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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(15)「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ】

(写真 左から、17代・平河大河、初代・準エースとしてチーム支えた野村武史、6代・日本一メンバー飯塚佳寛、12代・13となりリリーフとして復活した吉田篤史)


(15)「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ

 投手のイメージが強い10番台の中で、投手はもちろん打者も背負い結果を出した選手が多い、不思議なイメージのある背番号が13だ。
 初代は毎日時代の準エース野村武史から始まった。野手として13を印象付けたのは飯塚佳寛だった。たまたまトレードでロッテに復帰したが、投手がトレード相手だったため、そのまま引き継いで13のイメージを定着させた。
 マリーンズとなってからは6人の投手が継いでいたが、平沢大河が初めて野手として継いだ。平沢には新しい13の歴史を作って欲しい。

----- 現在の背番号「13」 -----

 ★《17代》2016(H28)年~2024(R6)年・9年目 平沢 大河(ひらさわ たいが) 内野手(在籍9年目)

  1997(H9)年12月24日生(入団時18歳)、右投左打
  宮城・仙台育英学園高−千葉ロッテ(16〜)

 【平沢 大河 背番号変遷】13(9)
 2015(H27)年のドラフト1位で仙台育英高校から入団した平沢大河が、背番号13を引き継いだ。
 ルーキーイヤーから一軍出場を果たす。開幕は二軍で迎えたものの、二軍で好成績を残し5月に一軍登録され、初出場、初安打を記録する。しかし23試合、打率は.149に終わる。2年目の17(H29)年は開幕一軍入り。その後、一軍と二軍を往復し初本塁打を記録したものの、最終的に50試合、打率.176で一軍定着はならなかった。
 遊撃のレギュラー定着を狙った3年目の18(H30)年は前年に続いて開幕一軍を果たしたものの
遊撃には藤岡裕大が定着する。平沢は代打、代走、守備固めの役割を担っていたが、外野陣にケガ人が発生し手薄になり、平沢が外野に回る。スタメン出場も果たすなど、最終的に112試合に出場したが、守備では一塁11、三塁22、遊撃11、外野87試合と器用さを見せたが、打率は.213と伸びなかった。それでも5本塁打32打点とレギュラーへの足がかりをつかんだシーズンとなった。19(R1)年は3年連続開幕一軍入りを果たしたが4月下旬に抹消される。その後ヒジに違和感を覚えるなど一軍と二軍を往復する。7月下旬に再登録されると8月には7打席連続出塁を記録するなどスタメンに定着する。最終的に51試合に出場し、打率.198、1本塁打、8打点だった。
 しかし、翌20(R2)年からはケガとの闘いとなる。前年から抱えていた右ヒジ痛の影響で出遅れるなどシーズン通して影響し10月には右ヒジにメスを入れた。翌21(R3)年は二軍で復帰したものの状態が上がらず、2シーズン一軍出場なしに終わった。
 ケガも癒えた22(R3)年は、3年ぶりに開幕を一軍で迎えスタメン出場を果たしお立ち台に上がる。しかし、以降は打撃の状態が上がらず二軍で調整。13試合の出場に留まる(打率は.143)。ただ、二軍ではイースタンの首位打者と最高出塁率のタイトルを獲得した。23(R5)年は
開幕は二軍で迎えるも4月に登録される。その後も一軍と二軍を往復。最終的に外野手として57試合に出場し、打率.170、3本塁打8打点に終わった。

 ◆打撃成績<306試合、打率.190、710打数135安打、10本塁打、57打点、13盗塁>
 ◇初出場<2016(H28)年5月11日・ソフトバンク7回戦/R(ヤフオク!D)/途中遊撃打席なし>
 ◇初打席<2016(H28)年5月12日・ソフトバンク8回戦(ヤフオク!D)/代打遊撃/1打0安>
 ◇初スタメン<2016(H28)年5月14日・9回戦(QVCマリン)/9番遊撃/2打0安>
 ◇初安打<2016(H28)年8月17日・楽天20回戦/R(koboパーク)/9番遊撃/4打1安>
 ◇初打点<2016(H28)年8月20日・西武18回戦/R(プリンスD)/8番遊撃/2打1安/適時二塁打>
 ◇初本塁打<2017(H29)年9月16日・楽天19回戦/R(Koboパーク)/途中遊撃/小野郁から>

----- オリオンズ&マリーンズ「13」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年・4年 野村 武史(のむら たけし) 投手(在籍5年)

※1954(S29)年~1955(S30)年 空番

 ★《2代》1956(S31)年・1年 野村 武史

 【野村 武史 背番号変遷】13(4)、13(1)
 球団創設時に社会人・大洋漁業から入団した野村武史が初代背番号13を着けた。1946(S21)年に1シーズンだけセネタースに在籍しており、31歳で4年ぶりのプロ復帰となった。当時登録名は清だったが、武史で登録した。
 球団2戦目近鉄戦(藤井寺)の先発マウンドに上がり、9回2失点完投でプロ初勝利をマークする。以降、ローテーションを守りながら7試合にリリーフ登板。最終的に27試合に先発し、防御率3.34(リーグ9位)、18勝と荒巻に防御率と最多勝は譲ったものの、18勝4敗で勝率.818でパ・リーグ初代の最高勝率を獲得した。日本シリーズでは3試合に登板して3勝を挙げ、初代日本一に貢献した。
 翌51(S26)年は初めて開催されたオールスターの第2戦で先発する。シーズンでは前年同様の起用で登板。防御率は2.51(リーグ8位)で2点台だったものの13勝12敗だった。52(S27)年は自己最多となる39試合に登板し、16勝9敗と3年連続二桁勝利を記録する。しかし、53(S28)年は30試合に登板したものの3勝9敗と勝ち星に見放された。オフには新球団の高橋に移籍した。
 高橋(トンボ)で2年間在籍した後、56(S31)年に2年ぶりに復帰。背番号は13が空番だったために再び13を着けた。しかし、37歳で全盛期には及ばず、1勝2敗、防御率3.60。オフに引退した。
 投手<155試合、51勝36敗、防2.99、97先発、5完封、242奪三振>
 打撃<156試合、打率.242、277打数67安打、0本塁打、19打点、1盗塁>

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆最高勝率(1950年)

※1957(S32)年~1960(S35)年 空番

 ★《3代》1961(S36)年・1年 米川 清二(よねかわ せいじ) 投手(在籍1年)

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