樵と三人の娘【岩手の伝説⑳】
参考文献「いさわの民話と伝説」 編:胆沢町公民館
ずうっと昔その昔、千年ばかりも前のことであります。
西山に一人の樵(きこり)が住んでおりました。
元は沢山の人達も山に住んで、薪を伐ったり炭を焼いたりして暮らしていましたが、何のためか一人減り二人減りして、今ではこの樵が一人残っているだけとなってしまいました。
樵は妻を亡くし、三人の娘と暮らしていました。
一番目の娘も二番目の娘も気ままばかり多く、父の手助けをすることもなく遊んでいましたが、三番目の娘は気立ても優しく、よく父の言うことを聞き手助けをするなど、母代わりになってよく働いてくれました。
だが、暮らしは日増しに苦しくなるばかりでありました。
それでも働かなければ食っていけないので、今日も樵は家に三人の娘を残して、木伐りに出かけて行ったのでありました。
細道を通り、谷川の丸木橋を渡り、奥山さして歩いていった。
※さして・・・指して。目指して。
樵は道々、色々な考え事をしながら歩いていました。
なぜこの山では「あー」という声を出してはいけないのだろう。
なるほどこの山奥には、立派で綺麗な御殿があって、そこには『あー様』と呼ぶ方が居るそうだが、誰も見に行った人も、『あー様』に会った人もいない。
※御殿・・・ごてん。身分の高い人の邸宅を敬っていう語。また、造りが立派で豪華な邸宅。
また、誰かが見に行ったと聞いたことはあるけれども、帰ってきて皆に話して聞かせたという人もいない。
それにしても禁句の「あー」だけは口にしないで山に入らなければならない。
さても不思議なこともあればあるものと、考え事をしているうちに、伐採の場所に着いたのでありました。
まず腰を下ろして木立を見回しながら、いくら働いても楽になりそうもないが、働かなければもっともっと困ってくる。
「あーあー」と思わず声を発し、手にしていた斧を振り上げました。
ところが不思議なことに、樵の前に立派な身なりをした一人の男が現れ、樵を見つめニッコリしましたので、樵は非常に驚き、手にした斧を投げ捨ててしまいました。
ところが現れた男は、
「驚いてはいけない。
私はこの奥で何不自由なく暮らしている『あー』という者だ。
よくぞ私の名をご存知で呼んでくれた。
何か用でもあったか。」
と話しかけられました。
樵は生きた心地もなく震い上がってしまいましたが、そっと心の騒ぐのを取り静め、
「は、はい、私は暮らしに困っていることを考え、思わずあーという声を出してしまい、申し訳もございません。」
と詫びたら、この『あー様』は、
「そんなに困る事があるなら、私が助けて進ぜよう。
私の家までは少し遠いが、一緒に来なさい。
そこでゆっくりお話し致そう。」
と樵の手を取ると山奥さして、すっと行ってしまいました。
着いてみると屋敷が広く大変立派で、床も柱もピカピカしており、前には大きな池があって、ほとりに色々な木が植えられ綺麗に手入れがされており、後には天を突くばかりの大木が生え茂っていました。
案内されるまま中の座敷に座ったが、不思議なことに召使の娘一人だけで、その他には誰もいない様子でありました。
やがてお茶が運ばれお菓子も出ました。
そして話が始まりました。
樵は妻に先立たれたこと、娘三人がいることなどを話すと、この『あー様』は、
「それはそれはよいことだ。
お金はいくらでも進上するから、娘一人だけ手伝いに欲しいのだ。」
と、傍の手箱から黄金拾枚(十枚)を取り出して、樵の手に握らせました。
樵は、
「では早速家に帰って娘達と相談し、差し遣わすことにいたしますから、よろしくお願い申し上げます。」
と言ったら『あー様』は非常に喜ばれ、何時でも用のある時は呼んでくれ、ただ「あー」とだけ声を出せばよいと言われました。
樵は夢中になって家に帰り、娘三人を前に呼び寄せ、今日の出来事を詳しく話して聞かせました。
拭かなくてもピカピカしている家の中、掃かなくても塵一つない庭のこと、仕事にはお客様にお茶を出すくらい。
それに同じ年頃の娘もいると聞いて、こんなつまらない家にいるよりも、どれほどよいのではないかと、まず二番目の娘が「おれが行きたい」と言い出しました。
一番目の娘は「妹のくせに、おれが行く」と言い出しました。
三番目は黙って何も言わず、姉達の言い合いを聞くだけでありました。
樵は考えた結果、一番娘をやることに決め、翌日山路(さんろ)を辿り行く途中で、思わず言うともなく「あーあー」と声を出しましたら、目の前に『あー様』が現れ、
「やあ御苦労、ここからは私が連れて行く。」
と娘の手を取り、娘は父に別れを告げて、山奥の方に『あー様』と共に行きました。
父は家に帰りましたが、居る時は困った娘だと思っていましたが、居なくなると物淋しい気持ちがするようになりました。
『あー様』の御殿に着いた娘は、言い付け通り働いているうちに、父に聞いた同じ年頃の娘のことが気になり、家の中や周りを見やったがいないので、不思議でなりませんでしたが、見たことも聞いたこともない立派で綺麗な御殿に見とれて過ごしていたので、淋しくはありませんでした。
『あー様』はよく外に出かけました。
出かけるときは留守中のことをよく守るよう言い渡されました。
今日も出かけるに先立って娘に言い聞かせたのですが、今日はなぜかいつもとは違って言い付けが厳しく、顔つきも恐ろしく感じ取られました。
※先立って・・・さきだって。前もって。事前に。
『あー様』は娘に向って、
「今日の食べ物は戸棚の左に置いてあるものにする。
残らずみんな食べなさい、食べないと大変なことになる。
また、押し入れは開けてはならぬし、書院の手箱に手を触れてはならないぞ。」
と言い捨てて出ていきました。
※書院・・・しょいん。日本で、寺院や武家の邸宅の居間兼書斎。
見るなと言われると尚更見たいのが人の心で、あの手箱には何が入っているのだろうと近寄って見ると、それはそれは綺麗なのに、つい心がとられ、五つある引き出しのうち一番上のをそっと引き出してみましたら、驚くことに黄金のお金がいっぱいに入っていました。
二番目、三番目、五番目までぎっしり詰められていました。
娘は出来心を起こし、こんなに沢山あるのだから二、三枚くらいは抜き取っても知れないはずだと思い込んで、一つの引き出しから一枚ずつ、五枚を取って、懐にかたくしまい込んでしまいました。
開けるなと言われた押し入れも、開けてみたくて堪らなくなり、そーっと開けてみたら、驚くどころかびっくり仰天して倒れてしまいました。
なぜなら、この押し入れには、人の骨がぎっしりと山積みされてあったからでした。
大変なものを見てしまった、これは閉めておかなければならないと、恐る恐る近付いて、戸に手をかけながらよく見ると、上に積まれた骨には生々しい肉と血が付いており、頭には毛も付いているものもあります。
どきどきする胸を抑えながら戸を閉め、今度は何を食えと言ったのだろうと、戸棚の左を開けてみますと、これはまた驚かない訳にはいきませんでした。
そこには皿に乗せられた生々しい女の腕がありました。
娘は恐ろしさの余り泣くにも泣けず、うろたえながら、どうしてもこの生腕は食べられそうもない、色々考えた結果、この腕を天井裏に投げ入れて食ったふりをすることに決めて、そのようにし、心の乱れを取り戻していました。
娘は思いました。
あの腕、あの骨は、父が来た時に見た娘のものではなかろうか、そうするとおれも同じような運命に陥るのではないかと思うと、居ても立っても居られなくなり、ここから抜け出そうとした途端に、目の前に『あー様』が現れ、睨みつけたのでありました。
娘は駈け出そうにも身の縮む思いで、一歩も動けなくなってしまいました。
『あー様』は、
「なぜ逃げようとする、どうもあやしい。」
と目をむき出して睨みつけました。
娘の体は電気に触れたような身震いを覚えました。
『あー様』は言葉を続けて、
「押入れを見たのではないか。」
と娘は、
「言い付け通り見ません。」
と答えると、
「手箱に手は。」
「ふれません。」
「食べ物は食べたか。」
「全部食べました。」
と問答がありました。
『あー様』はこう言いました。
「それでは本当かどうか試してみるからよく聞け。」
とポンポン拍子二つ鳴らし、
「うでうでどこにいる。」
と言うと、
「はい、天井裏にいます。」
と答えがしました。
また手を二つ打って、
「ほねほね誰か見なかったか。」
と言うと押し入れの中から、
「見られました。」
と返答が出てきました。
次に、
「手箱、変ったことはなかったか。」
と言うと、
「黄金五枚が取られました。」
と答えがきました。
『あー様』はカンカンに怒り出し、娘は身震いが止まらず真っ青になってしまいました。
『あー様』の顔は見る見るうちに鬼のようになり、目を光らし口は耳元まで裂け、牙をむき出して娘に襲いかかり、娘を頭から食い始め、腕を残して食べてしまいました。
そして腕は戸棚に、骨は押し入れにと片付けられました。
一方、樵の家では、二番娘がおれも姉さんの所に行きたいと駄々をこねて、父親を困らせていました。
思い余った樵は山に行って、「あー様」と大声で呼んだら、この前と同じように樵の前に『あー様』が現れたのでありました。
樵が二番目娘のことを話すと『あー様』は、
「あーよろしい、先に行っている姉も喜んで働いているし、さぞかし喜ぶことであろうから、早速連れてこい。」
と言いました。
樵は喜び勇んで家に帰り、待ち焦がれるようにしていた二番目娘を連れ出して、『あー様』に渡しました。
『あー様』は御礼だと言って、黄金拾枚を樵の手に握らせました。
二番目娘は『あー様』に連れられて行ってみると、成程立派で綺麗なことは驚くほかありませんでした。
だが、迎えてくれるであろうと思った姉の姿は、どこにも見出すことができませんでした。
二日経っても、三日経っても、『あー様』の他に誰もいないことに気が付くと、淋しさと物恐ろしさが押し寄せてきました。
明日は逃げ出そうと心に決めて、思案に暮れていたところ、外に出かけた『あー様』が帰ってきて、娘に向って言った言葉は、それは一番娘に言い聞かせたように食べ物のこと、見てならない押し入れのこと、触れてはならない手箱のことでありました。
やがて『あー様』が出かけていったので、娘は急に見るな触れるなと言われたのを、見たり触れたりしてみたくて堪らなくなりました。
逃げ出す準備でいくらか疲れ、腹も減ってきたので、食べておけと言われた戸棚を開けてみたら、お皿に生々しい女の片腕が乗っていました。
棚のところには腕の他に何もありませんでした。
娘は恐くて恐くて堪らないのを我慢し、その腕を見ると中頃に痣(あざ)があり、指の格好など姉のとそっくりなのに驚き、この家に姉のいなくなっていることも読めるような気がして、恐ろしさと悲しさで目からとめどもなく泪が流れ出てきました。
だが言付けにそむくとどんなことになるか、はっきりしてきましたので、まず腕を始末しなければならない、腕を食べる訳にもいかない、どこかに隠して食ったふりをしようと思いついたのは、押し入れでありました。
早速開けてみると、山積みになっている骨に腰を抜かし、動けなくなってしまいました。
これでは駄目だと、気を取り戻し考えた結果、縁の下に投げ入れてしまいました。
これで明日は逃げることができるが、ついでに手箱にも不思議があるように思われ、近付くとなんとその綺麗なのに驚きました。
知らず知らずのうちに引き出しに手がかかり、引き出してみると、ぎっしり詰まった黄金にまず驚きましたが、欲しくて堪らない。
一枚や二枚はごまかしても知れないだろうと、一枚とって次の引き出しを開けると、同じように詰め込まれてある。
これからも一枚、ついに五つの引き出しから一枚ずつ、五枚をとって帯の間に挟み込んでしまいました。
明日は逃げ出す覚悟を決めていたところに、『あー様』が帰ってきました。
『あー様』は家の中に入るや否や、娘に向って尋ねました。
「食べろと言ったのを食べたかな。」
娘は、
「はい、全部食ってしまいました。」
と答えました。
『あー様』は、
「本当かな、聞いてみよう。」
と拍子二つ鳴らしてから、
「うでうでどこにいる。」
と言うと、
「はい、ここにいます。」
と縁の下から声が出ましたから堪らない。
『あー様』は顔色を変えて、
「嘘つき奴(め)。」
と怒鳴り、拍手を鳴らし、
「押入れよ、見られたか。」
「はい。」
と押し入れから返事がありました。
次は手箱に向って聞いたら、一番娘と同じように、
「五枚とられました。」
と声が出ました。
『あー様』は、
「この嘘つきめ。」
と言って二番娘も捕まえると、猫が鼠を食うように食ってしまい、ただ腕だけを残したのでありました。
樵の家では、娘二人が行ってからしばらく日数が経っても、何の便りもないので、不思議に思うようになりました。
三番目の娘が父に向って言いました。
「姉さん達が何をしているか、どんな所にいるのか見に行ってきたい。」
と言いましたら父も心配し始め、
「それでは一緒に『あー様』の出てくる所に行こう。
そして『あー様』に頼むことにしよう。」
と二人連れだって出かけました。
この前会った所まで行くと、父は立ち止まって、精一杯声を張り上げて『あー様』と呼びました。
向うの細道の方で何かの音がしたと思うと、『あー様』がそこからやってきました。
『あー様』は何とよく呼んでくれたと笑顔で話しかけてきました。
「姉さん達の所に行きたいのだろう。」
娘は、
「大いに行きたいのです。」
※大いに・・・おおいに。非常に。
と返事をすると『あー様』は、
「ああそうかそうか、では一緒に行こう。」
と父にいくらかの黄金を握らせ、娘の手を引いて向うの山の方に消えていきました。
父は、不思議なこともあればあるものだが、おかげで幸せに暮らせることになった、有難いことだ。
家に帰って三番娘の帰ってくるのを待つことにしようと、家へ戻って働きに出かけずに休んでおりました。
『あー様』に連れられた三番娘は御殿に着くと、御殿の大きく立派なこと、庭や池のことよりも、二人の姉が出迎えてくれなかったことが不思議でなりませんでした。
「姉さん達はどこにいるのでしょう。」
と聞くと、
「ちょっと出かけて今はいない。
少し経つと帰ってくるよ。」
と言われほっとしました。
しかしいくら時間が経っても、姉さん達は帰ってきませんでした。
『あー様』はどこかに、行く先も告げずに出かけてしまいました。
娘はしばらくぼんやりしていましたが、はっと気が付くと、どこもここも綺麗なのに驚いてしまいました。
よくもこんなに姉達が掃除や手入れをしたものだと感心してしまいました。
そして、おれも姉達に負けないように働いてやろうと、床や柱を拭いたり、庭を掃いて働いておりました。
透き通るような池の水に見とれていると、『あー様』が帰ってきて娘に向ってこう言いました。
「そう働かなくともよいのだ。
ただ、食べ物は残らず食べること、見るなと言われた所は見ないこと、手を触れてはならないものは、決して手を触れないように心がけるんだよ。」
と言い残して、またどこかに出かけていってしまいました。
夜になっても『あー様』は帰ってきませんでした。
姉達が帰ってくるのを今か今かと待っているためか、腹も空かず、またこれからのことが心配にもなり、一体どうなるのだろうと考えているうちに、体全体に疲れが出てきてとうとう、うとうととその場に眠ってしまいました。
それから幾時間寝たのか、目を覚ましてみると、辺りは明るくなっていました。
いつ夜が明けたのか知らずに寝過ごしてしまったのでした。
それにしても姉達の姿が見えない。
いつかきっと見えるだろうと心に決めて、掃除や手入れに精を出して働きました。
綺麗な手箱も見たが、手を触れるなと言われたのであるから、近付こうとしませんでした。
そしてどの押し入れも注意を守って開けませんでした。
そのうちに腹が減って堪らなくなったので、言い付け通り戸棚に行って戸を開けてみると、これは大変。
皿の上に人の腕が乗せられてあるのではありませんか。
その他には何にもないので、これを食べろと言うの、こんなことなら来るのではなかった。
どちらの方に向って言けば家に帰れるのか、全然見当がつかない、姉達のことも気にかかり、食べ物のことも気にかかり、恐ろしさと淋しさが込み上げてきて、考えれば考えるほど恐ろしさが身に染みてきました。
柱にもたれ、両手の指を組み合わせ、口元に押し付けていると、頭の上の方で声がしました。
見上げても何も見えません。
見えるのは天井だけ、この天井を見つめているとまた声がします。
この不思議に耳を向けると微かな音がします
それがまた何者かの声であることに気が付きました。
ここはお化け屋敷ではないのだろうか。
そうすると泣いても叫んでも駄目だ。
お化け屋敷ならお化けを退治しなければならないことになる。
おれは鬼になってもそのお化けを退治するのだと、娘は決心を致しました。
途端に何者かの声がしました。
何者だろうと、自分の耳を疑いながら耳を澄ましていますと、
「こら娘、お前は孝行者だ、よく聞けよ。
お皿の腕は焼いて粉にして袋に入れて、お腹に当て、しっかりと結べ。」
と聞こえたのでありました。
娘は急に勢いづいて、早速棚から腕を取り出し、火を起こして真っ黒になるまで焼いて、庭先に持ち出し石ころを持って打ち砕きました。
そして粉のようになったのを袋に入れて、しっかりと腹に当て、ひもで巻き付け、外から知れないように着物を着飾って働いていました。
そこに『あー様』が帰ってきて、物も言わず拍子を打って、
「手箱。」
と呼ぶと、
「はい、手を触れません。」
と答えが出ました。
娘はほっとしました。
次に、
「押入れよ。」
と呼ぶと、
「見られません。」
と答えました。
『あー様』はニッコリして、
「食べたかな。」
と聞きました。
娘は食べたとは言い切れず、
「はい、お腹の中に。」
と答えました。
『あー様』は手を打ってから、
「うでうでどこにいる。」
と言ったら、
「お腹の中に入って出られません。」
と答えました。
『あー様』はニコニコしながらこう言いました。
「お前は良い娘だ、おれの言うことをよく守ってくれた。
今までの者は皆嘘つきで怠け者であったから、暗い所に追いやった。
お前こそ私の所にいてくれる只一人であると決めた。
あーよかった、今晩は酒を家で呑むことにする。」
と言って、酒の用意をさせて呑み始めました。
『あー様』は次第に酔いが回り、いい気持ちになり娘を前に呼び寄せ、こう話したのでありました。
「私は元この近くの川の主であったが、川は雨の神と風の神に散々痛めつけられ、安心する暇もないので、やめてこの山と池の主になったのだ。
今は何不自由がない。
ただ私の最も恐れるのは柳の枝である。
この枝が私の耳に入ると、私の命はなくなるのだから、もし柳の枝が耳に入りそうになったらそれを除けて(のけて)くれ。
それだけがお前の仕事なのだ。
お前は私の言うことをよく聞いてくれる正直者だ、頼んだよ。」
と尚も呑み続けるのでありました。
娘は、『あー様』は何者だろう、ひょっとすると化物かも知れぬと思いながら、目を向けてよく見ると、『あー様』は酔い潰れ、その場に倒れいびきをかきながら眠った様子でありました。
いびきが次第に高く聞こえるようになりました。
サーッと風が立ってきたので外を見回すと、池のほとりの柳の枝が揺れているのに目が留まりました。
ああ、あの枝のことかと気が付くと、よしやってみよう、試してみよう、もし気付かれたなら殺されるまでである。
もし発見でもされたら、嘘か本当か試してみたかったのです、と正直に言ったら許してもらえる筈だと考え、急いで外に出て池のほとりに行き、揺れる枝をつかまえ、音を立てずに折り取ってき、これを『あー様』の耳にと持ってゆくと、体が震い手がガクガクして落ち着かないのでした。
一時はやめようかと何べんも思いましたが、今はこれまでと、ガタガタ震えながらも足元に近付き、上向きにしていた耳の孔(あな)に、そーっと柳の枝を差し込んでみました。
※今はこれまで・・・避けることができないさま。もはやどうしようもない。これで終わりだ。
なんぞたまらん、『あー様』は大きな声で家も割れんばかりに叫びました。
娘はどうせこうなればと、枝のありったけを差し込んで台所の方に逃げ、隠れて見ていました。
苦しみもがきながら『あー様』は狂い回ったと思うと、額の両側から太い角がにょきにょきと現れ、口は大きく割れ、中から牙がむき出し、柱をかじりうめく様は、地獄にでもいるような心地がしました。
娘は恐くて目を伏せていましたが、静かになりかけたので死ぬのではないかと見ていますと、『あー様』の体は丸みを帯びて縮んでいくのでありました。
よく見ると直径二尺ばかりの大ツブとなり、おれは池に浸かって醒めてくると言って、転がりながらこの池に落ちてしまいました。
※尺・・・長さの単位。1尺は約30cm。2尺で約60cm。
このツブは今も酔いが醒めずに、池の中に深く沈んで主となり、日照りが続いても水の減らない沼として残っているのです。
また、娘はそばの川を伝って下がり、父の所に辿り着き、父を連れて御殿に戻り、そこに暮らして長者となって、やがて近くに沢山の分家をつくって、生活豊かな村ができたということであります。