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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/「5」歴代最少11人、打撃職人の系譜】

割引あり

(写真 左から、11代・安田尚憲、初代・入団当時の西本幸雄、2代・大毎ミサイル打線の中核・葛城隆雄、5代・最強助っ人のレロンリー、8代・20年5を背負った堀幸一)


(5)「5」歴代最少10人、打撃職人の系譜

 背番号5は、球団創設時に西本幸雄が背負い、空番だったシーズンが1年だけで、創設年からの現在の安田尚憲まで、着用選手が11人という最少人の背番号になる。それだけ、一人一人の選手生命が長かった選手が多いという事になる。
 西本幸雄、葛城隆雄、前田益穂、リー、堀幸一と打撃職人と呼ばれた選手の系譜だ。安田尚憲にも先人の背中を追いかけて職人の域に達してもらいたい。

----- 現在の背番号「5」 -----

 ★《11代》2018(H30)年~24年は7年目 安田 尚憲(やすだ ひさのり) 内野手(在籍7年目)

  1999(HH11)年4月15日(入団時18歳)、右投左打
  大阪・履正社高‐千葉ロッテ(18~)

 【安田 尚憲 背番号変遷】5(7)
 2017(H29)年のドラフト1位で履正社高校から入団した安田尚憲が18(H30)年から背負っている。
 ルーキーイヤーの18(H30)年は二軍で7月に月間MVPを獲得する活躍を見せ、8月に自身初の一軍登録。10日のオリックス18回戦(京セラD)で初スタメン初出場。12日の20回戦では初安打が適時打となる。最終的に1年目に初安打初打点初本塁打を記録したが、17試合に出場して打率は.151だった。
 翌19(H31)年は育成方針で一軍登録はされなかった。それでも、二軍では19本塁打、82打点で最多本塁打、最多打点でファーム二冠を獲得した。
 3年目の20(R2)年は初の開幕一軍を果たし、前半は打率1割台に低迷したが、徐々に状態を上げ、7月には自身初となる4番にも抜擢された。しかし、最終的に113試合の出場を果たし規定打席に到達したが、打率.221(リーグ25位)、6本塁打54打点だった。それでも、ポストシーズンでは初本塁打、猛打賞など最年少記録を更新した。
 4年目の21(R3)年は初の開幕スタメンで4番に抜擢される。21歳11ヶ月での開幕4番は、1970(S45)年の有藤通世(23歳3か月)を上回り球団史上最年少記録となった。4月は好調だったものの、徐々に調子を落とし打率も下げていく。8月に復調したものの9月に再び調子を落としたが、最終的に.242、8本塁打、55打点と自己最多を記録した。
 22(R4)は新型コロナ感染もあり出遅れ、開幕は二軍スタートとなった。登録後は三塁に入るが打撃の状態が上がらない。シーズン終盤にようやく本来の打撃を見せた、最終的に打率263、9本塁打45打点と数字を上げて終わった。
 23(R5)年は6番三塁で2年ぶりに開幕スタメンを果たす。開幕から好調で6月までは打率2割台の後半をキープする。しかし、シーズン中盤から調子を落とし、最終的に3年ぶりに規定打席に到達したものの、打率は.238(リーグ19位)、9本塁打43打点に終わる。
 7年目は打線の核として活躍を期待したい。

 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<486試合、打率.238、1601打数381安打、33本塁打、206打点、5盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席<2018(H30)年8月10日・オリックス18回戦(京セラD)/7番DH/3打0安>
 ◇初安打、初打点<2018(H30)年8月12日・オリックス20回戦(京セラD)/7番DH/4打10安/初打点適時打>
 ◇初本塁打<2018(H30)年10月2日・ソフトバンク22回戦(ヤフオク!D)/6番三塁/東浜巨から>
 ◇オールスターゲーム出場/1回(23)

 ※イースタン記録・タイトル(本塁打王・打点王(19))

----- オリオンズ&マリーンズ「5」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1956(S31)年・6年 西本 幸雄(にしもと ゆきお) 内野手(在籍6年)

 【野球殿堂入り】◆野球殿堂競技者表彰(1988年)

  1920(T9)年4月25日(入団時29歳)、左投左打
  和歌山・旧制和歌山‐旧制立教大‐東洋金属‐八幡製鐵‐全京都‐星野組‐毎日(50~55)

 【西本 幸雄 背番号変遷】5(6)、コーチ/50(1) ⇒ 60(2) ⇒ 51(1)、監督/50(1)
 球団創設時に都市対抗野球で優勝経験もある社会人・星野組から入団した西本幸雄が5番を背負った。当時30歳で星野組のリーダー役だった西本は「選手全員の受け入れ」を毎日側に要請、最終的に西本や荒巻淳らを含む7人が毎日オリオンズに入団した。
 入団した1950(S25)年は、すでにベテランの域に達しており、打撃陣のコーチ、まとめ役となった。開幕から1ヶ月は選手の力を見極める方針に従いベンチに控え、初出場は開幕から27試合目の4月26日南海3回戦(後楽園)だった。その後は一塁に入り、最終的に76試合に出場し打率.254、1本塁打18打点。選手のまとめ役として初代日本一に貢献した。
 51(S26)年も一塁を守る。8月16日の西鉄戦では試合の最後に二塁を守る選手(右投げの三宅宅三がいたが一塁専門だった)がいなくなり、西本自ら監督に進言して、左投げの西本が二塁を守る珍事が起きる(プロ野球史上西本含めて3人だけ)。このシーズンは67試合に出場して打率.213、2本塁打17打点だった。
 52(S27)年は主将となったが、自身初めて1番一塁で開幕スタメンに起用される。このシーズンは内野陣にケガ人が発生したこともあり、西本が一塁に入る機会が増える。最終的に106試合に出場、打率.246、0本塁打23打点だった。
 53(S28)年は開幕当初はベンチに控えることが多かったが、シーズンに入ると、ここ一番での代打として登場する。打撃の状態も良く2割台後半を維持。シーズン後半はスタメン出場の機会も多くなり、最終的に94試合に出場し、打率は自身初めて.301と3割を記録する。
 54(S29)年からはコーチを兼任となる。しかし、このシーズンは選手としての出番が増え、自己最多となる107試合に出場、本塁打も最多となる3本塁打を放つ。しかし、打率は.216と自己最低を記録する。
 55(S30)年は選手からの信頼も厚く、コーチ役の負担が多くなる。出場は41試合、打率.167に終わり、このシーズン限りで引退。翌年から背番号を50に変更してコーチ専任、60(S35)年には40歳で監督となり、1年目でリーグ優勝を果たしたが退団した。

 ◆打撃成績<491試合、打率.244、1133打数276安打、6本塁打、99打点、44盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年4月26日・南海3回戦/H(後楽園)/7番一塁/4打2安>
 ◇初打点<1950(S25)年5月7日・南海7回戦/H(福島信夫ヶ丘)/適時打/5打1安>
 ◇初本塁打<1950(S25)年8月21日・近鉄14回戦/H(後楽園)/7番一塁/ 沢藤光郎から>


 ★《2代》1956(S31)年~1963(S38)年・8年 葛城 隆雄(かつらぎ たかお) 内野手・外野手(在籍9年)

  1936(S11)年12月21日生(入団時18歳)、右投右打
  大分・大分上野丘高‐毎日(55~63)‐中日(64~69)‐阪神(70)

 【葛城 隆雄 背番号変遷】31(1) ⇒ 5(8)
 → 葛城隆雄 背番号 31
 前年1955(S30)年に大分上野丘高校から入団し、背番号31を着け、34試合に出場して打撃センスの良さを見せていた2年目の葛城隆雄が背番号を5に変更した。
 背番号を変更した2年目の56(S31)年は6番遊撃で初の開幕スタメン。以降、遊撃のレギュラーの座をキープ。121試合に出場して打率.250で規定打席に到達(リーグ22位)する。しかし、失策数は51を数えリーグトップを記録し、守備への課題を見せた。
 57(S32)年は三塁に回るも、打撃は開幕から低調。4月は2割を切るスタートとなった。しかし、5月に入ると本来の状態を取り戻す、以降5番打者として定位置を確立。最終的に打率.267(リーグ16位)、16本塁打91打点と数字を残した。失策数は38と減らしたもののリーグトップだった。
 58(S33)年は再び遊撃に戻り、激しい三冠争いに加わる。山内一弘がケガで離脱し4番にも座る。最終的に85打点で自身初タイトルとなる打点王を獲得。西鉄・中西太の三冠王を阻んだ。その他に最多安打も獲得し、打率も.305、20本塁打(ともにリーグ3位)でベストナインに選出される。ただ、三塁でも失策数は42を記録。3年連続リーグトップの失策王となる。
 59(S34)年からは三塁に固定される。開幕から山内と三冠王を争い、葛城も3割を超える打率をキープし、本塁打は山内を上回るペースで走る。優位に立っていた山内和弘が死球で離脱。この間には葛城が4番を務める。山内が復帰すると、シーズン最後まで三冠王を争い、最終的に95打点で2年連続の打点王に輝いた。しかし、本塁打は山内に1本及ばず24本でリーグ2位だった。打率は自己最高の.310でリーグ3位に入った。
 60(S35)年、チームは6月には首位に立ち好調に走る。前半は.293ながら一発が減り4本塁打で終わる。ところが、オールスターの間にケガで離脱。約2週間で復帰も調子を落とす。最終的に121試合の出場に留まり、打率.295(リーグ6位)、5本塁打43打点で無冠の終わる。それでも、チーム10年ぶりの優勝に勝負強さで貢献した。
 61(S36)年は前半は2割台前半で苦しんだものの、中盤から調子を取り戻し136試合に出場し、打率.267(リーグ17位)、16本塁打85打点だった。62(S37)年はは宇野光雄監督の意向で外野に回る。打撃は2番に入り開幕から好調な状態を見せ、5月に入るとで1番に入る。前半は3割3分台で終えると後半は三塁に回る。最終的に打率.333と3年ぶりに3割に乗せリーグ3位、9本塁打62打点だった。
 63(S38)年は右翼で開幕スタメン。しかし、打撃の状態が上がらず、開幕直後に三塁に回ると打撃の状態も上がる。しかし、徐々に調子を崩していく。夏場に持ち直したものの、前年のような好調さは影を潜め、最終的に打率.249(リーグ23位)、11本塁打55打点で終えた。
 山内、榎本喜八、田宮謙次郎とミサイル打線の中軸として活躍していたものの、56年から58年まで毎年リーグ最多の失策を記録する守備力の不安定さに加え、淡白なバッティングも目立つようになり、「守備力のある若手内野手」獲得という球団方針から、63(S38)年オフに中日の前田益穂とのトレードで中日に移籍した。

 ◆打撃成績<1072試合、打率.283、3954打数1118安打、116本塁打、585打点、86盗塁>
 ◇初出場<1955(S30)年5月11日・大映5回戦/H(後楽園)/途中三塁>
 ◇初打席<1955(S30)年5月12日・大映6回戦/H(後楽園)/途中三塁/1打0安>
 ◇初安打<1955(S30)年5月17日・東映6回戦/R(駒沢)/代打/1打1安>
 ◇初スタメン<1955(S30)年5月25日・大映8回戦/H(駒沢)/9番三塁/3打1安>
 ◇初本塁打、初打点<1955(S30)年6月16日・トンボ8回戦/H(後楽園)/途中遊撃/相沢進から>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆打点王/2度(1958年、59年)
  ◆最多安打/2度(1958年、59年)当時連盟表彰なし
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆ベストナイン/2度 (1958年、59年)
 ※在籍時に達成した主な記録記録
  ◇1000本安打(1962年9月18日・南海23回戦(東京)スタンカから、史上43人目)
  ◇1000試合出場(1963年6月23日第1・阪急9回戦(西宮)、史上81人目)
  ◆サイクル安打(1957年8月27日、史上15人目)史上最年少達成


 ★《3代》1964(S39)年~1975(S50)年・12年 前田 益穂(まえだ ますほ) 内野手(在籍12年)

  1939(S14)年5月24日生(移籍時24歳)、右投右打
  熊本・熊本工業高‐中日(58~63)‐東京(64~75)

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