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《無料公開》【背番号の系譜(53)】「51」東京球場で舞った51、航輝が育てる

(写真 左から、22代・主軸として期待が大きい山口航輝、9代・東京球場で優勝を決めトロフィー掲げる濃人渉、上)最長11年背負った松田光保、下)8年背負った於保浩己、19代・8年在籍もケガに泣いた植松優友)


J《有料・冒頭試読》【背番号の系譜(53)】「51」東京球場で舞った51、航輝が顔に

 背番号51は、現在背負っている山口航輝が、球団史上、選手として初めて顔にしている背番号だ。
 毎日・大毎時代はコーチの背番号。別当薫、西本幸雄と殿堂入りした監督がコーチ、二軍監督として背負った背番号だった。ロッテとなって初めて背負ったのは濃人渉監督。東京球場で背番号51が舞った。
 以降、選手が背負ってからは短命の選手が続いていたが、22代となった山口が自らの顔として一軍に定着。チームの顔として育てて欲しい。

----- 現在の背番号「51」 -----

 ★《22代》2019(R1)年〜2024(R6)年・6年目 山口 航基(やまぐち こうき) 投手(在籍6年目)

  2000(H12)年8月18日生(入団時18歳)、右投右打
  大阪・明桜高−千葉ロッテ(19〜)

 【山口 航基 背番号変遷】51(6)
 2018(H30)年のドラフト4位で大阪・明桜高校から入団した山口航輝が、背番号51を引き継いだ。
 1年目の19(R1)年、2年目の20(R2)年と一軍出場はなかったものの、二軍で着実に実績を積んだ。19(R1)年は100試合を超える試合に出場し、フルシーズンのコンディションを経験。2年目は前年秋の骨折の影響をあり出遅れたものの、後半は4番に座り、チームトップの7本塁打を記録、イースタンの優秀選手に選出された。
 そして、3年目の21(R3)年は開幕一軍入りを果たし、5番DHで開幕スタメンで初出場を飾り初安打も記録。4月9日の西武1回戦(ZOZOマリン)では初本塁打を放つ。その後、一軍に定着し78試合に出場、打率は.207と今ひとつだったが、9本塁打20打点を記録した。
 22(R4)年も開幕一軍入り。しかし、打撃の状態が上がらずベンチスタートの試合が多くなる。後半に入ると打撃の状態を上げ、9月22日のオリックス24回戦(京セラD)では3本塁打、1二塁打を放ち、球団史上落合博満、レオン、井上晴哉に並ぶ1試合14塁打を記録する。最終的に102試合に出場し、打率.237、16本塁打57打点を記録した。
 23(R5)年はオープン戦で好調さを見せていたが、自打球を当て状態を落として開幕を迎える。開幕スタメンを果たしたものの、一発が出たのは80打席目だった。しかし、直後に左大腿二頭筋損傷で4月末に離脱する。1ヶ月後に復帰すると、ようやく山口らしさを見せる。自身初の満塁本塁打も記録。最終的に初めて規定打席に到達し、115試合に出場、打率.235、14本塁打57打点の数字を残した。

 (23年シーズン終了時)
 ◆打撃成績<295試合、945打数217安打.230、39本塁打、134打点、1盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<2021(R3)年3月26日開幕戦・ソフトバンク1回戦/R(PaypayD)/5番DH/
 ◇初本塁打、初打点<2021(R3)年4月9日・西武1回戦(ZOZOマリン)/高橋光成から
 ◇イースタン タイトル記録<優秀選手(19)>

 ※在籍時に記録した主な記録
  ◆CS最年少本塁打(2021(R3)年11月7日、FS第2戦)リーグ史上最年少 

----- オリオンズ&マリーンズ「51」の系譜 -----

※1950(S25)~1951(S26)年 空番


 ★《初代》1952(S27)年〜1953(S28)年・2年 滝 良彦(たき よしひこ) 投手(在籍4年)

  1929(S4)年6月30日生(入団時22歳)、右投右打
  愛知・名古屋商業学校−名古屋外国語専門学校(現南山大)−愛知トヨタ自動車−毎日(52〜53)−高橋(54〜56)−大映(57)−大毎(58〜59)

 【滝 良彦 背番号変遷】51(2) 、16(2)
 1952(S27)年に社会人・愛知トヨタ自動車から入団した滝良彦が、初代背番号51を背負った。
 1年目の52(S27)年は若手軍で登板し、9月23日の第2試合に2番手として初登板。しかし、一死を取ったが3安打を許して失点して降板。1年目はこの1試合の登板に終わる。
 翌53(S28)年も9月に登録。3試合に登板したが、防御率4.50と結果を残せず、オフには新球団の高橋に移籍した。
 高橋で主戦投手として活躍。高橋は大映と合併し大映所属に、58(S33)年にはその大映が毎日と合併し大毎に復帰。背番号16を引き継いだ。
 → 滝良彦 背番号 16 へ(試読エリア)

 ◆在籍時投手成績<25試合、0勝1敗、防5.57、3先発、0完封、18奪三振>
 ◇初登板<1952(S27)年9月23日第2・大映21回戦/R(後楽園)/2番手/0.1回1失>
 ◆在籍時打撃成績<27試合、打率.000、7打数0安打、0本塁打、0打点、0盗塁>


1954(S29)年 空番


 ★《2代》1955(S30)年・退団日不明 大村 好(おおむら ) 内野手(在籍1年)

  1936(S11)年11月21日生(入団時18歳)、右投右打
  愛知・名古屋西高−毎日(55)

 【大村 好 背番号変遷】51(途中)
 1955(S30)年に愛知・名古屋西高校から入団した大村好が、背番号51を引き継いだが、シーズン途中に退団した。退団日、退団理由は不明。

 <一軍未出場>


 ★《3代》1955(S30)年・1年 白川 一(しらかわ はじめ) 外野手(在籍3年/コーチ在籍3年)

  1922(T11)年5月25日生(入団時31歳、再入団時32歳)、右投右打
  鹿児島・鹿児島商業学校−星野組−毎日(50〜53)、コーチ在籍(55途中〜58)

 【白川 一 背番号変遷】28(3)、コーチ/51(1) ⇒ 62(2)
 球団創設時に入団し、1953(S28)年限りで引退し退団していた白川一が1955(S30)年のシーズン途中にイースタン・リーグが創設された二軍コーチとして復帰。空番となった背番号51を引き継いだ。
 イースタン・リーグ初年度は優勝したものの、1年限りで休止となる。チームは二軍をそのまま残し、白川も二軍コーチとして残留。オフには背番号を51から62に変更した。

 ◆現役時打撃成績 <114試合、打率.271、129打数35安打、0本塁打、10打点、16盗塁>
 ◇初出場<1950(S25)年10月1日・大映19回戦/R(後楽園)/代走/打席なし>
 ◇初打席<1950(S25)年10月29日・東急19回戦/R(後楽園)/途中左翼/1打0安>
 ◇初スタメン<1950(S25)年11月3日・南海20回戦/R(大阪)/2番右翼/1打0安>
 ◇初安打<1951(S26)年4月6日・大映1回戦/R(後楽園)/1番左翼/4打1安>
 ◇初打点<1951(S26)年4月8日・大映2回戦/R(後楽園)/1番左翼/適時二塁打/4打2安>


 ★《4代》1956(S31)年・1年 黒田 幸夫(くろだ ゆきお) 捕手(在籍2年)

  1937(S12)年4月13日生(入団時18歳)、右投右打
  島根・平田高−毎日(56)

 【黒田 幸夫 背番号変遷】51(1) ⇒ 58(1)
 1956(S31)年に島根・平田高校から入団した黒田幸夫が、背番号51を引き継いだ。
 1年目から一軍に合流する。二軍での打撃が評価され7月に初のベンチ入り。代打として3試合の打席に立ち初安打も記録する。しかし、3試合のみで二軍落ち。残りのシーズンは二軍で過ごす。オフには背番号を51から58に変更し、内野手に転向した。

 ◆打撃成績<3試合、3打数1安打.333、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇初出場、初打席<1956(S31)年7月18日・東映13回戦/R(駒沢)/代打/1打0安>
 ◇初安打<1956(S31)年7月22日・南海15回戦/R(大阪)/代打/1打1安>


 ★《5代》1957(S32)年〜1958(S33)年・2年 苅田 久徳(たかりた よしひこ) コーチ(在籍1年/コーチ2年)

 【野球殿堂入り】1969(S44)年 競技者表彰

  1910(M43)年1月19日生(コーチ就任時47歳)、右投右打
  神奈川・旧制本牧中−旧制法政大−東京倶楽部−セネタース(36〜40)−大洋軍(41〜42)−大和軍(42〜43)−川崎いすゞ−東急(47〜48)−毎日(50途中)−近鉄(50途中〜52)
  毎日コーチ(57〜58)

 【苅田 久徳 背番号変遷】51(2)、コーチ(2)
 球団創設時に入団し、シーズン中に近鉄に移籍。その近鉄で兼任コーチを務めていた苅田久徳が、1957(S32)年にコーチとして復帰し、背番号51を引き継いだ。
 別当薫監督の元、2シーズンヘッドコーチを務め、58(S33)年限りで退団した。
 → 苅田久徳 背番号 30 へ(試読エリア)

 ◆選手在籍時成績<20試合、打率.262、42打数11安打、0本塁打、3打点、1盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年4月15日・東急5回戦/R(後楽園)/8番遊撃/4打1安/初打点適時打>


 ★《6代》1951(S26)年・1年 西本 幸雄(にしもと ゆきお) 二軍監督(在籍6年/コーチ4年/監督1年)

 【野球殿堂入り】◆野球殿堂競技者表彰(1988年)

  1920(T9)年4月25日(入団時29歳)、左投左打
  和歌山・旧制和歌山‐旧制立教大‐東洋金属‐八幡製鐵‐全京都‐星野組‐毎日(50~55)
  毎日/大毎監督コーチ(56〜60)、他球団監督/阪急(62〜73)−近鉄(74〜81)

 【西本 幸雄 背番号変遷】5(6) 、コーチ/50(1) ⇒ 60(2) ⇒ 51(1)、監督/50(1) 
 → 西本幸雄 背番号 5
 1956(S31)年(背番号50)、57(S32)年、58(S33)年(背番号60)と3年間二軍監督を務めていた西本幸雄が、59(S34)年に一軍ヘッドコーチに就任。背番号を51に変更した。
 別当薫監督の下、このシーズンは2位に終わり、オフに別当監督は退任。後任に西本が就任。別当の背番号50を引き継いだ。
 → 西本幸雄 背番号 50 へ(有料エリア)

 ◆打撃成績<491試合、打率.244、1133打数276安打、6本塁打、99打点、44盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1950(S25)年4月26日・南海3回戦/H(後楽園)/7番一塁/4打2安>
 ◇初打点<1950(S25)年5月7日・南海7回戦/H(福島信夫ヶ丘)/適時打/5打1安>
 ◇初本塁打<1950(S25)年8月21日・近鉄14回戦/H(後楽園)/7番一塁/ 沢藤光郎から>


1960(S35)年 空番


 ★《7代》1961(S36)年・1年 別当 薫(べっとう かおる) 監督(在籍8年/監督兼任4年、専任2年/コーチ1年)

 【野球殿堂入り】野球殿堂競技者表彰(1988年)

  1920(T9)年8月23日生(移籍時29歳)、右投右打
  兵庫・旧制甲陽中−旧制慶応義塾大−全大阪−大阪(48〜49)−毎日(50〜57)
  毎日/大毎監督コーチ(54〜59、61)、他球団監督/近鉄(62〜64)、大洋(68〜72)、広島(73)、大洋(77〜79)

 【別当 薫 背番号変遷】25(7) ⇒ 50(1)、監督、コーチ50(3)、51(1)
 → 別当薫 背番号 25 へ(無料エリア)
 → 別当薫 背番号 50 へ(有料エリア)
 球団創設から主力としてチームを引っ張り、54(S29)年から監督としてチームを引っ張った別当薫。60(S35)年に監督の座を西本監督に譲り退任したが、西本が1年で退任したため、宇野光雄新監督の就任に伴い、61(S36)年にヘッドコーチとして復帰した。しかし、前年優勝をつなげることが出来ずに4位に終わり、1年限りで退団した。
 翌62(S37)年は近鉄の監督に就任した。

 ◆在籍監督成績(兼任/1954(S29)年〜57(S32)年、専任/58(S33)年〜59(S34)年
  ※1952(S27)年の代行は除く
   834試合467勝341敗26分  勝率.578
  2位/1回、3位/3回、4位/2回

 ◆在籍時打撃成績<665試合、打率.294、2271打数667安打、103本塁打、366打点、157盗塁>
 ◇毎日初出場、毎日初スタメン、毎日初打席、毎日初安打<1950(S25)年3月11日球団創設第1戦・西鉄1回戦/H(西宮)/3番中堅/5打2安>
 ◇毎日初本塁打、毎日初打点<1950(S25)3月15日・南海1回戦/H(大須)/3番中堅/中谷信夫から/4打1安>
 ◆在籍時投手成績<1試合、0勝0敗、防0.00、0先発、0完封、1奪三振>
 ◇在籍時オールスター出場/5回(51、52、53、54、55)

 ※在籍時に獲得したタイトル
  ◆本塁打王(1950年)
  ◆打点王(1950年)
  ◆最多安打(1950年)当時連盟表彰なし
 ※在籍時に選出された表彰
  ◆最高殊勲選手(MVP)(1950年)
  ◆ベストナイン/4度(1950年~53年/全て外野手)自身通算6度受賞
  ◆日本シリーズ最高殊勲選手賞(MVP)(1950年)
 ※在籍時に達成した主な記録
  ◆1イニング3盗塁(1951年7月26日・近鉄11回戦(後楽園) 日本タイ、球団タイ記録)
  ◆3年連続最多長打(1950~52年) パ・リーグ最長タイ記録
  ◇100本塁打(1951年5月15日・南海7回戦(大須)、史上7人目)


 ★《8代》1962(S37)年・1年 山田 潔(やまだ きよし) コーチ(在籍コーチ5年)

  イーグルス(38~42)‐巨人(46)‐国民野球・大塚(47)‐金星・大映(48~57)
  大毎コーチ(58~62)

 【山田 潔 背番号変遷】63(2) ⇒ 1(2) ⇒ 51(1)
 背番号1を着けていた山田潔コーチが、1962(S37)年に1から51に変更して引き継いだ。このシーズン限りで退団した。


1963(S38)年 空番


 ★《9代》1964(S39)年〜1971(S46)年・8年 濃人 渉(のうにん わたる) コーチ⇒二軍監督⇒コーチ⇒一軍監督⇒二軍監督(在籍コーチ3年、監督5年)

 ※1961〜63年まで濃人貴実、ロッテ入団時64年濃人渉に戻す

  1915(T5)年3月22日生(コーチ就任時49歳)、右投右打
  広島・旧制広陵中−広島専売局−名古屋金鯱軍(36〜37、39〜40)−大洋軍(41〜43)−広島鯉城園−国民リーグ・グリーンバーグ(46〜47)−金星(48)
 他球団監督/中日(61〜62)、東京/ロッテコーチ監督(64〜71)

 【濃人 渉 背番号変遷】コーチ、二軍監督、一軍監督 51(8)
 中日で2シーズン指揮を取った濃人渉が、1964(S39)年にヘッドコーチとして入団し、背番号51を引き継いだ。
 前年本堂安次が監督に就任したが5位に終わり、濃人がヘッドとして招かれた。64(S39)年は一時首位争いに顔を出したものの4位に終わる。翌65(S40)年は南海が独走。チームは5割ラインを突破出来ず低迷。6月10日に本堂監督が休養し、濃人が監督代行として残りの指揮を取ったが5位に終わる。
 66(S41)年は田丸仁が監督に就任し、濃人は二軍監督に回る。この時に若手を徹底的に鍛え、2年後の抜擢につながる。一軍は4位に終わり、田丸監督は1年で退団した。
 67(S42)年は戸倉勝城が監督に就任し、再びヘッドコーチに就く。しかし、チームは開幕から低迷し最下位に沈む。6月19日に戸倉監督が休養し、再び濃人が監督代行として指揮を取る。チームが持ち直したこともあり、戸倉監督が8月1日に復帰するも6連敗を喫して5位に沈み、戸倉監督が15日に解任。濃人が正式に監督となり、残り試合の指揮を取ったが5位に終わった。
 68(S43)年は濃人が監督となってシーズンイン。投手陣は小山正明に加え成田文男が台頭。打線はアルトマンとロペスの両外国人に池辺巌、二軍監督時代に鍛えた山崎裕之が頭角を現す。チームは開幕直後は低迷したものの6月に5割に戻すと、7月からは優勝争いに加わる。最後に力尽きたものの、8年ぶりのAクラスとなる3位に入った。
 69(S44)年から永田雅一オーナーは変わらないものの、チーム名がロッテオリオンズとなる。投手では木樽正明が一本立ちし小山、成田と3本柱を形成。ドラフト1位で有藤通世が入団。優勝候補に挙がる。開幕ダッシュに成功したものの、6月には借金生活に。それでも5割前後で推移し、9月は猛反撃を見せた。3位に終わったものの翌年に期待を抱かせた。
 70(S45)年は5球団がダンゴ状態に。しかし、6月に4連勝と8連勝で飛び出すと、7月には4連勝と7連勝で独走態勢を固め、そのままゴール。東京球場で背番号51が舞った。日本シリーズは巨人に1勝4敗で屈し、20年ぶりの日本一はならなかった。
 71(S46)年は開幕前に永田オーナーが本業に専念するためにオーナー職を辞し、ロッテ製菓が実質オーナーとなり、中村長芳がオーナーに就任する。シーズンは5月にロッテと阪急の一騎討ちの様相に。ところが、5ゲーム差で迎えた7月13日からの首位決戦3連戦の初戦で江藤慎一のハーフスイングを巡って放棄試合を断行する。中村オーナーも現場におり、決断を下したのは中村オーナーだったが、その後、放棄試合に対する批判が起き、賠償も多額に達したこと。加えて親会社のロッテ製菓のイメージダウンにもつながりかねないと、濃人が全ての責任を取る形で7月23日に一軍監督を更迭され、ニ軍の大沢啓二監督と入れ替わる。残りのシーズンは二軍監督として終え、オフには退団した。

 ◆在籍監督成績(1967(S42)年8月15日〜71(S46)年7月23日)
  ※1965(S40)年6/10〜、67(S42)年6/19〜7/31の代行は除く
  473試合261勝191敗21分  勝率.577
  優勝/1回、2位/1回(途中まで)、3位/2回、5位/1回(途中から)


 ★《10代》1972(S47)年〜1982(S57)年・11年 松田 光保(まつだ みつやす) 投手(在籍11年)

  1953(S28)年9月2日(入団時18歳)、右投右打
  神奈川・藤沢商業高−ロッテ(72〜81)

 【松田 光保 背番号変遷】51(11)
 1972(S47)年のドラフト5位で神奈川・藤沢商業高校から入団した松田光保が、背番号51を引き継いだ。
 1年目の72(S47)年は一軍未登板に終わったが、2年目の73(S48)年はシーズン終盤に一軍登録される。初登板は2回無失点と好投したものの、2試合目は2回6失点と安定感を欠く。それでも、10月13日の近鉄後期13回戦(宮城)で初先発に抜擢。しかし、打者3人に対して2四球を与えて降板。2年目は4試合の登板に終わる。
 一軍定着が期待された74(S49)年だったが、一軍登板は1試合1回、75(S50)年は一軍未登板に終わる。
 76(S51)年は2年ぶりに前期の消化試合期間の7月に登録される。1試合は好投したものの1試合で失点し、後期の開幕は一軍に残ることが出来ず、このシーズンは2試合の登板に留まった。翌年以降は一軍登板なく二軍のマウンドに上がったが、徐々に一軍の打撃投手としての役割が増える。しばらくは二軍で登板しながら、一軍に打撃投手として合流する。78(S53)年には投手登録のまま、打撃投手が主となる。一軍未登板のまま、82(S57)年限りで引退。オフには打撃投手としての契約となり、背番号を72に変更した。

 ◆投手成績<7試合、0勝1敗0S−H、防9.75、1先発、0完封、2奪三振>
 ◇初登板<1973(S48)年9月28日・阪急後期8回戦/R(西宮)/3番手/2回0失>
 ◇初先発<1973(S48)年10月13日・近鉄後期13回戦/H(宮城)/先発/0.1回2失>


 ★《11代》1983(S58)年・1年 吉田 邦彦(よしだ くにひこ) 投手(在籍1年)

  1965(S40)年3月14日生(入団時18歳)、右投右打
  (出身・千葉)神奈川・神奈川工業高−ロッテ(83)

 【吉田 邦彦 背番号変遷】51(1)
 1982(S57)年のドラフト外で神奈川工業高校から入団した吉田邦彦が、背番号51を引き継いだ。中学3年時に入団テストに合格したが進学を選択し、高校卒業時に改めて契約した。
 しかし、一軍未登板のまま1年で引退。84(S59)年からは打撃投手に転身した。

 <一軍未出場>


1984(S59)年〜1985(S60)年 空番


 ★《12代》1986(S61)年〜1991(H3)年・6年 古賀 道人(こが みちと) 内野手(在籍6年)

  1967(S42)年8月7日(入団時18歳)右投右打
  (出身・福岡)東京・関東第一高−ロッテ(86〜91)

 【古賀 道人 背番号変遷】51(6)
 1985(S60)年のドラフト5位で関東第一高校から入団した古賀道人が、背番号51を引き継いだ。
 堅実な守備の評価は高かったがケガもあり、6シーズン在籍したものの一軍出場なく、91(H3)年限りで引退した。

 <一軍未出場>


 ★《13代》1992(H4)年〜1995(H7)年・4年 花島 寛己(はなしま ひろみ) 投手(在籍4年)

  1973(S48)年6月16日生(入団時18歳)、右投右打
  千葉・習志野高−千葉ロッテ(92)

 【花島 寛己 背番号変遷】51(4)
 千葉移転元年。1991(H3)年のドラフト4位で地元千葉の強豪校・習志野高校から入団した花島寛己が、背番号51を引き継いだ。
 大型右腕に将来性を期待されたが、ケガもあり、4シーズン在籍したが、一軍未登板に終わり、95(H7)年限りで引退した。

 <一軍未出場>


 ★《14代》1996(H8)年・1年 猪久保 吾一(いのくぼ ごいち) 捕手(在籍8年)

  1967(S42)年12月26日生(入団時23歳)、右投右打
  岩手・盛岡商業高−本田技研鈴鹿−ロッテ/千葉ロッテ(89〜96)

 【猪久保 吾一 背番号変遷】68(7) ⇒ 51(1)
 8年目を迎えた猪久保吾一が、1996(H8)年に背番号を68から51に変更して引き継いだ。
 前年は9試合の出場に留まっていたが、背番号を変更したこのシーズンは一軍出場なく終わり、オフには引退した。

 ◆打撃成績<118試合、119打数24安打.、1本塁打、5打点、1盗塁>
 ◇初出場<1990(H2)年4月10日・日本ハム1回戦/R(東京D)/途中捕手/打席なし>
 ◇初スタメン、初安打<1990(H2)年4月26日・ダイエー3回戦/H(川崎)/8番捕手
 ◇初打席<1990(H2)年4月15日・近鉄1回戦/H(川崎)/途中捕手/1打0安>
 ◇初本塁打、初打点<1990(H2)年5月11日・日本ハム4回戦/H(川崎)/途中捕手/島田直也から>


 ★《15代》1997(H9)年・1年 仁村 徹(にむら とおる) 内野手(在籍2年)

  1961(S36)年12月26日生(移籍時34歳)、右投右打
  埼玉・上尾高‐東洋大‐中日(84~95)‐千葉ロッテ(96~97)

 【仁村 徹 背番号変遷】1(1) ⇒ 51(1)
 前年に中日から移籍し背番号1を背負った仁村徹が、1997(H9)年に背番号を51に変更して引き継いだ。
 移籍2年目の97(H9)年は開幕から代打要員としてベンチ入り。DHとしてスタメンにも起用される。一時、状態を落として二軍落ちしたものの、シーズン最後まで一軍ベンチに入り、最終的に72試合に出場し、打率.269、1本塁打19打点の数字を残した。球団は現役続行を申し出たが、指導者としての道を選び引退した。

 ◆打撃成績<177試合、427打数109安打.255、5本塁打、43打点、1盗塁>
 ◇ロッテ初出場、初スタメン、初安打、初打点<1996(H8)年3月30日開幕戦・ダイエー1回戦/H(千葉マリン)/5番一塁/4打2安>
 ◇ロッテ初本塁打<1996(H8)年6月28日・日本ハム15回戦/R(東京D)/6番一塁/今関勝から>


 ★《16代》1998(H10)年〜2005(H17)年・8年 於保 浩己(おほ ひろみ) 投手(在籍8年)

  1975(S50)年8月9日生(入団時22歳)、左投左打
  佐賀・佐賀商業高−九州共立大−千葉ロッテ(98〜05)

 【於保 浩己 背番号変遷】51(8)
 1997(H9)年のドラフト5位で九州共立大学から入団した於保浩己が、背番号51を引き継いだ。
 1年目の98(H10)年は一軍未出場に終わるも、翌99(H11)年は二軍で盗塁王のタイトルを獲得。シーズン最終盤の10月に一軍登録され、7日の近鉄27回戦(藤井寺)に初スタメンで初出場を果たす。この試合で初安打も記録。最終的に3試合に出場し2年目を終えた。しかし、翌00(H12)年は再び一軍未出場に終わる。
 01(H13)年は5月に一軍に合流する。代打と代走として出場するも5打席で無安打に終わり抹消され6試合の出場に終わる。02(H14)年は16試合に出場し初打点も記録。しかし、03(H15)年は5試合、04(H16)年は6試合の出場に留まる。05(H17)年は一軍未出場に終わり、このシーズン限りで引退した。 

 ◆打撃成績<36試合、37打数8安打.216、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇初出場、初スタメン、初打席、初安打<1999(H11)年10月7日・近鉄27回戦/R(藤井寺)/2番右翼
 ◇初打点<2002(H14)年10月10日・近鉄26回戦/H(千葉マリン)/適時二塁打
 ◇イースタンタイトル記録<99/盗塁王、優秀選手>


 ★《17代》2006(H18)年・1年 山北 茂利(やまきた しげとし) 投手(在籍年)

  1978(S53)年1月6日生(移籍時28歳)、左投左打
  岐阜・中京商業高−トヨタ自動車−中日(00〜04)−千葉ロッテ(05〜06途中)−横浜(06途中〜09)

 【山北 茂利 背番号変遷】15(1) ⇒ 51(途中)
 前年中日からトレードで移籍し、背番号15を背負っていた山北茂利が、2006(H18)年に背番号を51に変更して引き継いだ。
 移籍2年目の06(H18)年は開幕直後の4月に登録され1試合のマウンドに上がり抹消される。直後の4月27日に龍太郎+南竜介とのトレードが決まり、横浜に移籍した。
 
 ◆在籍時投手成績<8試合、0勝0敗、防6.52、0S、0H、0先発、0完封、9奪三振>
 ◇ロッテ初登板<2005(H17)年3月28日・オリックス1回戦/R(大阪D)/4番手完了/1.1回1失>


 ★《18代》2006(H18)年途中〜2007(H19)年・1年9ヶ月 龍太郎(りゅうたろう 土居 龍太郎(どい りゅうたろう)) 投手(在籍2年)

 【龍太郎 背番号変遷】51(途中+1)
 2006(H18)年4月27日に山北とのトレードで横浜から移籍した龍太郎が、背番号51を引き継いだ。
 しかし、マリーンズでは一軍登板なく、07(H19)年限りで自由契約となり、トライアウトに参加したものの獲得球団なく引退した。

 <在籍時一軍未出場>


 ★《19代》2008(H20)年〜2015(H27)年・8年 植松 優友(うえまつ まさとも) 投手(在籍8年)

  1989(H1)年11月27日生(入団時18歳)、左投左打
  大阪・金光大阪高−千葉ロッテ(08〜15)

 【植松 優友 背番号変遷】51(8) ⇒ BP105(1)
 2007(H19)年の高校生ドラフト3巡目で大阪・金光大阪高校から入団した植松優友が、背番号51を引き継いだ。
 二軍での登板が続く。3年目の10(H22)年には二軍でローテーションに入る。5年目の12(H24)年はファームの日本選手権で先発し、優秀選手に選ばれる。翌13(H25)年は一軍キャンプに合流。しかし、故障に見舞われシーズン終盤には両股関節の手術を受けた。
 8年目の15(H27)年6月に初めて一軍登録され、4日の阪神3回戦(甲子園)に初登板を初先発で果たすと、6回を1失点と好投する。しかし、2度目の先発で2回6失点と試合が作れず降板。そのまま抹消され、再登録はされなかった。オフには自由契約となり、現役を引退。翌16(H28)年は打撃投手となった。

 ◆投手成績<2試合、0勝2敗0S0H、防7.88、2先発、0完封、8奪三振>
 ◇初登板、初先発<2015(H27)年6月4日・阪神3回戦/R(甲子園)/先発/6回1失●>


 ★《20代》2016(H28)年〜2017(H29)年・2年 信樂 晃史(しがらき あきふみ) 投手(在籍2年)

  1991(H3)年12月16日生(24歳)、右投右打
  宮崎・日南学園高−福岡大−宮崎梅田学園−千葉ロッテ(16〜17)

 【信樂 晃史 背番号変遷】51(2) 
 2015(H28)年のドラフト6位で社会人・宮崎梅田学園から入団した信樂晃史が、背番号51を引き継いだ。
 185センチの大型右腕として期待されたが、2年目の17(H29)年に二軍での登板を増やしたもの腰痛を発症。一軍マウンドに上がることなく、オフには戦力外となった。トライアウトに参加したものの、獲得球団なく引退した。

 <一軍未出場>


 ★《21代》2018(H30)年・1年 エドガー オルモス 投手(在籍1年)

  1990(H2)年4月12日(入団時27歳)、左投左打
  米・バーミンガム高−米・マイナー(08〜12、14、16〜17)−マイアミ・マーリンズ(13)−シアトル・マリナーズ(15)−千葉ロッテ(18)

 【オルモス 背番号変遷】51(1)
 2018(H30)年に入団した外国人投手オルモスが、背番号51を引き継いだ。初めて51を助っ人が背負った。
 5月に一軍登録され、6日の日本ハム8回戦(札幌D)に初先発で初登板を果たす。しかし、1イニングで3盗塁を許し2度のけん制悪送球とテクニック不足を突かれて黒星を喫する。その後も黒星を喫し登録抹消。以降、一軍マウンドに上がることはなくオフには自由契約となった。

 ◆投手成績<2試合、0勝2敗0S0H、防7.71、2先発、0完封、5奪三振>
 ◇初登板、初先発<2018(H30)年5月6日・日本ハム8回戦(札幌D)/先発/5回4失(自責2)●>


 ★《22代》2019(R1)年〜2024(R6)年・6年目 山口 航基(やまぐち こうき) 投手(在籍6年目)


※背番号年数は、着用年数のみ。年数1年未満の場合は月数で表示しています。
※在籍年数は現役としての年数。シーズン途中移籍や入団も1年として算出。
※監督歴は他球団の監督歴も表記、コーチ歴はオリオンズ&マリーンズのみ表記。
※通算成績は背番号時に関係なく在籍時の通算成績です。
※記録内の◆はタイトル、表彰、主な記録。◇は節目の記録。
※初出場等の記録のHホーム、Rロードの略。
※タイトル、表彰、記録は在籍時に表彰を受けたものを対象としています。
※イースタン表彰のFA(JA)はフレッシュ(ジュニア)オールスタの略


(次回)⇒《有料・冒頭試読》【背番号の系譜(54)】「52」大沢親分から立川、塀内、そしてマウンドで躍動する52へ


--- オリオンズ&マリーンズ 背番号の系譜 INDEX ---

(1)《全文無料》「1」巧打好守の好選手の歴史
(2)《有料・冒頭試読》「2」3人の高卒新人開幕スタメン
(3)《有料・冒頭試読》「3」天才打者が歴史を作り、巧打者が続く系譜
(4)《有料・冒頭試読》「4」職人肌野手と助っ人の系譜
(5)《有料・冒頭試読》「5」歴代最少11人、打撃職人の系譜
(6)《有料・冒頭試読》「6」落合が生んだ打線主軸の系譜
(7)《有料・冒頭試読》「7」助っ人強打者と俊足強打の系譜
(8)《有料・冒頭試読》「8」看板打者の系譜
(9)《全文無料》「9」紡いだ歴史を大きく育てた福浦和也
(10)《全文無料》「0」新しい系譜は快足とリリーフエースの系譜に
(11)《全文無料》「00」最も新しい系譜は助っ人、俊足の系譜
(12)《有料・冒頭試読》「10」投手と野手混在の系譜、3000本安打張本勲も背負う
(13)《有料・冒頭試読》「11」左腕の系譜もマリーンズではリリーフの系譜へ
(14)《有料・冒頭試読》「12」球団初戦先発投手から続く投手 時々 打者の系譜
(15)《有料・冒頭試読》「13」準エースの系譜から主力野手の系譜へ
(16)《有料・冒頭試読》「14」球団創設から続く主力投手の系譜
(17)《有料・冒頭試読》「15」フル回転投手から野手の歴史も荘勝男、美馬学が投手伝統を引き継ぐ
(18)《有料・冒頭試読》「16」トレード移籍投手の系譜】
(19)《有料・冒頭試読》「17」佐々木朗希につながるエースの系譜
(20)《有料・冒頭試読》「18」植村義信で生まれたエースの称号
(21)《有料・冒頭試読》「19」投手系譜の背番号も名捕手から始まった
(22)《有料・冒頭試読》「20」野手の系譜から、杉下、堀本、木樽とタイトル投手の系譜へ
(23)《有料・冒頭試読》「21」投手と野手が混在の系譜は、監督の顔に
(24)《有料・冒頭試読》「22」捕手の系譜から助っ人の新しい歴史へ
(25)《有料・冒頭試読》「23」主軸野手が紡いだ背番号23
(26)《有料・冒頭試読》「24」息の長い野手の系譜から投手の系譜へ
(27)《有料・冒頭試読》「25」正統・打撃職人の系譜
(28)《有料・冒頭試読》「26」TEAM26、マリーンズファンの背番号を振り返る
(29)《有料・冒頭試読》「27」主力打者から主力投手、そして捕手エースナンバーへ
(30)《有料・冒頭試読》「28」助っ人、野手から投手の系譜へ
(31)《有料・冒頭試読》「29」サンデー兆治が育て、サンデー晋吾が継いだエースの称号
(32)《有料・冒頭試読》「30」監督・コーチ・野手の背番号から投手の背番号へ
(33)《有料・冒頭試読》「31」野手の出世番号から投手の背番号へ
(34)《有料・冒頭試読》「32」主力選手から職人野手の背番号、そして捕手の新しい歴史へ
(35)《有料・冒頭試読》「33」2人の殿堂入り胴上げ監督の背番号
(36)《有料・冒頭試読》「34」400勝投手監督から投手の背番号に
(37)《有料・冒頭試読》「35」初代監督から、外野手の出世番号へ
(38)《有料・冒頭試読》「36」36からの飛躍した三井、サブロー
(39)《有料・冒頭試読》「37」投手、野手、助っ人、25代の系譜
(40)《有料・冒頭試読》「38」強心臓投手と大砲候補の系譜
(41)《有料・冒頭試読》「39」投手・野手から捕手の系譜へ
(42)《有料・冒頭試読》「40」多士済々のメンバーが連なる系譜
(43)《有料・冒頭試読》「41」期待の星から主軸へ、チーム支えた成長の系譜
(44)《有料・冒頭試読》「42」多彩な系譜オリオンズ~マリーンズは助っ人の系譜
(45)《有料・冒頭試読》「43」土肥から捕手の系譜~ウォーレン、ミンチー助っ投の系譜
(46)《有料・冒頭試読》「44」顔に育てた山本功児、井上晴哉の背番号44
(47)《有料・冒頭試読》「45」得津、横田、堀、田村と並ぶ、出世番号の系譜
(48)《有料・冒頭試読》「46」成田文男から続く、主軸投手の系譜
(49)《有料・冒頭試読》「47」打者のチームから投手のチームへ変貌させた300勝投手の背番号47
(50)《有料・冒頭試読》「48」リリーフ左腕、代打、好守、チームを下支えした系譜
(51)《有料・冒頭試読》「49」職人選手の出世番号
(52)《有料・冒頭試読》「50」2人の殿堂入り監督が背負った背番号50
(53)《有料・冒頭試読》「51」東京球場で舞った51、航輝が育てる

※参考文献、参考WEBは『プロローグ』から

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