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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(23)「21」投手と野手が混在の系譜は、監督の顔に】

割引あり

(写真 左から、21代・吉井理人監督が21を背負う、2代・毎日新聞社の出向社員として入団した末吉俊信、4代・引退後大映俳優として活躍した橋本力、9代・球団史上初盗塁王西田孝之、12代・抑え専業投手として先駆け倉持明、20代・17年間21を背負った内竜也)


(23)「21」投手と野手が混在の系譜は、監督の顔に

 背番号21の系譜は、投手と野手が混在する系譜だ。ただ、毎日、大毎時代は主軸選手が継いだ時期はなかった。東京時代に西田孝之が継ぎ、規定打席未達ながら唯一獲得者のいなかった盗塁王のタイトルを獲得した。
 その後は投手の系譜となり、抑えの先駆者と言われた倉持明、吉田篤史が継ぐ。フランコや平井光親ら野手が背負った時期もあったが、21を背負った選手で最長となる17年間内竜也が背負った。
 2023(R5)年からは監督の吉井理人が近鉄、メッツの現役時代に背負っていた背番号21を継いでいる。

----- 現在の背番号「21」 -----

 ★《21代》2023(R5)年~2024(R6)年・2年目 吉井 理人 一軍監督(監督在籍2年目)

 【吉井 理人 背番号変遷】選手・24(途中7ヶ月)、コーチ・71(3)、監督・21(2)
 2022年10月7日に吉井理人が一軍監督に就任することが発表され、背番号は近鉄、メッツ時代に着けていた21に決まった。
 現役時代は近鉄に11年、ヤクルトに3年所属し、渡米して5年間メジャーに所属。帰国後はオリックスに5シーズン所属し、2007(H19)年の6月にロッテに移籍して所属し、07年限りで現役を引退した。
 その後、日本ハムとソフトバンクでコーチを務め、19(R1)年から21(R3)の3年間、ロッテで投手コーチ、22(R4)年は球団本部でピッチングコーディネーターを務めつつ、日本代表の投手コーチを担当、WBC終了まで監督と兼務した。
 監督初年度は70勝68敗5分、勝率.507で勝ち越して3位入りCSに進出したが、第1Sで敗退した。

 監督成績(23(R5)年)
  <143試合、70勝68敗5分、勝率.507、3位1回>

----- オリオンズ&マリーンズ「21」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1951(S26)年・1年6ヶ月 長島 進(ながしま すすむ) 捕手(在籍2年)

 【長島 進 背番号変遷】21(1+途中)
 戦前に名古屋金鯱軍でプレーし、戦後は国民リーグから社会人・豊岡物産でプレーしていた長島進が球団創設時に入団し、初代背番号21を背負った。金鯱軍では正捕手として活躍しており、10年ぶりのプロ野球復帰だった。
 しかし、正捕手・土井垣武がいたために控えに回り、1950(S25)年は55試合に出場したが、主に代打としての登場となり、マスクを被ったのは9試合だった。
 翌51(S26)年は7試合に出場したところで、6月22日に巨人へ移籍した。
 <40試合、打率.223、61打数14安打、1本塁打、8打点、0盗塁>

 ★《2代》1952(S27)年~1954(S29)年・3年 末吉 俊信(すえよし としのぶ) 投手(在籍3年)

 【末吉 俊信 背番号変遷】21(3)
 1952(S27)年、早稲田大学エースだった末吉俊信が入団。背番号21を継いだ。毎日新聞社の出向社員扱いという珍しい条件での入団だった。
 1年目から開幕一軍ローテーション入り。開幕4戦目の3月25日の東急戦(後楽園)で初登板初先発。打線が序盤から大量援護して6回2失点で初勝利を挙げる。以降はリリーフとしてもマウンドに上がりながら先発もこなす。6月までに4勝5敗でルーキーながらオールスターに出場。最終的に25試合(11先発)に登板し6勝6敗、防御率は3.44でルーキーイヤーを終えた。
 しかし、2年目からは故障もあり、53(S28)年は11試合(8先発)で1勝4敗、防御率5.74。54(S29)年は11試合(5先発)で1勝2敗、防御率2.89に終わり、54年限りで引退した。
 投手<47試合、8勝12敗、防4.03、24先発、0完封、52奪三振>
 打撃<57試合、打率.267、60打数16安打、0本塁打、1打点、2盗塁>

 ★《3代》1956(S31)年・1年 中川 隆(なかがわ たかし) 投手(在籍9年)

 【中川 隆 背番号変遷】48(2) ⇒ 21(1) ⇒ 48(5) ⇒ 14(1)
 前年55(S30)年は20試合に先発、29試合にリリーフ登板し、最優秀防御率のタイトルを獲得した中川隆が、56(S31)年に背番号を48から21に変更した。
 このシーズンは前年ほどの勢いはなかったものの、16試合に先発し28試合にリリーフ登板。7勝7敗、防御率3.02だった。オフに背番号を21から48に再び戻した。
 投手<210試合、32勝25敗、防2.84、51先発、8完封、356奪三振>
 打撃<214試合、打率.124、177打数22安打、1本塁打、9打点、1盗塁>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆最優秀防御率(1955年)

 → 中川隆 背番号14へ

 ★《4代》1957(S32)年~1959(S34)年・3年 橋本 力(はしもと ちから) 外野手(在籍7年)

 【橋本 力 背番号変遷】48(1) ⇒ 1(3) ⇒ 21(3)
 4年目の前年56(S31)年に一軍に定着した橋本力が背番号を1から21に変更した。
 57(S32)年は6番センターで自身初の開幕スタメン出場するなど、119試合に出場し、打率.235、5本塁打18打点を記録した。しかし、翌58(S33)年は合併で大映から移籍した矢頭高雄に定位置を譲り、加えて自身の打撃も低調に終わり、75試合に出場、打率.159、1本塁打5打点に終わる。
 59(S34)年は大阪から田宮謙次郎が入団し、外野手争いはさらにし烈になる。加えて、橋本はケガもあり二軍で調整する。そんな時、親会社の大映がプロ野球大毎を舞台にした映画『一刀斎は背番号6』を製作し、橋本はアドバイザー兼選手役で出演する。その際、外野でのダイビングキャッチを演じた際に鎖骨を折ってしまい、このシーズンは一軍未出場に終わりオフに引退した。
 引退後は関係者から俳優に誘われ、大映所属の俳優となり、翌60(S35)年に「大映ニューフェイス」として正式に入社。『大魔神』で大魔神のスーツアクターを務める。大映倒産後は、勝新太郎の「勝プロダクション」に移籍し、香港映画『ドラゴン怒りの鉄拳』でブルース・リーの敵役として出演するなど活躍した。
 <299試合、541打数121安打.224、12本塁打、125打点、45盗塁>

 → 橋本力 背番号1へ

 ★《5代》1960(S35)年~1961(S36)年・2年 飯尾 為男(いいお ためお) 投手(在籍2年)

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