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第44.6回「麒麟が来た」 完


「この戦に勝った後、なんとしても家康殿のお力添えを頂き、共に天下を治めたい。
200年も300年も穏やかな世が続く政(まつりごと)をおこのうてみたいのだ。
もし、ワシがこの戦に敗れても、『後を頼みたい』とそうもお伝えしてくれ。」


山崎の戦いの後、落ち武者狩りで命を落とした明智光秀。

彼は本能寺の変の前日、徳川家康の忍・菊丸に会い、家康への伝言を頼みました。



1615年。本能寺の変から33年後。

江戸幕府を開き初代将軍となった家康は、大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、天下を統一しました。

応仁の乱から続いた長い戦いの時代が終わり、戦の無い穏やかな世が訪れたのでした。

そんな家康を側近として支えた人物がいます。
僧侶・天海(てんかい)です。


天海は陸奥国会津(福島県)の出身であり、いくつかの寺院で学を深めました。
比叡山にいたこともあり、その時には織田信長による比叡山焼き討ちも経験しています。

その悲惨な事件の経験から、「戦の無い穏やかな世」と比叡山焼き討ちの実行犯のひとりである「羽柴秀吉への恨み」を持っていた人物と言われています。


天海と家康は協力して、250年にも及ぶ穏やかな世を作ったのでした。


さて、そんな天海ですがこの人物には謎が多く、不思議な点がいくつかあります。
せっかくなのでいくつかご紹介しましょう。


天海は、なぜか近江の京極氏には好意的でした。
一方、なぜか大和の筒井氏には難癖を付け、罰を与えています。


家康が死去すると、家康を神としてまつるべく日光東照宮の造営が始まります。
その総責任者となった天海は、日光東照宮のすぐ近く、日光が一望できる山に「明智平(あけちだいら)」という名前を付けました。


天海は家康の孫・家光の乳母に明智光秀の重臣であった斎藤利三の娘・春日局を推薦しています。
家光の子の乳母には、同じく明智光秀の重臣であった溝尾庄兵衛という人物の孫娘を推薦しています。


天海の墓は、明智光秀の本拠があった近江の坂本にあります。


そして。

天海のかぶとは「麒麟前立付兜(きりんまえだてつきかぶと)」と言い、かぶとの額部分には想像上の生き物である「麒麟」が付いていました。


不思議なこともあるものです。


おわり