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曹操の娘・曹節という女性

先日Twitterで書いたお話です。


三国志の「曹節」という女性の話。
ちなみに曹節は、魏の曹操の娘です。


三国志のちょっと前、漢の時代。

漢時代末期になると、長引く戦乱、飢饉、そして悪政により、漢王朝の権威は地に落ちました。

皇帝、皇后も含めた王室の人々ですら、その日食べるものにも苦労をする有り様でした。


そんな漢王朝の支援を名乗り出たのが魏の王・曹操でした。

曹操の援助により、漢王朝も落ち着きを取り戻します。

しかし王朝の実権は曹操が握ることとなりました。

さらに曹操は自分の権威を高めるべく、娘・曹節を漢皇帝に嫁がせました。

曹操の勢いは留まることを知りませんでした。


これを危ぶんだのが漢の皇后。

彼女は曹操によって王室が乗っ取られ、漢皇帝が立場を奪われるのを恐れました。
そして曹操暗殺を考えます。

しかし実行はされませんでした。

それにも関わらずこの企みは曹操にバレてしまいます。
曹操の怒りは激しく、暗殺未遂の罪で皇后は処刑されることに決まります。


曹操の家臣に引きずられる皇后は、漢皇帝に涙ながらにたずねます。

「また陛下と暮らすことができるでしょうか?」

それに対して漢皇帝は、

「皇帝の私ですら、曹操に逆らえばいつまで生きられるかわからないのだ」

と答えたと言います。


皇后は処刑されました。

家臣の立場でありながら皇后を処刑できる曹操。

それを止められない漢皇帝。

漢王朝の滅びの時は近づいていました。

そんな中で、空位となった皇后の位に就いたのが曹節でした。

曹操がさらに自信の権威を高めるため、そして漢皇帝の監視を目的とした人選でした。


曹操の権威が漢皇帝よりも大きいことは誰の目にも明らかでした。

それでも曹操は皇帝の地位を奪うことはなく、本人は魏王として生涯をまっとうしました。

しかし曹操が死に息子の曹丕 (そうひ) が後を継ぐと、曹丕は皇帝の地位を譲るよう漢皇帝に迫りました。


この時、漢皇帝の周囲に反対するものはいませんでした。

漢皇帝に忠誠を誓う者は曹操によってすでに遠ざけられており、曹丕を恐れる者しかいなかったのです。

漢皇帝が涙を流して悲しんだと言います。

そんな中、反対の声を挙げたのが曹節でした。


「家臣の立場でありながら陛下に退位を迫るとは何事か!」

曹節は曹操の娘で、曹丕の妹です。

漢皇帝に嫁いだのも政略結婚であり、当然、このような場合は実家の曹家に味方をすると誰もが思っていました。

その曹節が曹丕を激しく糾弾したのでした。


しかしすでに曹丕の権勢を抑えることはできず、ついに漢皇帝は退位を受け入れたのでした。

こうして曹丕は漢皇帝から皇帝位を引き継ぐ形で魏の皇帝となりました。


漢皇帝は政治の世界から追放され、隠居することになりました。

曹節も実家に帰ることなく、ついていきました。

そして彼女は漢皇帝が没してからも、26年もの年月を生きたのでした。


政略結婚で皇帝に嫁いだ曹節。

そんな彼女でしたが、7年間皇帝の妻として暮らし、漢皇帝が引退後も14年間寄り添い、そして漢皇帝死後26年間もの時間をひとりで生き抜きました。

彼女の暮らしを伝える資料は残っていませんが、兄曹丕に啖呵をきった曹節とはどんな女性だったのか。

漢皇帝との間に愛や絆が生まれることはあったのか。

気になりますね。


おわり


おまけ①

漢の皇后の暗殺計画が曹操にバレた件。

曹操は至るところにスパイをもぐらせており、国内で曹操が知らないことは無かったと言います。

そのことから、「曹操の噂をすると曹操が現れる」という言葉が生まれました。

この言葉が後に形を変え、「噂をすれば影」ということわざになりました。


おまけ②

曹丕は漢皇帝を退位させ、自身が魏の皇帝となりました。

これに対抗して、蜀の王であった劉備も蜀の皇帝を名乗りました。

さらにこれらに対抗して、呉の王であった孫権が呉の皇帝を名乗りました。

こうして3人の皇帝が現れ、三国志が始まるのです。