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Saori Ogataテキストまとめ

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民話、雑記、歌詞など。
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#郷土資料

替馬壇の地に行ってみた【プチ・フィールドワーク①】

替馬壇の地に行ってみた【プチ・フィールドワーク①】

かえまだん、俗称ではキャマダと読む。

平安時代後期の東北地方で、源頼義・義家親子が、東北の豪族、安倍頼時・貞任(さだとう)・宗任(むねとう)親子を鎮圧する戦がありました。(前九年の役)

源義家(通称・八幡太郎義家)が安倍貞任を追って見分森の近くを通った時、愛馬の香月が倒れてしまいました。

その地に丁重に香月を葬り、新しい馬に替えました。

後にそこは壇山と呼ばれ、牛馬の埋葬地となりました。

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胆沢物語『松浦長者②』【岩手の伝説㉑】

胆沢物語『松浦長者②』【岩手の伝説㉑】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

【四章】松浦長者【二節】

長谷寺への道は難渋(なんじゅう)を極めました。

山あり、川あり、森や林、ことに旅慣れぬ長者の妻の苦労は痛々しいものがありました。

茨に手は破れ、足は凸凹道によって豆ができ、それが破れて血が流れていました。

しかし子を願う一念の前には、その苦労も物の数ではありませんでした。

長谷寺に着くと、御手洗川に下りて三十三

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胆沢物語『松浦長者①』【岩手の伝説㉑】

胆沢物語『松浦長者①』【岩手の伝説㉑】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

【四章】松浦長者【一節】

第二十七代、安閑天皇の代に、九州は筑紫肥前松浦の里に、松浦長者と申す者が住んでおりました。

※安閑天皇は在位531~536年。古墳時代。

※筑紫肥前松浦・・・つくしひぜんまつら。筑紫は九州の総称。肥前は現在の佐賀県、長崎県。そこに松浦郡があった。

※時代背景がバラバラな話が出てくるので正確ではない。

その長者の

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胆沢物語『吉実の苦悶』【岩手の伝説㉑】

胆沢物語『吉実の苦悶』【岩手の伝説㉑】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

【三章】吉実の苦悶

吉実一行が釣りに来た日は、贄(にえ)を上納する八月十四日の一ヶ月前に当たっていました。

数えてみると確か、今年の贄上納の当番は、机地庄兵ェ尉でありました。

※机地庄兵衛尉・・・つくえじしょうべえのじょう。おそらく机地という地域の庄兵衛という老翁。

そうすると、来年は吉実であらねばなりませんでした。

吉実はすっかりふさ

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胆沢物語『高山掃部長者』【岩手の伝説㉑】

胆沢物語『高山掃部長者』【岩手の伝説㉑】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

【二章】高山掃部長者

さて話は変わりますが、その頃より数百年以前、この止々井沼(とどいぬま)のほとり、高山(上胆沢)という所に、掃部(かもん)という日本第一を自称する大長者が住んでおりました。

名は祗春(まさはる)といい、祗明、祗広、祗勝という三人の子供にも恵まれ、上下胆沢五十七郡の土地を領有する大地主でした。

屋棟は四十八、牛馬は三百五十

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樵と三人の娘【岩手の伝説⑳】

樵と三人の娘【岩手の伝説⑳】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

ずうっと昔その昔、千年ばかりも前のことであります。

西山に一人の樵(きこり)が住んでおりました。

元は沢山の人達も山に住んで、薪を伐ったり炭を焼いたりして暮らしていましたが、何のためか一人減り二人減りして、今ではこの樵が一人残っているだけとなってしまいました。

樵は妻を亡くし、三人の娘と暮らしていました。

一番目の娘も二番目の娘も気ままば

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弁天さま【岩手の伝説⑲】

弁天さま【岩手の伝説⑲】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

小山字弁天堤下の地に、弁天如来像が祀られてありました。

この木像は実に古いもので、所々に蛇の形が彫り付けられてあります。

昔、平泉全盛時代に建立せられたとも言い伝えられ、またこの地を開発した岩淵右近の氏神であったとも言われ、土地の信仰は相当に深く、毎日参詣人は群れを成し、絶えることがなかったと言われています。

堂は弁天堤の中央に建てられ、参

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大堤の由来【岩手の伝説⑱】

大堤の由来【岩手の伝説⑱】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

小山字油池と前大畑の境する所を、昔から俗に大堤と呼ばれ、今なお大きな堤防の残骸が判然としている所があります。

灌漑水路のなかった時代に、ここに大きな溜池が作られ、松の木沢を通じ、一帯の稲作りの水源となっていたのであります。

※灌漑水路・・・かんがいすいろ。作物栽培に必要な水を、水源から農地まで、人為的に取水・配分・供給する水路のこと。 水源は

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万治万三郎【岩手の伝説⑯】

万治万三郎【岩手の伝説⑯】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

昔々、上野の国、赤城の山に赤城大明神なるものが住んでおりました。

※上野の国・・・こうずけのくに。現在の群馬県。

※赤城大明神・・・あかぎだいみょうじん。赤城神社の祭神。

この赤城大明神は、十丈余り(三十余米)の大蛇に化け、附近の住民、男女の別なく襲って取り食らい、或いは住民が丹精して育てた作物を食い荒らすなど、実に目に余るほどの悪事の限り

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花淵さんと大蛇【岩手の伝説⑮】

花淵さんと大蛇【岩手の伝説⑮】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

昔、花淵善兵工(ぜんべえ)という漢方医がおりました。

非常に腕が良いので評判になり、診察を乞いに遠くからも訪れる者もあって、先生先生と慕われておりました。

漢方医というのは、自分で薬を作ることをしていたものでした。

その薬の材料は、大抵山野に自生している草木から得ることが多いのでありました。

即ち野生の草の葉か根、または茎か実を乾かし、そ

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仁王像の由来【岩手の伝説⑭】

仁王像の由来【岩手の伝説⑭】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

昔、大袋に太郎兵衛という人がありました。

秋晴れの良い天気の日に、瑞神山(ずいしんざん)に茜草刈りに出かけました。

※茜草・・・せんそう。アカネという植物。薬や染料になる。

瑞神山をあちこちと取っているうちに、傾きかけたので帰り路になって、瑞神山の麓の谷に来ると、大きい古い松の木が横たわっているので、非常に驚きました。

※日が傾いてきたの

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地蔵さまの田【岩手の伝説⑬】

地蔵さまの田【岩手の伝説⑬】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

昔々、若柳の前谷地(まえやち)という所に、年老いた夫婦が住んでおりました。

孫もまだ見ぬうちに息子夫婦に先立たれましたが、これも前世の約束事と諦め、いつか来るだろう仏様のお迎えを静かに待っているという風でありました。

ある年の初夏、もう村では田植えが始まりかけておりました。

おじいさんおばあさんも僅かばかりではありましたが、田畑を耕作してお

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秋田街道夜話【岩手の伝説⑫】

秋田街道夜話【岩手の伝説⑫】

参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館

※夜話・・・やわ。夜の余暇にする話。

秋田街道といえば、水沢を南北に通ずる往還(現在の国道四号線)を、

駒形神社あたりから右折して、板谷林(いたやりん?)、浅野、

広岡を経由、尼坂にある追分(指導標)を左に見ながら、

林福野(りんぶくの)を通って、供養塚の東端に入り、

あとは一直線に出店(でだな)、土橋(どばし)、愛宕、

市野々(いち

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