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第44.3回「十兵衛の誤算」


「美しい都、それは約束する。駒殿に伝えてくれるか。必ず麒麟が来る世にしてみせると。麒麟はこの明智十兵衛光秀が必ず呼んでみせると」


光秀は頭を抱えていました。

本能寺で信長を討ったものの、味方が思うように集まらなかったのです。

丹波の一色義定、若狭の武田元明、近江の京極高次らは呼びかけに応じたものの、最も頼りにしていた細川藤孝、筒井順慶らの動きが不鮮明でした。

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なぜ藤孝が動かなかったのか。

詳しいことはわかっていません。

秀吉や藤孝と親しかった京都の医者・江村専斎が言うには、「室町幕府時代は藤孝が光秀の上司だったのに、織田家臣になると光秀が藤孝の上司になってしまった。藤孝はこれを恨んでいたから」のようです。

「麒麟が来る」でも光秀が藤孝と話すとき、昔は敬語だったのがいつしかくだけた言い方になっています。逆に光秀に対して藤孝が敬語を使うようになっています。面白い。

藤孝が動かないことに焦った光秀は、いくつも手紙を送っています。

その中で有名なのが、「私(光秀)が本能寺の変を起こした理由」です。

いわく、「信長は老臣ばかりを重用し、若手を蔑ろにしたからだ」と。
「自分が天下をとったら、後は忠興(藤孝の息子。光秀の娘婿でもあります)に天下を譲る」とまで言っています。

当然そんなはずはないわけで、動かない藤孝に対して光秀が相当焦っていた様子がうかがえます。

最近では、藤孝は本能寺の変より前から秀吉とつながっていた、という説が注目されています。
「麒麟が来る」でも、(おそらく)この説が取られていました。

本能寺の変を秀吉にいち早く伝えたのが藤孝だったと言われています。


では順慶が動かなかったのはなぜでしょうか。

これもよくわかっていません。

「次の天下人が誰になるか」を見極めていたのかもしれません。

順慶は、父が早死したためわずか2歳で家督を継ぎ、それ以降松永久秀と激戦を繰り返して大和(奈良県)の地を守ってきた人物です。
時に足利将軍家に付き、かと思えば織田家にくら替えし、機を見るに敏い人物でした。

光秀が信長を討った後、協力姿勢を見せていますが動きは消極的であり、大きな行動はとっていません。
「光秀の天下が長く続かない」ことを感じ取っていたのかもしれません。

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光秀にとって友人であった藤孝と順慶。

この2人が動かなかったことは光秀の大きな誤算でした。


つづく