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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(48)「46」成田文男から続く、主軸投手の系譜】

割引あり

(写真 左から、 21代・投手の系譜を継ぐ岩下大輝、7代・球団初ノーノー下町のエース成田文男、9代・左の中継ぎ先発とフル回転した安木祥ニ、12代・ルーキーから抑えとして活躍した河本育之、17代・中継ぎとして投手陣支えた山﨑健)


(48)「46」成田文男から続く、主軸投手の系譜

 東京球場時代を知るファンにとって、「下町のエース」と言われた成田文男のイメージが強く残っているのが背番号46だ。球団史上初のノーヒットノーランも達成した絶対的エースだった。以降、倉持明、安木祥ニ、マリーンズとなってからは河本育之、山﨑健と貴重なリリーフが継いできた背番号となった。そして今、その系譜は岩下大輝に確かに引き継がれている。

----- 現在の背番号「46」 -----

 ★《21代》2015(H27)年〜2024(R6)・10年目 岩下 大輝(いわした だいき 投手(在籍10年目)

  1996年10月2日生(入団時18歳)、右投右打
  石川・星稜高−千葉ロッテ(15〜)

 【岩下 大輝 背番号変遷】46(1)
 2014年のドラフト3位で入団した岩下大輝が、背番号46を引き継いだ。
 1年目の15(H27)年は二軍でデビューを果たしたものの、一軍未登板に終わる。オフには右ヒジの手術を受け、2年目の16(H28)年はリハビリのシーズンとなり、二軍も未登板に終わる。17(H29)年は二軍マウンドに復帰するも腰痛に悩まされ、オフには椎間板ヘルニアの手術を受ける。
 4年目の18(H30)年が飛躍のシーズンとなる。二軍で好投を見せ、7月に一軍初登録。24日のソフトバンク戦で延長12回にブルペンの投手がいなくなり、岩下に初登板のチャンスが巡って来る。セーブが記録される場面だったが、野手の失策があり失点。しかし、度胸あるマウンドを見せて以降は中継ぎとしてベンチに入り、初ホールドを記録する。ここで小林雅英コーチの助言から先発に転向。二軍で調整後、再登録後された10月5日の楽天戦で初先発し、6回無失点と好投して初勝利をマークする。最終的に18試合(2先発)に登板し、1勝3敗6ホールド、防御率4.56という数字を記録。二軍ではイースタン・リーグ優秀選手賞を受賞した。
 19(R1)年も開幕は一軍を外れたものの、開幕直後に登録され、ローテーションに加わる。4月17日のソフトバンク戦では6回無失点でシーズン初勝利を挙げるなど結果を出しローテーションに定着する。8月にはベースカバーに入った際に捻挫して離脱するも、9月には復帰してリリーフとしてマウンドに上がる。最終的に21試合(17先発)に登板、5勝3敗1ホールド、防御率3.64だった。20(R2)年も開幕は一軍を外れたものの、西野勇士が離脱してローテーション入り。このシーズンはローテーションを守る。シーズン終盤に新型コロナ感染で離脱し、復帰後に1試合リリーフ登板したが、17試合(16先発)に登板し、7勝7敗、防御率4.20だった。
 21(R3)年は開幕ローテーション入り。開幕から好投を見せ、前半に自己最多となる8勝をマークする。しかし、後半は安定感を欠き、打ち込まれる試合が目立ち、9月には登録を抹消される。復帰後はローテーション定着もならず、リリーフでも結果を残せず、最終的に23試合(21先発)に登板し、8勝止まり(8敗1ホールド)、防御率4.43に終わった。
 22(R4)年はオープン戦で右ヒジに違和感を覚え離脱。3月28日に右肘クリーニング手術を受ける。8月7日に二軍マウンドに復帰。一軍には8月25日の西武戦にリリーフで復帰を果たす。最終的に14試合に登板し、1勝0敗3ホールド、防御率0.55だった。
 23(R5)年は4月下旬に一軍登録。このシーズンはリリーフでマウンドに上がる。マウンドではまずまずの結果を残したものの、7月に登録を抹消。8月に再登録されるも再び9月に抹消される。春先から体調に異変があり、国指定の難病である『胸椎黄色靭帯骨化症』と診断を受ける。このシーズンは体調が不安定な中、27試合(1先発)に登板し、1勝0敗3ホールド、防御率2.93だった。10月には手術を受けた。

 ◇初登板<2018(H30)年7月24日・ソフトバンク11回戦/R(京セラD)/9番手完了/1回1失(0自)>
 ◇初ホールド:<2018(H30)年8月1日・日本ハム17回戦/R(帯広)/4番手/3.1回0失>
 ◇初先発、初勝利<2018(H30)年10月5日・楽天23回戦(楽天生命)/6回0失>
 ◇イースタン記録表彰<優秀選手賞(18)>

----- オリオンズ&マリーンズ「44」の系譜 -----

※1950(S25)~1951(S26)年 空番


 ★《初代》1952(S27)年・1年 海部 和夫(かいべ かずお)内野手(在籍1年)

  1930(S5)年7月27日(入団時22歳)、右投右打
  早稲田実業高-毎日(52)

 【海部 和夫 背番号変遷】46(1)
 1952(S27)年に東京•早稲田実業高校を卒業し、アマチュアで野球を続けていた海部和夫が入団し、球団創設以来2年間空番だった背番号46を背負った。
 若手軍強化のために入団した20名の一人だったが、一軍では出場機会なく1年限りで退団した。

 <一軍未出場>


 ★《2代》1953(S28)年・1年 大野 芳一(おおの よしかず) 投手(在籍5年)

  1938(S13)年2月10日生(入団時15歳)、右投右打
  京都•西京高‐毎日(53)

 【大野 芳一 背番号変遷】46(1)
 1953(S28)年に15歳で入団した大野芳一が、背番号46を引き継いだ。
 将来性に期待されたが、力の差は大きく、一軍未出場のまま1年限りで退団した。
 退団後、1955(S30)年に東映に入団した。

 <一軍未出場>


 ★《3代》1954(S29)年~1955(S30)年・2年 藤川 哲朗 (ふじかわ てつろう)投手(在籍2年)

※1954年は哲郎、1955年は哲朗

  1933(S8)年12月9日(入団時21歳)、右投右打
  愛媛•新居浜西高–住友化学-毎日(54〜55)

 【藤川 哲朗 背番号変遷】46(2)
 1954(S29)年に社会人・住友化学から入団した藤川哲朗が、背番号46を引き継いだ。
 1年目はシーズン最終盤に一軍初登板を果たす。10月29日の高橋19回戦(川崎)に発先発。しかし、打者5人に2安打3四球と一死も取れずに降板する。翌55(S30)年は一軍登板なく終わり、オフには引退した。

 ◆投手成績<1試合、0勝1敗、防ー、1先発、0完封、0奪三振>
 ◇投手初登板<1954(S29)年10月29日・高橋19回戦/H(川崎)/先発/0.0回5失●>


※1956(S31)年 空番


 ★《4代》1957(S32)年・1年 佐藤 寛ニ(さとう かんじ)  外野手(在籍1年)

  生年月日不明(入団時18歳)、右投右打
  宮城・東北高-毎日(57)

 【佐藤 寛ニ 背番号変遷】46(1)
 1957(S32)年に宮城・東北高校から入団した佐藤寛ニが、背番号46を引き継いだ。
 大型ではないものの、俊敏生と巧打の将来性を期待されての入団だったが、一軍未出場に終わり1シーズン限りで引退した。

 <一軍未出場>


 ★《5代》1958(S33)年・1年 野口 猛(のぐち たけし) 投手(在籍1年)

  1939(S14)年9月28日生(移籍時18歳)、左投左打
  東京•松陰高–大毎(58)

 【野口 猛 背番号変遷】46(1)
 1958(S33)に東京・松陰高校から入団した野口猛が、背番号46を引き継いだ。
 高卒ル=キーながら、変化球を駆使する技巧派左腕として期待されたが、一軍未登板に終わり、1年限りで退団した。

 <一軍未出場>


※1959(S34)年〜1962(S37)年 空番
 この間に入団決定時に背番号46と発表されながら、開幕時に他背番号へ変更した選手がいたが、当該選手は開幕時の背番号に列挙し、46は空番とした。


 ★《6代》1963(S38)年~1964(S39)年・2年 中野 正彦(なかの まさひこ) 外野手(在籍2年)

  1944(S19)年9月19日生(入団時18歳)、右投右打
  静岡・静岡商業高‐大毎(63~64)

 【中野 正彦 背番号変遷】46(2)
 1963(S38)年に静岡・静岡商業高校から入団した中野正彦が、背番号46を引き継いだ。
 強打の外野手として期待されての入団だったが、2シーズン所属したが、一軍未出場に終わり、64年限りで退団した。

 <一軍未出場>


 ★《7代》1965(S40)年~1971(S46)年・7年 成田 文男(なリた ふみお) 投手(在籍15年)

  1946(S21)年10月2日生(入団時18歳)、右投右打
  東京・修徳高‐東京(65~79)‐日本ハム(80~82)

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