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鬼丸大河「兵どもが夢のあと」上

奥州藤原氏とは。

一体何者なのか?

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義経のバックとしてすごく存在感があったのに、いつの間にか滅んでいましたね。

主人公の北条義時とはあまり関係ない範囲だったのでおそらくカットされてしまいましたが、実際はすごい勢力なんです。

ということで、今回は奥州藤原氏と鎌倉軍との戦について紹介します。


・奥州藤原氏

もともと東北地方の一勢力でしたが、度重なる戦で勝利を重ねて勢力を拡大していき、ついに東北地方一帯を支配する大勢力になりました。

しかし「京の朝廷こそが日本の頂点である」という姿勢を崩さず、奥州に赴任した中央の役人にも協力的でした。

さらに奥州の名産であった砂金や馬など朝廷への献上品も欠かさなかった為、朝廷も藤原氏を信頼し、奥州の支配を容認していました。


藤原氏は3代目・秀衡(ひでひら)の時代に全盛期を迎えます。

本拠地・平泉は京の都に次ぐ日本第2の都市とも呼ばれ、戦乱で疲弊する他地域を尻目に、発展を続けました。


・源義経と奥州

平治の乱が起こり、平清盛と源義朝(頼朝や義経の父)が戦いました。

この戦で平清盛が勝利し、平家の力を揺るぎないものにします。

一方敗れた義朝は敗走の最中家臣に裏切られ命を落としました。

またその息子たちも平家に捕らえられてしまいます。


頼朝は罪人として伊豆へ流され、北条氏の監視下に置かれました。

義経は出家させられ、僧として生きることとなります。


しかし才気あふれる義経は僧として生きることを拒否し寺を脱走。
母の縁を頼り平泉へ向かうのでした。

※義経と頼朝は異母兄弟であり、頼朝の母は平泉に縁はありません。


当時奥州の王として君臨していた秀衡は義経の才を見抜き、自らの手で養育しました。

義経は15歳からの約6年間を平泉で過ごし、その才能をさらに伸ばしていきました。


・源平合戦

源頼朝、伊豆で挙兵。
義経は兄とともに戦うべく、伊豆へ向かいます。

秀衡は巨大な戦力を持ちながら源氏と平家の戦いには一切加わらず、平泉の繁栄を考え、ずっと中立を保ってきました。
この時の義経の伊豆行きにも反対しましたが、結局義経に押し切られ、手勢を付けて送り出しています。


源氏と平氏の戦いが激化すると、秀衡は両陣営から協力を求められます。

関東の源氏からすれば、西国の平家を倒したいのに背後に味方ではない大勢力がいるのは穏やかではありませんでした。

西国の平家からすれば、関東の源氏を西と北から挟み撃ちしたいという考えでした。

それでも秀衡はどちらの陣営にも加わることはありませんでした。

一方、京の朝廷への献金・献上は続け、源平の戦いとは距離を置きつつも、朝廷との関係の強化に努めています。


・平家滅亡後

平家が滅び、奥州以外は源氏の勢力下となりました。

すると背後の憂いが無くなった頼朝は秀衡に対し高圧的な態度をとるようになり、様々な要求を突きつけるようになります。

奥州を守るため、秀衡は頼朝の要求に従っていましたが、もはや衝突は避けられないと考え軍備の増強を図ります。

その一つが、兄頼朝と反目し、追われる身となっていた義経を受け入れることでした。


・秀衡の死

義経を受け入れて9ヶ月後、病に倒れた秀衡は息子たちを呼び、遺言を残しました。


ひとつ。

後継は次男・泰衡(やすひら)であること。

藤原泰衡


ひとつ。

自分の妻・とくを、長男・国衡(くにひら)に嫁がせること。

とく

藤原国衡


ひとつ。

鎌倉(源頼朝)からの圧力には屈せず、義経を決して渡してはならないこと。
もし鎌倉と戦になれば、義経を大将とし、力を合わせて戦うこと。

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詳しく見ていきましょう。


・秀衡と息子たち

秀衡には6人の息子がいました。

そのうち後継者候補は2人。
長男・国衡、次男・泰衡。


国衡の母は奥州の人間であり、身分は高くありませんでした。
そのため国衡は長男でありながらも一族内での発言権は弱かったと言われています。

泰衡の母は京の貴族の娘でした。
秀衡が京の朝廷と太いパイプを繋ぐ中で嫁いできた嫁であり、その父も天皇の近くで政治を行う身分の高い人物でした。

当時は母親の身分は子供にも大きな影響を与えます。

長男でありながらも身分の低い女性の子である国衡よりも、身分の高い女性の子であった泰衡が後継となったのです。


一方、国衡と泰衡の人物像は正反対だったようです。

父母ともに奥州の血を引く国衡は勇猛な人物で、武将としての評判が高かったようです。

母が京の貴族の娘であった泰衡は文化的な人物だったようです。

そのため、後継には国衡を推す声も少なくありませんでした。


自分の死後、国衡派と泰衡派で争うことを恐れた秀衡は手を打ちます。
妻・とくを国衡に嫁がせることです。

当時の常識では、「兄弟で争うこと」はあっても「親子で争うこと」はありえませんでした。
家は、一家の大黒柱である父親を頂点とする考えだったからです。

そこで、とくを国衡に嫁がせ、「国衡を泰衡の義父にすること」で争いを避けようとしました。

ちなみに前述のとおり、国衡と泰衡の母は別であり、おそらくとくは泰衡の母(京の貴族の娘)のため、倫理的にも血縁的にも問題はなかったのでしょう。


この措置は功を奏し、問題なく後継は泰衡となり、国衡が義父として支えるという体制に移行することができました。


つづく