見出し画像

《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「8」看板打者の系譜】

割引あり

(8)「8」看板打者の系譜

 背番号8の歴史は初代・戸倉勝城から始まった。球団創設第1戦の4番打者、パ・リーグ第1号も記録した。2代・山内和弘はミサイル打線の核となった。ベストナイン9度を誇ったが「世紀のトレード」で移籍し、阪神で2000本安打を達成した。5代・有藤通世は大型三塁手として入団。「ミスターロッテ」と称され大卒としてはパ・リーグ初めての2000本安打達成者となった。10代・今江敏晃はFAにて移籍するまで14年間在籍し1424安打を記録し、2024年から楽天の監督を務める。
 背番号8は間違いなく看板打者の系譜だ。だから、中村奨吾にはさらに大きく育って欲しい。

----- 現在の背番号「8」 -----

 ★《11代》2017(H29)年~・2024年は8年目 中村 奨吾(なかむら しょうご) 内野手(在籍10年目)

 【中村 奨吾 背番号変遷】23(2) ⇒ 8(7)
 2014(H26)年のドラフト1位で早稲田大学から入団し、背番号23を着けていた中村奨吾が3年目の17(H29)年から背番号8に変更した。ルーキーイヤーから111試合、108試合と三塁を主体に試合に出場し、レギュラー定着へ頭角を現わしていた。
 17(H29)年は鈴木大地が二塁に回り、遊撃のレギュラー争いを展開。9番遊撃で2年連続開幕スタメンもヒットが出ず登録抹消。その後再登録され少しずつ状態を上げ、85試合に出場し.275、9本塁打32打点だった。
 18(H30)年には鈴木がFAで移籍し、中村が二塁に回る。新任の井口資仁監督も中村を二塁に固定することを宣言する。3番二塁で開幕スタメンに名前を連ねると、そのまま定着しオールスターにも初出場する。最終的に、自身初の全試合出場および規定打席到達を果たし、.284、8本塁打、39盗塁という成績を残した。また、二塁手ではリーグトップとなる守備率.993を記録し、自身初となるゴールデングラブ賞を受賞した。翌19(R1)年も全試合出場を果たすも打撃は好不調に波があり.232(リーグ30位)に終わる。ただ、本塁打は自身初の二桁となる17本を放った。翌20(R2)も全試合出場を果たしたが、打率は.249に終わる。しかし、守備の評価は変わらず高く2度目のゴールデングラブ賞を受賞。二塁手が1人で複数回受賞したのは球団初だった。
 22(R4)年も開幕スタメン出場も直後にPCR検査で陽性となり、8を背負った1年目の17(H20)年6月28日から続いていた連続出場が630試合でストップした。このシーズンは.257(リーグ15位)、翌23(R5)年も137試合に出場し.220(リーグ22位)だったが、2年ぶりにゴールデングラブ賞を受賞した。
 (23年シーズン終了時)
 <1128試合、打率.251、3825打数959安打、85本塁打、426打点、106盗塁>

 ※在籍時に選出された
  ◆ベストナイン(2021年/二塁)
  ◆ゴールデングラブ賞(2018年、21年、23年/二塁)
 ※在籍時に達成した記録
  ◆シーズン22死球(2018年)球団記録、NPB歴代5位
  ◆全打順本塁打(2022年6月1日、史上15人目)
  ◇1000試合出場(2023年4月11日、※史上519人目)

----- オリオンズ&マリーンズ「8」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年・1年 戸倉 勝城(とくら かつき) 外野手(在籍1年)

 【戸倉 勝城 背番号変遷】8(1)
 球団創設時に社会人・大洋漁業から35歳で入団した戸倉勝城が初代背番号8を着けた。
 開幕戦では初代4番を務め、初打席で本塁打を放ち、初打席初本塁打とパ・リーグ第1号本塁打を記録する。以降も4番として打線を引っ張り、7月にはナイターで第1号本塁打も記録する。最終的に打率.263ながら21本塁打96打点、盗塁も22個を決め、チームのリーグ初代王者、日本シリーズ初代王者に貢献した。オフにはベストナインにも選出された。
 翌51(S26)年も毎日に所属する予定でキャンプを兼ねたリーグ代表チームのハワイ遠征に参加する。その帰国時に阪急への移籍を伝えられ阪急に移籍した。前年圧勝した毎日に対し、戦力均衡の批判が出たことと、湯浅禎夫監督が戸倉の将来のために若いチームで指導者的な立場を兼ねさせようとの意向があった。
 阪急で監督も担った後、67(S42)年には監督として東京オリオンズに復帰した(背番号は50)。
 <110試合、打率.263、414打数109安打、21本塁打、96打点、22盗塁>

※1951(S26)年 空番

 ★《2代》1952(S27)年~1963(S38)年・11年 山内 和弘(やまうち かずひろ) 外野手(在籍11年)

※1962(S37)年から 山内和弘 ⇒ 一弘 に登録名変更

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(2002年)
 【山内 和弘 背番号変遷】8(11)
 1952(S27)年に社会人・川島紡績から入団した山内和弘が2代目の背番号8を背負い、看板打者の番号への足がかりを作る。1年目は中盤まで二軍で実績を積み6月下旬に一軍登録。以降一軍で出場し、44試合の出場ながら打率.336と高打率をマークする。
 2年目の53(S28)年は開幕から主軸として期待され開幕戦は6番・右翼でスタメン出場を果たす。しかし、直後に黄疸の症状が現れ病気療養に入り、復帰したのは6月中旬だった。以降終盤には3番に定着したものの、最終的には72試合で7本塁打を放ったが.244に終わった。
 山内が主軸として注目されたのは3年目の54(S29)年だった。開幕は1番だったものの好調な打撃に3番に起用される。以降、クリーンアップの一角として定着し、シーズン中盤からは4番に座った。このシーズンは140試合にフル出場し、初の規定打席に到達し.308(リーグ3位)、97打点で初タイトルとなる打点王を獲得、リーグ2位の28本塁打、当時のパ・リーグ記録の80四球と数字を残し、初のベストナインに選出された。
 翌55(S30)年以降は打線の主軸として記録を重ねていく。55(S30)年は99打点で2年連続の打点王、
.325、26本塁打(いずれもリーグ2位)、ベストナイン。56(S31)年は無冠だったものの、.304、25本塁打、72打点。47二塁打は当時の日本記録(1998年まで記録だった)、76長打も当時のパ・リーグ記録だった。57(S32)年は打率.331で首位打者を獲得。29本塁打81打点を記録し、4年連続ベストナインにも選出された。
 ところが、大毎オリオンズとなった58(S33)年はトラブルに見舞われる。開幕から体調を崩し2割台前半と低調だったが4月下旬にパラチフスが発覚し離脱。長期療養を余儀なくされた。復帰したのは7月に入ってからだった。当初は試合途中の出場だったが、スタメンに復帰し徐々に状態を上げていく。最終的に.285まで引き上げたが76試合の出場に留まり、規定打席に届かなかった。
 翌59(S34)年は完全復調。阪神から田宮謙次郎が加わりミサイル打線が完成。その中心に山内が座る。8月下旬まで三冠でトップ争いを繰り広げたが、27日に顔面に死球を受けて離脱した。シーズン最終盤に復帰し、死球の恐怖もなく打席に立ち、最終的に25本塁打を放ち初の本塁打王を獲得したが、打率は.320で2厘差の2位、打点は74打点で21打点差の3位だった。欠場したのは約1ヶ月で25試合だった。後年「死球がなければ三冠王は取れていたと思う」と悔しさを口にしたシーズンとなった。
 そして、60(S35)年はミサイル打線が爆発。その中心で山内が引っ張る。32本塁打で本塁打王、103打点で打点王と2冠を獲得。打率は.313で首位打者の榎本喜八、2位の田宮に続き3位に入り、オリオンズ勢でベスト3を独占し、チーム10年ぶりのリーグ制覇を引っ張った。
 その後も61(S36)年には4度目の打点王を獲得するなど、毎年3割をマークする。しかし、5年ぶりに3割を割った(.283)63(S38)年オフ、球界に衝撃のニュースが走る。阪神の2枚エースの一人・小山正明とのトレードだった。貧打だった阪神と絶対的エースのいない大毎間で思惑が一致したトレードだった。日本球界始まって以来、投打の柱同志のトレードに世間では「世紀のトレード」と騒がれた。トレードを決めた当時のオーナー永田雅一は山内トレードの会見の場で山内を手放すことを号泣して詫び、山内は阪神に移籍した。翌年阪神は打線の核を得て優勝、オリオンズは小山を手本にその後の投手王国につながっていった。
 また、山内はオールスターで無類の強さを見せ活躍した。MVPを3度、最高殊勲選手を2度獲得し「オールスター男」と呼ばれたが、一部ではオールスター毎に賞金や賞品を獲得する山内に対して「賞金泥棒」とも呼ばれた。
 <1402試合、打率.310、4895打数1516安打、262本塁打、876打点、87盗塁>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆首位打者(1957年)
  ◆本塁打王/2度(1959年、60年)
  ◆打点王/4度(1954年、55年、60年、61年)
  ◆最多出塁数4度(1954年~57年)当時連盟表彰なし
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆最高殊勲選手(MVP)(1960年)
  ◆ベストナイン/9度(1954年~57年、59年~63年/すべて外野手)自身通算選出10度、54年は外野手部門での昭和生まれ初の受賞、10度受賞は外野手部門歴代2位タイ
 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆1試合9打点(1959年7月5日)パ・リーグ記録
  ◆最多6連続試合二塁打(1959年6月18日~25日)当時の日本記録
  ◆シーズン最多二塁打4度 歴代最多
  ◇100本塁打(1957年6月2日、史上16人目)
  ◇150本塁打(1959年8月16日、史上12人目)
  ◇1000安打(1960年7月16日、史上33人目)
  ◇1000試合出場(1961年4月23日、史上57人目)
  ◇200本塁打(1961年8月8日、史上8人目)
  ◇300二塁打(1963年6月27日、史上3人目)
  ◇250本塁打(1963年8月19日、史上2人目)
  ◇1500安打(1963年9月21日、史上12人目)

 ★《3代》1964(S39)年~1965(S40)年・2年 西山 和良(にしやま かずよし) 外野手(在籍3年)

  1933(S8)年8月25日生(移籍時35歳)、右投右打
  和歌山・和歌山商業高‐関西大学‐大阪(56~63)‐東京(64~66)

ここから先は

7,456字
この記事のみ ¥ 200〜

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?