籍時打撃成績<384試合、打率.289、1205打数348安打、42本塁打、159打点、14盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初打席<1977(S52)年4月2日開幕戦・近鉄前期1回戦/H(宮城)/代打/1打0安)
 ◇ロッテ初安打<1977(S52)年4月5日・クラウン前期1回戦(平和台)/代打/1打1安)
 ◇ロッテ初スタメン、初打点<1977(S52)年4月17日第1・日本ハム前期1回戦(宮城)/7番DH/4打1安/適時打>
 ◇ロッテ初安打<1977(S52)年4月19日・南海前期4回戦(後楽園)/1番左翼/藤田学から>
 ◇オールスター出場/1回(79、自身通算4回)

 ※在籍時に達成した主な記録
  ◇1500安打(1977年7月13日、史上32人目)
  ◇200本塁打(1979年10月4日、史上32人目)


 ★《16代》1979(S54)年~1983(S58)年・5年 江島 巧(えじま たくみ) 外野手(在籍11年)

  1949(S24)年11月24日生、右投右打
  (出身・和歌山)京都・平安高‐中日(68~72)‐ロッテ(73~83)

 【江島 巧 背番号変遷】4(6) ⇒ 9(5)

 → 江島巧 背番号 4
 代打と守備固めとしてチームを支えていた江島巧が1979(S54)年に背番号を4から9に変更した。
 その79(S54)年も前年同様に代打として起用され、152打席で.293とキャリアハイとなる打率を残す。その後も代打として勝負強さを発揮。80(S55)年は43試合で打率.178と低調に苦しんだものの、81(S56)年には60試合に出場して打率.281とベテランらしさを見せて、連続前期優勝に貢献した。
 しかし、82(S57)年は36試合、83(S58)年は9試合と出場試合数を減らして、83(S58)年オフに引退した。

 ◆在籍時打撃成績<686試合、打率.248、923打数229安打、23本塁打、113打点、19盗塁>
 ◇ロッテ初出場<1973(S48)年4月18日・日拓前期2回戦/R(後楽園)/途中左翼>
 ◇ロッテ初打席<1973(S48)年4月29日・南海前期3回戦/H(川崎)/途中左翼/1打0安>
 ◇ロッテ初安打<1973(S48)年5月6日・近鉄前期7回戦/R(日生)/途中左翼/1打1安>
 ◇ロッテ初打点<1973(S48)年5月22日・近鉄前期9回戦/H(宮城)/代打/内ゴロ/1打0安>
 ◇ロッテ初本塁打<1974(S49)年4月29日・太平洋前期6回戦/H(川崎)/途中左翼/石井茂雄から>

 ※在籍時に達成した記録
  ◇1000試合出場(1979年7月1日・南海前期13回戦(大阪)、史上209人目)


 ★《17代》1984(S59)年~1990(H2)年・7年 斉藤 巧(さいとう こう) 内野手⇒捕手(在籍8年)

  1957(S35)年11月25日生(移籍時26歳)、右投右打
  兵庫・洲本実業高−大洋(76〜82)–ロッテ(83〜90)–オリックス(91)

 【斉藤 巧 背番号変遷】48(1) ⇒ 9(7)
 前年トレードで移籍し背番号48だった斎藤巧が1984(S59)年から背番号を9に変更した。
 大洋時代から内野のユーティリティープレーヤーとして内野はどこでも守って来た。移籍1年目の84は終盤の9月に一軍登録され、主に代打で8試合の出場に留まり、無安打に終わる。翌85(S60)年は新任の有藤道世監督が斉藤の打撃力を評価し、開幕から一軍ベンチ入りを果たす。主に代打として62試合に出場した。しかし、打率は.197と低迷。有藤監督の発案で捕手転向を進言。斉藤自身も新たに出番を増やすべく挑戦することを決めた。正捕手として袴田英利がおり、第2捕手として期待されての転向だった。
 転向1年目の85(S60)年は20試合でマスクを被った。しかし捕逸は3を記録。86(S61)年は捕手として37試合、一塁、DHとしても45試合に出場。バットでは打率.288、6本塁打と数字を残したが、9捕逸を記録し課題を残した。
 それでも徐々に守備力も安定し、87(S62)年には捕手に専念。袴田と併用起用され73試合でマスクを被る。しかし、袴田の壁は厚く、また青柳進、福澤洋一と若手も台頭。88(S63)年は47試合でマスクを被ったものの、90(H2)年は捕手出場はなく一塁とDHでの出場となった。打撃でも.200に落ち込み、そのオフにオリックスに移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<444試合、打率.256、765打数196安打、14本塁打、87打点、0盗塁>
 ◇ロッテ初出場<1983(S58)年9月14日・近鉄25回戦/R(日生)/代打一塁/1打0安>
 ◇ロッテ初安打、初本塁打、初打点<1984(S59)年4月14日・近鉄2回戦/R(藤井寺)/代打/山口哲治から>
 ◇ロッテ初スタメン<1984(S59)年4月25日・近鉄5回戦/H(川崎)/7番一塁/4打0安>


 ★《18代》1991(H3)年~1997(H9)年・7年 五十嵐 章人(いがらし あきひと) 外野手⇒内野手(在籍7年)

  1968(S43)年4月12日生(入団時22歳)、右投左打
  群馬・前橋商業高−日本石油–ロッテ(91〜97)–オリックス(98〜01)−近鉄(02〜03)

 【五十嵐 章人 背番号変遷】9(7)
 前橋商業高校時代はエースとして甲子園に出場。社会人・日本石油時代に打者転向し1990(H4)年のドラフト3巡目で入団した五十嵐章人が背番号9を継いだ。
 即戦力と期待されての入団だった。1年目から一軍登録されスタメンでも起用された。そのルーキーイヤーは89試合に出場し.240、3本塁打を記録した。しかし、2、3年目と大半を二軍で過ごす。打率も.111、.083と振るわなかった。3年目は遊撃にコンバートされ、守備の強化に時間を割いた。
 4年目の94(H6)年には二塁手としてチャンスが回って来る。遊撃にも回り97試合に出場。.281をマークする。95(H7)年にはバレンタイン監督の守備の評価は高く、一塁17、二41、三塁11、遊16試合と内野全ポジションを守る。5月7日のオリックス戦では登録捕手が不在となり、わずか8球だったがマスクを被った。最終的に101試合に出場したが打率は.209と低迷した。96(H8)年は自己最多となる114試合に出場。前年同様に内野全ポジションを守り、打率も.271をマークした。
 しかし、翌97(H9)年は遊撃に小坂が入団して固定され、二塁堀、三塁初芝が好調で出番が減る。30試合の出場に留まり、オフにトレードでオリックスに移籍した。

 ◆在籍時打撃成績<459試合、打率.247、1083打数267安打、19本塁打、98打点、3盗塁>
 ◇初出場、初スタメン<1991(H3)年4月9日・日本ハム1回戦/R(東京D)/2番右翼/1打0安>
 ◇初安打<1991(H3)年4月14日・近鉄2回戦/H(川崎)/7番右翼/4打1安>
 ◇初打点<1991(H3)年4月21日・オリックス9回戦/H(川崎)/途中右翼/適時三塁打/2打2安>
 ◇初本塁打<1991(H3)年6月11日・オリックス9回戦/H(川崎)/9番右翼/長谷川滋利から>


 ★《19代》1998(H10)年~2019(R1)年・22年 福浦 和也(ふくうら かずや) 内野手(在籍26年)

  1975(S50)年12月14日生(入団時18歳)、左投左打
  千葉・習志野高–千葉ロッテ(94〜19)

 【福浦 和也 背番号変遷】70(4) ⇒ 9(22)
 1993年のドラフト7位で習志野高校から入団し、投手から打者に転向し4年目の97(H9)年に67試合に出場し頭角を現していた福浦和也が、そのオフに背番号を70から9に変更した。
 前年、シーズン後半にガッチリと一塁のポジションをつかんだ福浦が、98(H10)年は開幕から一塁に起用される。チームは18連敗を喫して低迷したが、福浦はコンスタントにヒットを重ね、最終的に自己初となる三桁安打となる132安打を放ち、打率.284でリーグ12位に名前を連ねた。しかし、翌99(H11)年はボーリックと初芝清が一塁に回り、出場試合数を減らすとともに外野にも回った。2000(H12)年は石井浩郎が移籍し4番一塁で固定され福浦はライトに回る。ライトの守備では元投手の強肩を生かして矢のような送球を見せ2捕殺を記録。石井が骨折離脱してからは一塁に入り、打率.296でリーグ11位に入った。
 01(H13)年は石井が代打に回り福浦は一塁に復帰する。開幕から好調な打撃を見せ、シーズン終盤まで小笠原道大(日本ハム)と首位打者争いを繰り広げる。一時は離されたものの、最終盤に5割近い数字で追い上げ.346と高打率をマークし逆転で首位打者を獲得。本塁打も自身初の二桁となる18本塁打を放った。
 03(H15)年は自身初の全試合出場。.303(リーグ15位)で3年連続3割を記録。リーグ1位の50二塁打は史上2人目の記録だった。オフには初めてゴールデングラブ賞に選出された。04(H16)年も.314(リーグ9位)で3割をマーク。05(H17)年も.300(リーグ11位)で日本一に貢献、2度目となるゴールデングラブ賞に選出された。
 06(H18)年は開幕から絶好調。3・4月は打率.420を記録して、初めて月間MVPを獲得する。中盤に死球を受け骨折離脱するも最終的に.312(リーグ5位)で6年連続3割を記録した。しかし、07(H19)年は開幕直後に骨折して離脱。復帰後も影響が残り、打率.258に終わり連続3割が6年で途絶えた。08(H20)年は首痛、腰痛に苦しみ、105試合の出場に留まり.252に終わる。78安打で8年続いていたシーズン100安打も途切れた。
 09(H21)年はシーズン序盤は低調が続く。しかし、中盤から福浦らしさを取り戻し、最終的に3割は届かなかったものの、3年ぶりに規定打席に到達して.273(リーグ20位)、108安打で2年ぶりに100安打を記録した。10(H22)年はDHに専念。主軸の不振時には4番にも座る。最終的に規定打席には到達しなかったものの.295を記録。自身6年ぶりに13本塁打と二桁に達し、下剋上日本一に貢献した。オフには初となるベストナイン(DH)に選出された。
 11(H23)年は116試合に出場、80安打と100安打には届かず、打率も.223と低調に終わる。それでも球団史上3人目の2000本安打へ残り300本を切った。しかし、翌12(H24)年からは出場試合数を減らしていく。スタメン出場も減り、代打での登場が多くなる。安打数も45安打、13(H25)年は32安打、13(H25)年は26安打、15(H27)年は好調で47安打と盛り返して2000本安打へ100本を切り、あと88本と迫る。ところが、15(H27)年は2000試合出場を果たしたものの尿管結石で離脱し20安打、16(H28)年は左足首と背筋痛で離脱して30安打と一気に決められない。
 そして、打撃コーチ兼任としてあと38本として迎えた18(H30)年、開幕スタメンに名前を連ね、42歳3ヶ月で1978年の野村克也(42歳9ヶ月)に次ぐ球団の年長記録を作る。4月10日の西武戦では通算2162試合目の出場となり、榎本喜八を抜いて球団の最多記録を更新。9月22日の西武戦で右越え二塁打を放ち史上52人目の通算2000安打を達成。チームでは榎本喜八・有藤道世に次ぐ3人目の大記録達成打者となった。翌19(R1)年も現役登録されたものの一軍出場はなく、9月23日の引退試合に登場し現役を引退した。福浦がピンクユニフォーム時代に在籍した最後の選手だった。
 翌20(R2)年、コーチ専任に伴い背番号を9から入団当初の70に変更した。

 ◆打撃成績<2235試合、打率.284、7039打数2000安打、118本塁打、935打点、10盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1997(H9)年7月5日・オリックス14回戦/H(千葉マリン)/7番一塁/2打1安>
 ◇初打点<1997(H9)年7月13日・西武15回戦/R(札幌丸山)/8番一塁/適時打/3打1安>
 ◇初本塁打<1997(H9)年8月1日・西武16回戦/H(千葉マリン)/7番一塁/横田久則から>
 ◇オールスター出場/3回(00、04、05)

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆首位打者(2001年)
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン(2010年/指名打者)
  ◆ゴールデングラブ賞/3度(2003年、05年、07年/一塁)
  ◆月間MVP(2006年4月/野手)
  ◆パ・リーグ 連盟特別表彰(功労賞 2019年)
 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆シーズン50二塁打(2003年)歴代2位
  ◆3年連続40二塁打(2002年~04年)NPB記録
  ◆6年連続打率3割(2001年~06年)史上11人目
  <福浦が記録した球団記録>
  ◆球団通算5500号本塁打(1998年7月10日、対日本ハムファイターズ13回戦(千葉マリンスタジアム)
  ◆通算サヨナラ打 12本塁打
  ◆通算試合数 2235試合
  ◆通算犠飛数 78犠飛
  ◆通算死球数 95死球
  ◇1000安打(2004年8月20日、史上225人目)
  ◇1000試合出場(2005年5月12日、史上402人目)
  ◇300二塁打(2007年8月3日、史上46人目)
  ◇1500安打(2009年5月2日、史上99人目)
  ◇1500試合出場(2009年8月19日、史上166人目)
  ◇100本塁打(2010年3月22日、史上258人目)
  ◇350二塁打(2011年4月13日、史上30人目)
  ◇2000試合出場(2015年6月15日、史上48人目)
  ◇1000三振(2015年7月13日、史上60人目)
  ◇2000安打(2018年9月22日、史上52人目)


※2020(R2)~2024(R6) 空番


※通算成績は背番号時に関係なく在籍時の通算成績です。
※在籍年数は現役としての年数。シーズン途中移籍や入団も1年として算出。監督・コーチは含みません。
※着用が年数1年未満の場合は月数で表示しています。
※タイトル、表彰、記録は在籍時に表彰を受けたものを対象としています。
※記録内の◆はタイトル、表彰、主な記録。◇は節目の記録。


(次回)⇒《全文無料》『(10)「0」新しい系譜は快足とリリーフエースの系譜に


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(2)《有料・冒頭試読》「2」3人の高卒新人開幕スタメン
(3)《有料・冒頭試読》「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜
(4)《有料・冒頭試読》「4」職人肌野手と助っ人の系譜
(5)《有料・冒頭試読》「5」歴代最少11人、打撃職人の系譜
(6)《有料・冒頭試読》「6」落合が生んだ打線主軸の系譜
(7)《有料・冒頭試読》「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜
(8)《有料・冒頭試読》「8」看板打者の系譜
(9)《全文無料》「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也
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(15)《有料・冒頭試読》「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ
(16)《有料・冒頭試読》「14」球団創設から続く主力投手の系譜
(17)《有料・冒頭試読》「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
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(26)《有料・冒頭試読》「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ
(27)《有料・冒頭試読》「25」正統・打撃職人の系譜
(28)《有料・冒頭試読》「26」TEAM26、マリーンズファンの背番号を振り返る
(29)《有料・冒頭試読》「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
(30)《有料・冒頭試読》「28」助っ人、野手から投手の系譜へ
(31)《有料・冒頭試読》「29」サンデー兆治が育て、サンデー晋吾が継いだエースの称号
(32)《有料・冒頭試読》「30」監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ
(33)《有料・冒頭試読》「31」野手の出世番号から投手の背番号へ
(34)《有料・冒頭試読》「32」主力選手から職人野手の背番号、そして捕手の新しい歴史へ
(35)《有料・冒頭試読》「33」2人の殿堂入り胴上げ監督の背番号
(36)《有料・冒頭試読》「34」400勝投手監督から投手の背番号に
(37)《有料・冒頭試読》「35」初代監督から、外野手の出世番号へ
(38)《有料・冒頭試読》「36」36からの飛躍した三井、サブロー
(39)《有料・冒頭試読》「37」投手、野手、助っ人、25代の系譜
(40)《有料・冒頭試読》「38」強心臓投手と大砲候補の系譜
(41)《有料・冒頭試読》「39」投手・野手から捕手の系譜へ
(42)《有料・冒頭試読》「40」多士済々のメンバーが連なる系譜

※参考文献、参考WEBは『プロローグ』から

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2023年シーズンは千葉ロッテマリーンズ74度目のシーズン。 73年間の歴史を振り返りつつ、今シーズ…

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