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第44.5回「三日天下」


「いつか、戦が終わるって。そういう世を創れる人がきっと出てくる。その人は、麒麟を連れてくるんだ。」


山崎の戦いで敗れた光秀は勝龍寺城に入り、守りを固めました。


この城は光秀にとって、とても大きな意味を持っていました。

勝龍寺城はもともと細川藤孝の城でした。

そして光秀の娘・たまと藤孝の息子・忠興の結婚式は、この城で行われました。
光秀にとって、戦友の息子に娘を嫁に出した思い出の場所だったのです。

たまの嫁入りの2年前、光秀は長年付き添った妻・煕子を亡くし、失意の中にありました。
信長の命令である丹波攻めも過酷な状況であり、そんな中で娘の嫁入りは光秀にとって久しぶりに明るい話題だったかもしれません。

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信長を討った。
だが、戦友・藤孝は自分から離れた。
そして織田軍のライバル・秀吉に戦で敗れた。

光秀は思い出のこの城で、何を思ったのでしょうか。


そしてもうひとつ、大きな意味があります。

それは、第44.1回「新しい天下人」でも書きましたが、信長を討った光秀は天皇から「京の治安維持」を命じられました。

「京を守ること」こそが、「光秀が天下人である証明」なのでした。

勝龍寺城は京の都の入口に当たります。
この城を落とされ京に敵兵が侵入することは、光秀が「天下人の資格」を失うことと同義だったのです。

天皇



その日の夜、光秀は勝龍寺城を脱出しました。

戦に敗れた光秀は、勝龍寺城の放棄で「天下人」の座も失いました。


ですが、光秀には近江(滋賀県)、丹波(京都府北部)と言った領地が残っています。

近江の安土城には明智左馬助の軍もいます。

本拠地・坂本城に戻り、兵を集めて再度秀吉と戦うつもりだったのかもしれません。


しかし光秀は勝龍寺城から坂本城へ向かう途中、地元百姓の落ち武者狩りに会いました。

竹槍で刺され重傷を負った光秀は、その場で自刃しました。


光秀を表す言葉で「三日天下」という言葉があります。

この「三日」とは本当の3日間ではなく、「非常に短い」の比喩です。

光秀の天下は実際には、6月2日の本能寺の変からの11日間と言われます。



6月14日。

光秀の首は秀吉のもとに届けられ、本能寺でさらし首にされました。

潜伏していた藤田伝吾は光秀の死を知り、自刃しました。

明智左馬助は安土城を出て、光秀の居城・坂本城へ入りました。
ここで羽柴軍を迎え撃つも敗れ、城に火を放ち自害しました。

光秀の息子・光慶(十五郎)は丹波の亀山城で自刃しました。

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戦国大名としての明智家は滅亡しました。


6月18日。

潜伏していた斎藤利三が捕らえられ、処刑されました。

この日、柴田勝家が光秀討伐のため出陣しましたが、全てはすでに終わっていました。


6月23日。

光秀、斎藤利三は首と胴体を繋げられ、改めて処刑されました。


7月19日。

明智方として最後まで抵抗していた若狭の武田元明が丹羽長秀に攻められ自刃しました。

近江の京極高次も秀吉に降伏しました。


9月8日。

山崎の戦い後秀吉に降伏した一色義定でしたが秀吉からの心象は悪く、藤孝・忠興親子によって謀殺されました。


明智勢は滅びました。

麒麟は来ませんでした。


つづく