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《有料・冒頭試読》【オリオンズ&マリーンズ・背番号の系譜/(43)「41」期待の星から主軸へ、チーム支えた成長の系譜】

割引あり

(写真 左から、21代・今季から背番号41を背負っているダイクストラ、初代・在籍9年170試合に登板した山根俊英、4代・在籍5年ながら171試合に登板した三平晴樹、17代・背番号41の価値を挙げた小林宏之)


(43)「41」期待の星から主軸へ、チーム支えた成長の系譜

 背番号41の系譜を辿ると、将来性が期待された多くの投手が引き継がれている。初代は創設年の日本一の主軸山根俊英。4年目に背番号を14に変更して170試合に登板した。以降も期待の新人投手が継いでいく。投手陣を支える投手に成長したのが大毎時代の4代・三平晴樹だ。三平も171試合に登板した。
 その後は長らく羽ばたいた投手は出なかったが、背番号41で一番の出世頭が小林宏之(小林宏)だ。チームを支え、2度の日本一に主戦投手として背番号41を背負ってマウンドに上がった。今シーズンは期待の助っ投。21代としてvが背負う。

----- 現在の背番号「41」 -----

 ★《21代》2024(R6)年~・1年目 ジェームス ダイクストラ 投手(在籍1年目)

  1990(H2)年11月22日生(入団時33歳)、右投左打
  米・ランチョ・バーナード高‐ルイジアナ州立大‐米・マイナー(13~23)-千葉ロッテ(24~)

 【ダイクストラ 背番号変遷】41(1)
 193センチの長身から剛速球を投げ下ろす助っ人右腕・ダイクストラが入団し、背番号41を引き継いだ。
 マイナーでは通算135試合に登板、防御率4.43を記録している。昨シーズンは米独立リーグ・サザンメリーランド・ブルークラブスでプレーしていた。

 ◇初登板<2024(R6)年4月4日・ソフトバンク3回戦/R(PayPayD)/2番手/2回1失>
 ◇初先発<2024(R6)年5月1日・オリックス5回戦/R(神戸)/4回2失1自>

----- オリオンズ&マリーンズ「41」の系譜 -----

 ★《初代》1950(S25)年~1953(S28)年・4年 山根 俊英 投手(やまね としひで)(在籍9年)

  1928(S3)年3月1日生(入団時22歳)、右投右打
  旧制鳥取・鳥取第一‐旧制鳥取農林専門学校‐鐘淵化学‐毎日(50~58)

 【山根 俊英 背番号変遷】41(4) ⇒ 14(5)
 球団創設時に社会人・鐘淵化学から入団した山根俊英が初代背番号41を背負った。アンダースローながら速い速球と変化球が武器だった。
 1年目は一軍登板なく終わったが、2年目の51(S26)年は一軍がハワイ遠征のために留守軍が戦ったが、留守軍の主軸として開幕一軍入り。開幕2戦目で2番手として初登板を果たした。ハワイから帰国した主力が合流後もそのまま一軍に残り、当初は敗戦処理的な役割だっが、徐々にリリーフとして重要な場面も任され、8試合にも先発した。最終的に4勝4敗、防御率は3.64だったが、リーグトップの4暴投を記録し、コントロールに課題を残した。
 3年目の52(S27)年はさらに登板数を増やす。荒巻淳、榎原好の調子が上がらない中、19試合に先発し、リリーフでは23試合とフル稼働。オールスターにも出場を果たす。最終的に自身初となる二桁12勝6敗、規定投球回に到達し、防御率は3.14(リーグ8位)と好投した。ただ、7暴投で2年連続1位を記録した。
 ところが、翌53(S28)年は調子を落とす。22試合に登板し防御率は3.44だったものの1勝6敗に終わり、オフには背番号を41から14に変更した。
 → 山根俊英 背番号 14 へ(有料エリア)

 ◆投手成績<170試合、30勝30敗、防2.92、70先発、2完封、220奪三振>
 ◆打撃成績<202試合、打率.188、208打数39安打、0本塁打、19打点、3盗塁>
 ◇初登板<1951(S26)年4月6日・大映1回戦/R(後楽園)/2番手/1回0失>
 ◇初先発、初完投<1951(S26)年4月21日・西鉄3回戦/R(平和台)/8回3失●>
 ◇初勝利<1951(S26)年7月27日・大映11回戦/R(後楽園)/先発/6.1回2失>
 ◇初完封<1951(S26)年8月26日・東急16回戦/R(後楽園/先発/6回0失 6回裏終了降雨コールド>
 ◇オールスター出場/1回(52)


 ★《2代》1954(S29)年~1955(S30)年・2年 小田 喜美雄(おだ きみお) 投手⇒外野手(在籍4年)

 ※1954(S29)年は資料により71で登録されているものもあるが、試合には41で出場しているため、54年は41とした。

  1932(S7)年1月13日生(入団時20歳)、右投右打
  (出身・熊本)長崎・天草農業高‐毎日(52~55)

 【小田喜美雄 背番号変遷】71(2) ⇒ 41(2)
 打者に転向した3年目の54(S29)年に小田喜美雄が、背番号を71から41に変更し41を引き継いだ。
 その54(S29)年は4月に初の一軍出場。11日の阪急2回戦(後楽園)に途中から外野の守備に入り、回った打席で初安打を記録する。しかし、以降3試合に出場したものの二軍落ち。4試合の出場に終わる。翌55(S30)年は一軍未出場に終わり、55年限りで引退した。

 ◆投手成績<一軍未登板>
 ◆打撃打撃<4試合、打率.333、3打数1安打、0本塁打、0打点、0盗塁>
 ◇初出場、初打席、初安打<1954(S29)年4月11日・阪急2回戦/H(後楽園)/途中右翼/2打1安>


 ★《3代》1956(S31)年~1957(S32)年・2年 服部 武夫(はっとり たけお) 投手(在籍2年)

  1932(S7)年11月28日生(移籍時23歳)、右投右打
  三重・四日市高‐南海(50~53)‐高橋(54~55)‐毎日(56~57)‐広島(58)

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