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第44.1回「新しい天下人」


「我が敵は、織田信長と申す」


1582年6月2日。

明智十兵衛光秀は、京の本能寺で主君・織田信長を討ちました。


当時は光秀にとって、信長を討つ絶好の機会でした。

信長はろくな警護も付けず、防御設備も乏しい本能寺に宿泊していました。

織田家の重臣・柴田勝家は北陸で上杉軍と戦い、羽柴秀吉は中国地方で毛利軍と戦っています。

京から近い大坂には四国へ出兵予定の丹羽長秀がいましたが、光秀からすれば相手にする必要がなかったのかもしれません。
勝家、秀吉が遠方にいるのが大きかったのだと思います。
事実、本能寺の変後の長秀の動きはお粗末なものでした。

本能寺前


本能寺で信長を討った光秀には、やらなければいけないことが山積みでした。

勝家、秀吉、長秀、その他の織田軍も信長の仇討ちをするため、いずれ光秀を攻めてくることは確実です。
光秀はこの大戦に備え、周囲の勢力に味方になるよう呼びかけるなど、勢力を固めることに着手します。


6月4~5日。

光秀、信長の居城・安土城を占拠。
近江(滋賀県)を制圧。

この頃、丹波の一色義定、若狭の武田元明、近江の名門である京極高次らが光秀の呼びかけに応じ、味方しています。


6月7日。

安土城の光秀のもとに朝廷からの使者が訪れ、京都の治安維持を命じられています。
これは、光秀が天下人であった信長を殺した、「新しい天下人」として朝廷から認められたということと同義でした。


一方、光秀には不安もありました。

味方になってくれると思っていた細川藤孝、筒井順慶の動きが鈍かったのです。

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藤孝は、光秀が室町幕府に仕えていた頃からの同僚であり、織田家臣となってからも苦楽を共にした戦友でした。
また、光秀の娘・たまは藤孝の息子・忠興に嫁いでおり、親戚同士でもありました。

その藤孝が光秀の誘いを断り、出家してしまいます。
これは光秀にとって大変ショックな出来事でした。

しかし光秀は諦めず、藤孝へその後も何度も手紙を出しています。


一方、筒井順慶の動きも不鮮明でした。

順慶は信長に臣従する際、光秀が仲介役を務めた縁があります。
また藤孝同様、順慶と光秀は織田軍団では共に戦った戦友であり、さらに文化人としても気があったようで私的にも親しかったようです。

光秀は「順慶は自分に味方するだろう」と考えていました。
確かに順慶は光秀の近江平定に兵を出して協力する姿勢を見せましたが、本人が動くことはなく、煮え切らない態度をとっていました。

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6月9日。

いずれ来るであろう織田軍に備えるため、光秀は京へ戻りました。


つづく