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鬼丸大河「兵どもが夢のあと」下
・義経の死
当主・泰衡とそれを補佐する兄かつ義父・国衡の体制で奥州はまとまりました。
しかし秀衡が亡くなる前から続いていた、鎌倉からの「かくまっている義経を渡せ」という圧力は次第に増していきます。
初めは秀衡の遺言を守り要求をはねのけていた泰衡でしたが、ついに度重なる圧力に屈します。
義経の館を襲撃。義経は妻子、家臣たちと共に果てました。享年31歳。
義経の首は鎌倉に届けられました。
鬼丸大河「兵どもが夢のあと」上
奥州藤原氏とは。
一体何者なのか?
義経のバックとしてすごく存在感があったのに、いつの間にか滅んでいましたね。
主人公の北条義時とはあまり関係ない範囲だったのでおそらくカットされてしまいましたが、実際はすごい勢力なんです。
ということで、今回は奥州藤原氏と鎌倉軍との戦について紹介します。
・奥州藤原氏
もともと東北地方の一勢力でしたが、度重なる戦で勝利を重ねて勢力を拡大していき、ついに
曹操の娘・曹節という女性
先日Twitterで書いたお話です。
三国志の「曹節」という女性の話。
ちなみに曹節は、魏の曹操の娘です。
三国志のちょっと前、漢の時代。
漢時代末期になると、長引く戦乱、飢饉、そして悪政により、漢王朝の権威は地に落ちました。
皇帝、皇后も含めた王室の人々ですら、その日食べるものにも苦労をする有り様でした。
そんな漢王朝の支援を名乗り出たのが魏の王・曹操でした。
曹操の援助により、漢王
修羅の島 ~九州三国志~ 3
島津氏、九州統一へ
龍造寺氏を降した島津氏は九州統一を目指し、1585年、大友領への侵攻を開始しました。
一方の大友氏は、もう独力で島津氏を倒すことは不可能と悟り、本州中央で勢力を拡大していた豊臣秀吉へ援助を求めることを決めました。
1586年、宗麟自らが大坂城の秀吉に会いに行き、大友氏が秀吉に降伏する代わりにに島津氏を撃退してほしいと頼み込みました。
天下統一を目指す秀吉は九州へ出陣するき
修羅の島 ~九州三国志~ 2
大友vs島津
島津氏に滅ぼされた伊東氏の当主・義祐(よしすけ)は、大友氏を頼って落ち延びました。
島津氏の勢力拡大を危険視していた大友氏は、伊東氏を助けることを名目に島津攻めを決めます。
1578年、大友軍は大軍で島津領の日向(宮崎県)に侵攻を開始。
旧主である伊東義祐が道案内をしたため、進軍は順調に進みました。
これに対し島津軍も出陣。
両軍は日向・高城川原(現在の宮崎県木城町)で激突しま
第44.6回「麒麟が来た」 完
「この戦に勝った後、なんとしても家康殿のお力添えを頂き、共に天下を治めたい。
200年も300年も穏やかな世が続く政(まつりごと)をおこのうてみたいのだ。
もし、ワシがこの戦に敗れても、『後を頼みたい』とそうもお伝えしてくれ。」
山崎の戦いの後、落ち武者狩りで命を落とした明智光秀。
彼は本能寺の変の前日、徳川家康の忍・菊丸に会い、家康への伝言を頼みました。
1615年。本能寺の変から33年後
第44.5回「三日天下」
「いつか、戦が終わるって。そういう世を創れる人がきっと出てくる。その人は、麒麟を連れてくるんだ。」
山崎の戦いで敗れた光秀は勝龍寺城に入り、守りを固めました。
この城は光秀にとって、とても大きな意味を持っていました。
勝龍寺城はもともと細川藤孝の城でした。
そして光秀の娘・たまと藤孝の息子・忠興の結婚式は、この城で行われました。
光秀にとって、戦友の息子に娘を嫁に出した思い出の場所だったの
第44.4回「山崎の戦い」
「信長様を討ち、心ある者と手を携え、世を平らかにしてゆく。それが我が役目と思い至った。」
6月10日。〇光秀はこの日、毛利家と戦っているはずの羽柴秀吉がすぐ近くまで戻ってきていることをようやく知りました。
秀吉のあまりの速さに驚いた光秀は、各地に派遣していた兵を急いで呼び戻しています。
〇これまで光秀に協力姿勢を見せていた筒井順慶が、秀吉に協力することを表明しました。
〇越中(富山県)で上
第44.3回「十兵衛の誤算」
「美しい都、それは約束する。駒殿に伝えてくれるか。必ず麒麟が来る世にしてみせると。麒麟はこの明智十兵衛光秀が必ず呼んでみせると」
光秀は頭を抱えていました。
本能寺で信長を討ったものの、味方が思うように集まらなかったのです。
丹波の一色義定、若狭の武田元明、近江の京極高次らは呼びかけに応じたものの、最も頼りにしていた細川藤孝、筒井順慶らの動きが不鮮明でした。
なぜ藤孝が動かなかったのか。
第44.2回「猿が来る」
「明智様が、天下をぐるりと回してくれるわい……」
1582年6月2日。織田信長は本能寺で明智光秀に討たれました。
その時、柴田勝家は上杉軍が籠る越中(富山県)の魚津城を、羽柴秀吉は毛利軍が籠る備中(岡山県)の高松城を包囲していました。
丹羽長秀は、摂津(大阪府)で四国攻めの準備をしていました。
6月3日。本能寺の変の翌日。
〇秀吉は、密かに信長が光秀に討たれたことを知りました。
京から遠
第44.1回「新しい天下人」
「我が敵は、織田信長と申す」
1582年6月2日。明智十兵衛光秀は、京の本能寺で主君・織田信長を討ちました。
当時は光秀にとって、信長を討つ絶好の機会でした。
信長はろくな警護も付けず、防御設備も乏しい本能寺に宿泊していました。
織田家の重臣・柴田勝家は北陸で上杉軍と戦い、羽柴秀吉は中国地方で毛利軍と戦っています。
京から近い大坂には四国へ出兵予定の丹羽長秀がいましたが、光秀からすれば相
旅の思い出語り 16 沖縄県・ベイスターズキャンプ
ついに緊急事態宣言が解除されましたね!
とはいえ、引き続き外出自粛が求められています。旅行好きの私にとっては息苦しい日々が続きます。
以前撮った写真を見ながら当時を思い出し、「旅行できるようになったらまた行きたいなあ」と物思いにふけるのみです。
今回の写真はこちら。
「ハマの暴れん坊将軍」
懐かしい写真が出てきました。沖縄県宜野湾のベイスターズキャンプ(2013年)で中村紀洋選手を発見(撮
旅の思い出語り 14 和歌山県・紀の川万葉の里
ついに緊急事態宣言が解除されました!
とはいえ引き続き外出自粛。旅行好きの私にとっては息苦しい日々が続きます。
以前撮った写真を見ながら当時を思い出し、「旅行できるようになったらまた行きたいなあ」と物思いにふけるのみです。
今回の写真はこちら。
「永久」
和歌山県の道の駅・紀の川万葉の里。紀の川(撮影日2019年5月2日13時52分)。
地元の農産物を販売する道の駅・紀の川万葉の里。
芝