修羅の島 ~九州三国志~ 2

大友vs島津

島津氏に滅ぼされた伊東氏の当主・義祐(よしすけ)は、大友氏を頼って落ち延びました。
島津氏の勢力拡大を危険視していた大友氏は、伊東氏を助けることを名目に島津攻めを決めます。

耳川年

1578年、大友軍は大軍で島津領の日向(宮崎県)に侵攻を開始。
旧主である伊東義祐が道案内をしたため、進軍は順調に進みました。

これに対し島津軍も出陣。
両軍は日向・高城川原(現在の宮崎県木城町)で激突しました(耳川の戦い)。

この戦いで島津軍が大勝。
大友氏を追い返し、日向の支配を固めることに成功しています。
さらにこれまで大友氏に味方をしていた相良氏が島津氏に降伏し、南九州は完全に島津氏の勢力下に置かれました。


龍造寺の侵攻

耳川の戦いで大敗した大友氏は、急激に勢力が弱まってしまいます。
多くの家臣が討死にし、さらに大友氏に味方していた勢力も次々に離れていきました。
前述の相良氏もそのひとつです。
相良氏は大友氏を見限り、島津氏へ降伏しています。

この機を逃さず動いたのが龍造寺氏でした。

大友氏の領地へ侵攻し、その勢力を拡大します。

龍造寺

阿蘇(熊本県)の阿蘇氏は以前から大友氏に従属していました。
大友氏が勢力を弱めてからも大友氏の味方をし続けたため、龍造寺氏の侵攻を受けてしまいます。
さらに肥前(長崎県)南部の有馬氏も龍造寺氏に降伏しました。

北九州では龍造寺氏が大友氏の勢力を上回り、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
さらに実質緩衝地帯となっていた小勢力たちが大勢力に吸収されていったことにより、大友・龍造寺・島津の領地が隣接。
緊張感は次第に高まっていきました。


龍造寺vs島津

龍造寺氏の当主・隆信は戦に強かったものの、平時は短気で粗暴な人物で、あまり評判はよくなかったと言います。
それでも右腕である鍋島直茂が短所をうまく補い、勢力を拡大してきました。

しかしついに龍造寺氏が北九州の最大勢力となると、隆信はますます「短気で粗暴」という短所が目立つようになります。
さらに直茂の忠告も聞かないようになってしまいました。
するとそれまで龍造寺氏に従っていた勢力も、次第に隆信を見限るようになり始めました。

1584年、肥前の有馬氏が龍造寺氏から離脱を表明。
激怒した隆信は、有馬氏を滅ぼすべく出陣します。
これに対し、有馬氏は島津氏に救援を要請。
これ以上の龍造寺氏の勢力拡大を防ぎたい島津氏は、有馬氏へ援軍を出すことを決めました。

とはいえ、依然として北には大友・阿蘇が健在であり、大軍を送る余裕はありません。
わずかな兵しか出すことができませんでした。

龍造寺の大軍に比べ島津・有馬連合軍は少数であり、戦力差は圧倒的でした。
それでも優れた戦術で連合軍が勝利。
龍造寺氏は当主・隆信、さらに有力家臣の多くが討死してしまいます(沖田畷の戦い)。


龍造寺の没落

戦いに敗れ、当主と有力家臣を失った龍造寺氏。
隆信のあとは息子・政家(まさいえ)が継ぎましたが、政家は病弱だったようで、父のような覇気はありませんでした。
戦いに勝利した島津氏がその勢いのまま攻めてくる、という噂を聞くと、島津氏に降伏してしまいます。

龍造寺氏の領地は、そのまま島津氏と、龍造寺氏の敗北を聞いて侵攻してきた大友氏によって支配されてしまいました。

沖田畷


つづく