置かれた場所で咲かないでください、なんとなくなら

先日、後輩から誘われて、大学時代に所属していた男子バレーボール部の練習に行くことにした。卒業から7年がたち、体はなまりなくりである。正直、バレーボールができるかどうかさえ怪しい。びくびくしながら体育館に足を踏み込んだ。

体育館に入ると、現役の部員たち12、3人が練習に励んでいた。非常に真面目な印象を受けた。裏を返せば自分たちの代に比べて、なんとなく大人しい印象を受けた。体育館に入った瞬間に矢のように飛んでくる挨拶に迎えられるかと思ったが、「誰だろう?」という戸惑いの目線を向けられるだけだった。

体育館の隅の椅子に腰掛けたところ、誘ってくれた後輩が促したことにより私の周りに部員たちが集まった。線の細い子が多く、「弱いだろうな」と直感した。挨拶もそこそこに練習に戻った部員たちを見ると、基本となるパスの練習で手を抜き、声も出ていない。「あー、これ自分が現役だったらブチギレているな」と思い苦笑してしまった。

本格的なチーム練習が始まる。ミスをしても淡々としていて、いいプレーが出たら「ナイス!」と一言褒めの言葉が入るくらい。非常に滑らかに、スムーズに練習時間が流れていくのである。滞りなく進む練習は効率が良いのかもしれないが、質の低さがどうしても気になってしまった。

試合形式の練習へと移る。
こちらはレギュラーではない部員と私の後輩、私と同期のOBというメンバーである。それなのに、私たち急造チームとレギュラーチームが競るのである。なんなら私たちのチームが勝つ。つまり現役のレギュラーたちは非常に弱いのである。
一人一人がバレーボールをやっていることには変わりないのだが、チームとして、競技としての実力が非常に低い。部員たちは点を取られても、ミスをしても、淡々とした姿勢は変えず、同じ点の取られ方を繰り返していく。
バレーボールはチームスポーツである。そして勝利を目指す競技である。そこの目的がすっぽり抜けたような、自分だけに目が向いた部員が多いことに対して疑問が残った。

練習後、同期とその話になった。
「なんか元気ないよな。熱がないというか」
「わかるわかる。勢いがないというか…どこか他人事じゃないか?」
「それなんだよ、主体性がないよな」
「強くなるとか以前の話だよな。部活だぞっていう」
この話をしているとき、”他人事”というキーワードと、大学というロケーションが相まって、私は大学1年だった2010年の情景がふと浮かんだ。

場所は食堂。入学式を終え、さまざまなオリエンテーションにでていた頃、私はよくクラスの同級生4〜5人と昼ごはんを食べていた。まだ右も左もわからない自分たちは、互いが集めた授業や部活、サークルの情報を交換しながら、大学生活をどう楽しむかを考えているような時期だった。

同級生がぽつりと言った。
「俺さ、早稲田落ちてここきたんだよ。だから何を勉強したいとか特になくて、授業組むの面倒だわ」
一緒に昼ごはんを食べていた同級生たち全員が「わかる」と口にした。彼らの発言をまとめると、自分の志望校ではないところにきたからなんの授業を受けたいのかわからないし退屈、単位さえ取れれば良いから楽な授業の情報が欲しいとのことだった。

そこに強い違和感を持った。私は、部活と勉強を両立させるという目標を持って大学を選び、無事第一志望の学校に進んだ。彼らと同じ境遇ではない。だから共感できなくても当然だと思う。ただ、志望校では無いところに「きてしまった」から、「楽な授業を受けたい」というのは、あまりにも自分の時間を蔑ろにしてないだろうか?そこには全く主体性がない。私は彼らが「わかるわかる」と頷きあっている姿が心底ショックだった。

結局、彼らとはなんとなく距離があいたまま卒業してしまった。SNSや授業の合間にした世間話によると、単位を落としまくり、サークルのメンバーで朝まで飲み、バイトを頑張ったそうだ。大学生活は楽しかったようで、卒業して7年経ついまも定期的にあっているという。彼らは自分が志望していなかった大学に進み、好きなこと、楽しいこと、楽なことをやって生活を充実させたということだ。表面だけなぞれば、かのベストセラーのように「置かれた場所で咲いた」のだろう。それを否定するつもりはないが、なんだか違和感は残り続けてしまう。

大学の男子バレー部の後輩の話に戻る。
今の現役部員たちも、この大学にいること、この部活に入っていること、新型コロナウイルスが蔓延して部活が思うようにはできないことなど、やりきれないことが多く、どこか他人事の人生を生きてはいないだろうか、と思った。

私は自分の意思と努力でこの大学に入り、部活に所属し、バレーボールをやっていた。でも、その状況を手に入れた後も、私は何者でもなかったし、自分から動いて”何か”を掴み取りにいくしかなかった。

大学1年で先輩たちが喧嘩して試合に出られるギリギリの人数しか部員がいなくなっても、全員に声をかけて練習を考え部員同士で喧嘩になっても何時間もミーティングをして重ねここまできた。自分が年上になっても、その泥臭いコミュニケーションも筋力トレーニングも先生への根回しも引き続きやった。自主練に部員が全然来なくても、どうにか同期だけ説得して2人で何時間もパス練習をやったりしていた。そうやって自主性だけを武器に動き続け、実力、気力、体力、そして仲間を勝ち取ったのだった。

もちろん、これは誰にでもあてはまる状況ではない。ましてやコロナという未曾有の状況に追い込まれたら、自分も精神的に追い込まれた気がする。また、貧困にあえいでいたり、暴力を受けていたり、体質や病気によって状況が違う人もいる。全員が全員、自主性を持って頑張れる状況じゃないことがあるかもしれない。そしてそうやって自主性を持って生きるという道を、責任を持って自ら排除している人もいるであろうから、その人たちに強制するつもりはない。

でも、部活に入ったのであれば…
練習にある程度これている状況の彼らであれば…。
自主的に動く環境は整っているだろう。自分たちが履いた下駄をもっと意識しないとダメだ。自分で掴み取るために、決して簡単ではない「部活に入る」という選択をして、週5日の夜を体育館で過ごしているのだから。

置かれた場所で咲くのは素晴らしい。
でも、自分の状況を受け止め生活を楽しむことと、全ての思考を停止して目標や目的を見ずにその場にいることは違う。
置かれた場所で”なんとな〜く”咲くことはやめてください。お願いですから。あなたが置かれた場所をもう一度考えてみてください。きっとその土から抜け出す方法だってあるはずです。

<環プロフィール> Twitterアカウント:@slowheights_oli
▽東京生まれ東京育ち。都立高校、私大を経て新聞社に入社。その後シェアハウスの運営会社に転職。
▽9月生まれの乙女座。しいたけ占いはチェック済。
▽身長170㌢、体重60㌔という標準オブ標準の体型。小学校で野球、中学高校大学でバレーボール。友人らに試合を見に来てもらうことが苦手だった。「獲物を捕らえるみたいな顔しているし、一人だけ動きが機敏すぎて本当に怖い」(美香談)という自覚があったから。
▽太は、私が尖って友達ができなかった大学時代に初めて心の底から仲良くなれた友達。一緒に人の気持ちを揺さぶる活動がしたいと思っている。
▽好きな作家は辻村深月

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