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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(39)「37」投手、野手、助っ人、26代の系譜】

割引あり

(写真 左から、25代・ヒジの故障から復活かける小野郁、7代・不運な事故で選手生命断たれた菅原紀元、14代・37番の出世頭梅沢義勝、17代・ドラ1復活期すもならなかった関清和、24代・野手として37の結果を残した三木亮)


(39)「37」投手、野手、助っ人、25代の系譜

 背番号37の系譜を振り返る時、悲しい選手がいたことを思い出す。7代の菅原紀元は4年目に奮起して一軍に定着し、4年目に期待された。しかし、練習中に打球が頭部を直撃して手術を受けた。必死のリハビリから二軍で復活マウンドに上がったが、脳障害にも苦しみ、一軍のマウンドに戻ることなく引退した。17代の吉岡知毅は二軍で7年間研鑽し、8年目に一軍定着したがヒジ痛で引退を余儀なくされた。その他にもケガで苦しみ、引退した投手が多い系譜である。
 もちろん、梅沢義勝のように37で躍動した投手もいた。だからこそ、25代の小野郁にはヒジの故障を乗り越え、長く投げ続けて欲しい。

----- 現在の背番号「37」 -----

 ★《25代》2020(R3)年~2024(R6)年・5年目 小野 郁(おの ふみや) 投手(在籍5年目)

  1996(H8)年10月23日、右投右打
  西日本短期大附属高‐楽天(15~19)‐千葉ロッテ(20~)

 【小野 郁 背番号変遷】37(5)
 2019(R1)年オフ、FA移籍した鈴木大地の人的補償として指名され移籍した小野郁が、背番号37を引き継いだ。
 移籍1年目の20(R2)年は新型コロナ禍で開幕が6月となったが、自身初となる開幕ベンチ入りを果たす。開幕戦で6番手として移籍後初マウンドに上がる。24日のオリックス2回戦(ZOZOマリン)では2番手として登板し自身初ホールド、26日のオリックス4回戦(ZOZOマリン)では2番手として登板し、打線が逆転に成功して自身初勝利をマーク。10月にコロナ感染で離脱したものの、40試合に登板し、2勝2敗4ホールド、防御率3.23と安定したピッチングを見せた。
 21(R3)年はセットアッパーとして期待されたが、開幕から制球に苦しみ開幕早々に抹消。以降、再登録され、ビハインドの場面が多かったが、自己最多となる49試合に登板し、0勝3敗8ホールド、防御率は3.46だった。
 22(R3)年もルーキーイヤーから3年連続開幕一軍入り。当初はビハインドの登板が多かったが、好調なピッチングを見せ、ホールドの場面での登板が増える。東條大樹の代役としてオールスターゲームにも初出場し、第1戦3者連続三振第2戦では勝利投手となった。その後、新型コロナ陽性判定で一時離脱。状態もなかなか戻らずシーズンを終えた。最終的に44試合の登板に留まり0勝0敗18ホールド、防御率1.99だった。
 23(R4)年も開幕を一軍で迎えたが状態が上がらず5月初旬に抹消。右ヒジのクリーニング手術を受け、このシーズンは10試合の登板に終わった。

 (23年シーズン終了時)
 ◆在籍時投手成績<143試合、2勝6敗、防3.06、0S、34H、0先発、0完封、127奪三振>
 ◇ロッテ初登板<2020(R2)年6月19日開幕戦・ソフトバンク1回戦(paypayD)6番手>
 ◇初ホールド<2020(R2)年6月24日・オリックス2回戦(ZOZOマリン)2番手>
 ◇初勝利<2020(R2)年6月26日・オリックス4回戦(ZOZOマリン)2番手>

----- オリオンズ&マリーンズ「37」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年途中・入団月不明 相沢 進 投手(在籍4年)

  1930(S5)年6月9日生、右投右打
  ミクロネシアパラオ島・南洋中-神奈川・湘南中学(現湘南高校)-毎日(50~53)-高橋(54~56)

 【相沢 進 背番号変遷】37(途中) ⇒ 4(2) ⇒ 37(途中)
 神奈川・湘南中学校(現湘南高校)を卒業し、晴海の倉庫会社で軟式野球全国大会で2度準優勝を果たした相沢進が球団創設年の1950(S25)年シーズン途中に入団し、初代背番号37を背負った。
 しかし、1年目の50(S25)年は一軍未登板に終わり、オフには背番号を4に変更した。
 → 相沢進 背番号4

 ◆在籍時投手成績<3試合、5.1回、0勝0敗、防10.13、0先発、0完封、2奪三振>
 ◆在籍時打撃成績<3試合、打率.000、1打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇初登板<1953(S28)年7月25日・南海11回戦(後楽園)4番手>


※1951(S26) 空番


 ★《2代》1952(S27)年・1年 浅井 守(あさい まもる) 投手(在籍3年)

  1924(T13)年7月4日生(入団時25歳)、左投左打
  岐阜・旧制武義中−旧制大日本武徳会武道専門学校(京都武専)−栗本製薬−東洋産業−毎日(50〜52)

 【浅井 守 背番号変遷】10(2) ⇒ 37(1)
 1952(S27)年、3年目を迎えた浅井守が背番号を10から37に変更した。2年間、ケガもあり5試合の登板に留まっていた。
 しかし、3年目の52(S27)年も一軍未登板に終わり、このシーズン限りで引退した。

 ◆投手成績<5試合、1勝0敗、防2.89、4先発、0完封、6奪三振>
 ◇初登板<1950(S25)年3月21日・東急1回戦/H(横浜保土ヶ谷)/2番手/2回2失>
 ◇初先発<1951(S26)年8月19日・西鉄12回戦/H(武蔵野)/先発/4.1回3失勝敗なし>
 ◇初勝利<1951(S26)年9月6日・西鉄15回戦/H(後楽園)/先発/8回3失>
 ◆打撃成績<5試合、打率.000、8打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>


 ★《3代》1953(S28)年・8ヶ月 相沢 進(あいざわ すすむ)(在籍4年)

 ※相沢進のプロフィール、個人成績は上段参照

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