修羅の島 ~九州三国志~ 3

島津氏、九州統一へ

龍造寺氏を降した島津氏は九州統一を目指し、1585年、大友領への侵攻を開始しました。

一方の大友氏は、もう独力で島津氏を倒すことは不可能と悟り、本州中央で勢力を拡大していた豊臣秀吉へ援助を求めることを決めました。
1586年、宗麟自らが大坂城の秀吉に会いに行き、大友氏が秀吉に降伏する代わりにに島津氏を撃退してほしいと頼み込みました。

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天下統一を目指す秀吉は九州へ出陣するきっかけを探していたため、これを承諾。
島津攻めを決めました。

この報告を聞き、焦ったのは島津氏でした。
秀吉が来る前に九州を統一し防備を固めたいと思うも、大友軍の立花 宗茂(たちばな むねしげ)らの激しい抵抗もあり、大友氏を滅ぼしきることができませんでした。

そうこうしているうちに、豊臣軍の先発隊が九州へ上陸してしまいます。
そのため島津氏は九州統一を諦め、豊臣軍の侵攻に備えて守りを固めることになります。


秀吉の九州統一

この先は九州三国志とは関係なくなってしまうため、簡潔に。

島津軍と豊臣軍の戦いは、初めのうちこそ島津軍が勝利したものの、兵力差や装備の差もあり次第に豊臣軍が有利になっていきます。
さらに大友氏の反撃や、島津氏に降伏していた龍造寺氏が豊臣軍に寝返ったこともあり、島津軍は豊臣軍の進撃を止めることができませんでした。

豊臣軍の九州上陸から約1年。
島津氏は降伏しました。
秀吉により、九州統一が成されたのでした。

このあたりは、本場中国の三国志も魏でも呉でも蜀でもなく、晋が統一したことと似ているかもしれませんね。


つづく